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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

横山城(1) 滋賀県長浜市

2020年10月21日 11時31分03秒 | 滋賀県
お久しぶりです。コロナ禍の中、ついつい出かけることがおっくうになっていました。しかし、知人がいろいろと山城の散策を行っていることで、何かせかされているような気がして、とりあえず、滋賀県の横山城を訪ねました。
ということで、あまり下調べをせずに行ったので、いくつか失敗をしてしまいました。

出発は横山城のふもとのお寺大原観音寺です。

大原観音寺山門

山門前の池の横を通り、山に入りました。すると、すぐに道が三つに分かれていましたので、真ん中の道を行きました。

横山城の登城路(滋賀県教育委員会「近江城郭探訪」2006より)

かなり急な(私にとって)登り坂の山道でした。しかし、なかなか着きません。感覚としては、上の図の大原観音寺の北を登るコースを選んだつもりでしたが、途中で石田町からのコースとぶつかってしまいました。

峠の道

この峠の道から頑張って歩いてようやく横山城の南城が見えました。横山城は、南城と北城があり、北城から南西に曲輪が延び、Yのような形になっています。

横山城概要図(現地案内板)

曲輪の中に大きな梵鐘がありました。

南城の梵鐘

この梵鐘は、下の大原観音寺の案内板によると、以下のようです。
「昭和初期に昭道が玉泉院で僧となり、修行托鉢に毎日出かけ信者の方に懇願し、荒れた城跡の整備に力を入れ、昔を偲んで梵鐘を寄進し、三尊佛及び登山道~城跡~下山道に33体の観音様を祭られました。
 この梵鐘は、昭和12年に朝日区民の大人から子供までが総出でソリに乗せ城跡まで運んだそうです。
 戦時中に寺の鐘は全て軍の命令により国家に強制的に供出させられ、色々な兵器に使用されましたが、歴史ある古い観音寺の梵鐘は供出からまぬかれました。心配された城跡の梵鐘は、昭道和尚が
「戦没した武士の霊と他国との戦争で戦死した軍人の霊を誰もが鐘をついて冥福を祈り追弔するための梵鐘」と強く主張され同じく供出から免れ今日に至っています。
 梵鐘堂は、三十数年前に朝日区民により一度修復されたそうですが、倒壊寸前と傷みが激しくなったため改修(建替え)工事を行いました。 平成26年10月吉日」

「観音寺山を愛する会」による説明です。

この梵鐘が戦争の兵器にならずに済んでよかったと思います。人々の安全や平和を祈るための梵鐘が、真反対の人を殺傷する武器になるという、戦争の狂気を改めて見た思いでした。

丁野山砦 滋賀県長浜市

2020年08月19日 05時49分17秒 | 滋賀県
中島砦をあとに丁野山砦に登りました。普段は何でもないような登りの勾配でしたが、暑さのため、休みやすみの登城になりました。

丁野山砦案内板

小谷丁野町の南西に存在する岡山の最高点・標高169m(平地からの比高70m)の場所に存在する砦跡である。
北・北東・東・南に支脈が伸びるが、それぞれに附属する曲輪が並んでいたことが「丁野山古砦の図」から読みとれる。同図によれば、永正15年(1518)7月に浅井亮政が築城、天正元年(1573)には朝倉義景の軍勢が小谷城の加勢に入ったとある。また、北の尾根(土砂採取のため、昭和37年頃に消滅、明治時代まで八幡宮があった)を「八幡ノ岡」、北東の尾根(現岡本神社の前身・山王権現があった)を「山王台」、東の尾根を「大鳳山」と呼んでいた。さらに、南の尾根は「山脇山」に連なる。 南北を大規模な堀切で画された、ほぼ正方形な主郭(現在地)には、周囲に横堀と犬走りを配しており、土塁を使用しない特異な形状を保っていることが、現状から観察できる。「信長公記」によれば、小谷落城直前の天正元年(1573)8月12日、「ようの山」には越前平泉寺の玉泉坊が籠城していたが、信長の攻撃が迫ったので降参し、越前国へ落ちのびたとある。「丁野山古砦之図」によっても、平泉寺衆徒や越前玉泉坊、それに堀江甚介など、越前朝倉氏の家臣たちが、信長の小谷城攻めに対抗するため、布陣した場所であることが記されている。

まず驚いたのは、枡形虎口があったことです。

枡形虎口

南側には大きな横堀がありました。

南側の横堀


南東の竪堀

南側は横堀と竪堀で遮断しています。結構大きなものでした。

本丸の北側も物見?との間に大きな堀がありました。

本丸北の堀

砦の一番北側には堀切があり、北からの侵入を防いでいました。

北側の堀切

丁野山砦は堀がしっかり残っており、見ごたえのある砦でした。案内板が言うように、中島砦には土塁があり、丁野山砦には土塁がありません。丁野山砦は曲輪が単郭のように見えますが、中島砦は2つの郭がありました。
この違いは、先回述べた「中島砦の敵は丁野山砦」に繋がる考え、つまり築城者が異なるのかもしれません。すぐ近くの砦なのに、こんなに違うのはどうしてか、謎が残る2つの砦でした。

