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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

虎御前山(1) 滋賀県長浜市

2020年08月14日 04時04分30秒 | 滋賀県
大変久しぶりです。
名古屋では、「やっとかめ」と言うそうです。
コロナ禍など外出をしようという気をそぐ出来事が続き、「史跡めぐり」は開店休業状態でした。

しかし、ようやく出てみようかという気持ちになり、出かけました。
はじめは、滋賀県小谷城周辺の城です。というのは、愛教労城の会でここに行ってみてはどうかという話が出ていて、行ったことがない私にとって、大変興味深い話だったからです。虎御前(とらごぜん)山城、丁野(ようの)山城、中島城です。山本山城にも行きたかったのですが、暑いのでやめました。コロナよりも熱中症の方が差し迫る危険でした。

虎御前山城と言いますが、一つの城ではありません。実態は織田信長とその家臣たちの陣跡です。

虎御前山案内図

図の現在地に掲げられていた案内図ですが、「伝〇〇陣地跡」というのがたくさんあります。下から多賀貞能(さだよし)、蜂屋頼隆、丹羽長秀、滝川一益(かずます)、堀秀政、柴田勝家、木下秀吉の名前があります。みなさん織田信長の家臣又は味方になっている武将です。
何のための陣かと言えば、案内図の上の方に記されている小谷山、つまり浅井長政とそれと同盟している朝倉義景と戦うためです。

織田信長は、永禄11年(1568)将軍足利義昭を奉じて京都に入りました。その後畿内の武将たちを攻め、天下統一への道を進み始めましたが、元亀元年(1570)朝倉領の敦賀手筒山城を攻めているときに、突然同盟関係にあった浅井長政の謀反を知り、撤退する羽目になりました。この辺りから、信長に対する包囲網が作られ始め、浅井、朝倉、比叡山、大坂本願寺、将軍義昭、そして最強の戦国武将武田信玄をも敵に回すという状況が生まれました。しかし、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を一応破り、比叡山は焼き討ちにし、将軍義昭も追放して、どうにか、この包囲網を破りつつありました。
小谷城の攻防戦は、こういう中で戦われました。虎御前山は小谷城の目と鼻の先。浅井氏にとってこの山を取られるということは、かなり致命的なことだと思います。浅井氏の本拠地小谷城の目前まで侵攻されていること、さらに今は木が茂っていてあまり見えませんが、この虎御前山から小谷城は丸見えなのです。ここに織田勢が陣を構えたということは、もうそれだけでも戦いの趨勢は決まっていたように思いました。

伝多賀貞能陣地跡

伝多賀貞能陣地跡

最初は「伝多賀貞能陣地跡」です。多賀貞能という武将を初めて知りました。説明板には、以下のようにありました。
多賀貞能は豊後守貞隆の子。近江高島郡を領し各地を転戦する。元亀3年(1572)の江北出陣に際し織田信長に従軍、虎御前山に陣を構え、戦功をあげた。しかし、天正10年(1582)の山崎合戦に応じたため、戦後所領を没収され、京都東福寺に蟄居の身となった。貞能には男子がなく、堀秀正の弟秀種を養子とする。


矢合神社
しばらく行くと神社がありました。「矢合(やあい)神社」です

矢合神社

虎御前山の南側を八相山と呼び、ここも信長は、陣を築いたようです。八相山は「はっそうざん」と読みますが、「やわいやま」とも読みます。「矢合神社(やあいじんじゃ)」の名前は、この読みから来たのかも知れません。

伝蜂屋頼隆陣地跡
その上には蜂屋頼隆陣地跡がありました。


蜂屋頼隆陣地跡

蜂屋頼隆とは、説明板によれば
織田信長に仕えて頭角を現す。元亀3年(1572)の江北出陣に従軍。虎御前山に陣を構え、柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに小谷の町を破った。その後も越前朝倉攻め、伊勢長島攻めなど各地を転戦している。近江国愛知郡肥田城主に封じられたのはこの頃か。天正10年(1582)に勃発した本能寺の変直後、頼隆は新たに封じられた和泉岸和田に居たようだが、その後の山崎合戦で羽柴秀吉に属し主君の仇を討った。同13年(1585)越前敦賀城主に転封、同16年(1588)には「羽柴」の姓を与えられ、羽柴敦賀侍従と呼ばれた。後嗣がなく、家は断絶となった。
とあります。大谷吉継が敦賀城に入る前の城主だったようです。

除病神疫
展望台がありました。登ってみると眼下に「田んぼアート」がありました。

田んぼアート

平安時代に比叡山延暦寺座主良源が、都に疫病が流行した時、自ら角を生やした鬼の姿「角大師」になり、その姿を版木にして、お札を作り、疫病を鎮めたという伝承が残っているそうです。

コロナウィルスの拡散防止を願い、田んぼアートが作られたのだと思いました。

虎御前山 つづく

小谷城(5) 滋賀県長浜市

2019年04月09日 06時44分37秒 | 滋賀県
大広間
黒鉄門を上がると、大広間が見えます。ここは、小谷城の曲輪の中で一番大きな曲輪です。建物があったことも確認されているそうです。おそらく浅井三姉妹は、秀吉や信長が攻めてくる中、お市の方とここの広間にいたことでしょう。そして、父である浅井長政より、お市と共に逃げるように勧められたときは、どんな気持ちだったのでしょうか。


大広間


大広間・本丸イメージ図(現地案内板)

大広間の奥の方が小高くなっていて、いわゆる本丸がありました。

本丸

本丸

本丸は、周りを石垣で囲っていました。今は草が伸び放題ですが、当時は石垣がそびえ、立派なお城だったのだろうと思います。長政、お市と三姉妹は、いよいよの時に、この本丸の方に上がり、少しでも敵から遠ざかろうとしたのでしょうか。想像は尽きません。

本丸の上

本丸は、「鐘丸」とも呼ばれていたそうです。案内板では、機能をよく表していると書いてあったので、本丸の中に鐘があり、時を知らせたり、敵が来たとか、城からのいろんな情報を家臣や城下に知らせたりする役割があったのだと思います。しかし、攻められたときは、まさに本丸、最後の砦だったのでしょう。

大堀切
この本丸の北は、大きな堀切になっています。

大堀切

本丸より南側の大広間、馬屋敷などの一連の曲輪群と本丸より北の曲輪群を切り離すためだそうです。本丸より北は、中丸、京極丸、小丸、山王丸・・・と曲輪が続きます。京極丸は、その名の通り守護である京極氏を居住させた曲輪、小丸は、信長との戦いの時、父久政が立て籠もった曲輪です。久政と長政は実はあまり仲が良くありません。久政から子である長政が無理やり実権を握った感じがあります。
そうすると、ここに堀切を作ったのは、外部の敵の侵入もありますが、内部からの侵攻(守護京極氏、父久政)から守るためだったのかも知れないなあと思いました。
しかし、信長という外敵が攻めてきたのです。おそらく父子共に力を合わせて、防戦に当たったのだろうと思います。

さらに驚いたのは、この堀切からの侵入を防ぐために本丸から土塁が伸びていて、二重の防御になっていることです。

本丸西の土塁

しかし、信長との戦いでは、秀吉に北の曲輪群を攻められ、京極丸を落とされました。京極丸は、久政と長政の結節点の役割をしていたので、久政と長政は分断され、やがて織田軍に攻められる中、久政は自刃してしまいます。そして、ついには本丸も織田軍によって攻められ、あえなく落城してしまいます。長政は赤尾屋敷に逃れ、そこで自刃します。

大堀切から上は、一昔前の曲輪になっています。
これから先は、またの機会にお伝えします。

小谷城 いったん終了

小谷城(4) 滋賀県長浜市

2019年04月08日 10時37分58秒 | 滋賀県
首据石
馬洗池のすぐ上に大きな石がありました。「首据石」というそうです。初代の浅井亮政が六角氏と戦った時、家臣の今井秀信が敵に内通していることを知り、禅照寺で殺害し、ここにさらしたそうです。「俺を欺くとこうなるぞ」ということでしょうか。


首据石

赤尾屋敷
首据石のすぐ向こうに赤尾屋敷への標識がありました。赤尾屋敷は、浅井長政が織田信長に攻撃され、落城間際の時に、逃げ込んだ屋敷です。


赤尾屋敷への道

浅井長政は、本丸よりうって出て信長軍と戦おうとしましたが、どうやら、押し返すことができず、やむなく赤尾屋敷の方に逃げ込んだようです。そして、ここで自刃したそうです。

赤尾屋敷は、大広間の下の道を回るようにいきます。ちょうど本丸の下(東)が赤尾屋敷になります。その途中におびただしい石が転がっていました。大広間にあった石垣でしょうか。


赤尾屋敷への道の途中の石垣

赤尾屋敷は、3段になっているそうです。本丸を守るためにここに屋敷を構えたのでしょう。

赤尾屋敷イメージ図(現地案内板)

そして、浅井長政自刃の碑が建てられていました。享年29歳だそうです。あまりにも若いのでびっくりでした。この若さで一国の主となって、戦国の世を生きていたんだと思うと、よっぽど優れた人だったんだなあと思いました。


赤尾屋敷にあった浅井長政自刃の碑

桜馬場
赤尾屋敷から戻り、本道に入り、すぐ向かい側は桜馬場です。馬場というので、馬の稽古をした場所と思われます。馬洗池、御馬屋のすぐ近くにあるので、三つの施設は一体のものとして使われていたと思います。


桜馬場イメージ図(現地案内板)

ここに浅井氏と家臣の供養塔がありました。地元の方が浅井氏400年祭に際して昭和47年に建立したのだそうです。地元の人に今でも慕われている浅井氏はすごいと思いました。


浅井氏と家臣たちの供養塔



この馬場からはとても良い景色を見ることができました。


桜馬場からの眺め
左の山は虎御前山①、正面は琵琶湖②、琵琶湖に浮かぶ右側の小さな島は竹生島③、竹生島の右は山本山④、山本山の手前は丁野山⑤です

いい景色を満喫した後は、いよいよ大広間、本丸です。

黒鉄門

黒鉄門

大広間への入り口は黒鉄門です。黒鉄門というのは、本丸の入り口になっていて、鉄板を施した扉を使っている場合が多いようです。この門も鉄製の扉を持つ門だったのかも知れません。そして、両脇はがっちり石垣で固められていました。


黒鉄門、向かって右側の石垣

小谷城(3) 滋賀県長浜市

2019年03月28日 17時13分07秒 | 滋賀県
虎御前山展望所
番所を過ぎると、「虎御前山展望所」という曲がり角があり、虎御前山が正面に見えました。虎御前山は、織田信長が小谷城を攻めたとき、前線基地を置いたところです。小谷城から山の様子が手に取るようにわかります。逆に、虎御前山からは小谷城の様子がはっきりと見えていたのでしょう。

虎御前山展望所

御茶屋
展望所からさらに登っていきますと、御茶屋という曲輪があります。なかなか風流な名前の曲輪で、本丸までの道の途中で休憩でもしたのでしょうか。案内板には、「『御茶屋』という風雅な名前には似つかない軍事施設である」とありましたので、「御茶屋」はあとで付けられた名前なのでしょうか。


御茶屋イメージ図(現地案内板)

この御茶屋曲輪の奥の方に行きますと、竪堀のような跡がありました。あとでいただいた案内図で確認すると、確かに御茶屋から御馬屋敷、桜馬場にかけて清水谷に向かって、幾本もの竪堀が掘られていました。

御茶屋奥の竪堀?

さらに曲輪の中には、大きな石が転がっていました。はじめは石垣の崩れたものかと思いましたが、案内板によれば、「西側に庭があった」とあるので、この石は庭にあったものだと分かりました。やっぱり、庭を眺めてお茶を飲んでいたのではないでしょうか。

御茶屋の巨石(庭石)

また、御茶屋は土塁で仕切られていたということですが、その土塁もありました。

御茶屋を仕切る土塁

土塁は、曲輪の端の方にもありました。曲輪の南西方向、上がってくる登城道が見える方向です。ずいぶん低くなっていますが、わずかに高まりがあり、土塁であったと思われます。


御茶屋西側縁の土塁

こうやって見てきますと、りっぱな軍事施設であることも頷けました。

馬洗池・御馬屋
次は馬洗池です。山の中腹に水をたたえた池がありました。


馬洗池

400年以上もたっているのに、水が枯れずに残っていることに驚きました。池の周りには石垣があり、池が崩れることを防いでいました。立派な池でした。

その奥は「御馬屋」という曲輪になっていました。


馬洗池・御馬屋イメージ図(現地案内板)


御馬屋全景

この御馬屋の周りはどうなっているのか、また端まで見に行きました。すると結構高い土塁で囲まれていることが分かりました。


御馬屋の土塁

小谷城(2) 滋賀県長浜市

2019年03月18日 10時11分53秒 | 滋賀県
お久しぶりです。
またまたブランクができましたが、再会です。
小谷城の続きからです。



しばらく登っていると「間柄峠」、「望笙峠」がありました。特に「望笙峠」では、眺望が開けていました。

望笙峠からの眺望

金吾丸
さらに登っていきますと、「金吾丸」の標識がありました。ここまで結構な登り坂でちょっときつかったです。金吾丸は、大永5年(1525)、初代浅井亮政の代です。六角高頼が小谷城に攻めてきたとき、越前より朝倉金吾教景が援軍で、ここに陣を敷いたところから、金吾教景の名を取って金吾丸と名付けられたそうです。


金吾丸跡

なお、金吾丸の出入り口らしきところに石垣らしきものを見つけました。


金吾丸の「石垣」?
写真は外からみて左側の「石垣」です。もちろん案内では石垣の遺構が書いてないので、違うかもしれません。

金吾丸を超えて、少し下りますと元の登城道と合流し、やがて番所が見えてきました。

番所

番所跡


番所イメージ図(現地案内板)

この場所跡の案内にイメージ図がありました。こういうのは、とても嬉しいです。昔のイメージが膨らんで「この辺に石垣があった」とか、「この辺に堀があった」など遺構を見る手助けになります。これからあとの遺構にもこのイメージ図がついていたので、とても助かりました。

番所跡をよく見まわしますと、奥の方にイノシシの捕獲器がありました。もしかしたら、クマやシカのためのものかも知れません。

番所跡にあった「イノシシ捕獲器」

そして、イメージ図にあった「北側の石垣上に一段高い平地がある。」の石垣がありました。


番所の石垣