中島砦 滋賀県長浜市

2020年08月18日 05時20分15秒 | 滋賀県
虎御前山の次は、北にある中島砦と丁野砦です。いったんは、虎御前山の南の中野町の駐車場に戻り、そこから、県道263号を北上します。すると、「中島城跡」という大きな看板が見えてきました。


中島城跡の看板

看板が見えた道の隅に車を止めさせてもらい、いよいよ中島城に登りました。

中島砦縄張り図(現地案内板)

案内板によれば
丁野山城がある岡山から東へ出る支脈の頂部(標高113m、平池からの比高差34m)の場所に存在する砦跡である。地域に伝わる「丁野山古砦之図」によれば、この支脈を「大鳳山」と称し、中島砦から東の尾根上にも、三田崎六郎右衛門ら朝倉氏家臣が立て籠った砦跡が存在したが、現状では明確に確認しえない。本城には浅井氏の重臣である中島宗左衛門直親が、織田信長の小谷城攻撃に対抗するため、布陣した場所と伝えることから、城名がつけられたと推定される。城の構造は、約10m四方の主郭の周囲を、高い土塁が囲繞(いじょう、取り囲むこと)し、虎口があいた西側に、やはり土塁で囲まれた出丸(現在地)を配する形状である。また主郭東側の横堀、東の尾根に設けられた堀切なども残りが非常に良く、小規模ながら近世城郭に近づいた、非常に進化した形状をなしている。


主郭

主郭北東に位置する土橋と堀

中島砦の敵は丁野山砦?
さて、ネット「城郭探訪」で面白い見解が出ていましたので、それを紹介します。(要約)
曲輪が二つあるとき、主郭に対してもう一つの曲輪は、主郭を守るために造られることが多い。先ほどの図の左側を主郭とするなら、右の曲輪は主郭を敵から守るために造られている可能性が高い。ということは、中島城は、敵を西、つまり丁野山砦に想定していることになる。
というのです。

面白い見解だと思いました。確かに、三河の古宮城を訪れたとき、堀切で切られた二つの曲輪のうち、半分は主郭の馬出の役割をしている曲輪だと聞いた気がします。
そうすると、中島砦と丁野山砦をセットにして浅井側の砦と考えてきましたが、そう単純ではないことになります。織田側が中島砦を落とした後、急きょ丁野山砦攻略の為に改造したのでしょうか。丁野山砦などの落城から朝倉義景の越前への敗走は「信長公記」では10日間ぐらいの出来事と記されています。砦を改修するには、短すぎます。
さらに「信長公記」では、8月12日、織田側が落とした城は、「大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、疋檀、敦賀、志津が嵩、若狭粟屋越中所へさし向ひ候付城、共に拾ヶ所退散。」とあります。
なんと、中島砦が入っていません。(ようの山に含まれてしまっているのかも知れません)ということは、もっと以前に織田側に攻め落とされ、改修されていたのかも知れません。

いやいや丁野山砦と中島砦は仲間だよ
なお、小冊子「小谷城と城下をゆく」小谷城址保勝会(小谷城戦国歴史資料館内)・小谷城下まちめぐりウォーク実行委員会2010年発行に「丁野山城絵図」というのが「本書で初公開」として紹介されています。その図では天正19年辛卯九月図画之とし、おそらく天正元年の小谷城攻防戦の様子として、丁野山を本丸(玉泉坊)、大鳳山(中島砦)を出丸(中嶋宗左衛門)としています。つまり、天正元年丁野山砦と中島砦は浅井側に立って戦っていたということを示しているのです。

虎御前山(3) 滋賀県長浜市

2020年08月16日 04時39分40秒 | 滋賀県
伝堀秀政陣地跡
この礎石建物復元の次は堀秀政陣地跡でした。

堀秀政陣地跡

堀秀政という武将も初めて知りました。堀秀政は、美濃生まれで父は齋藤道三の家臣だったようです。しかし、秀政は幼いときから信長に仕え、小姓として可愛がられたようです。その後武将としても頭角を現し、豊臣秀吉の家臣となり、最終的には小田原攻めの時に病死したようです。急死だったようです。

伝信長陣地跡
いよいよ信長の陣地跡です。手前に切岸が施されていました。

伝信長陣地跡

この陣地跡の入口は「長枡形虎口」になっていました。こういう名前の虎口は初めてでしたが、枡形虎口が細長くなっているということでしょうか。

信長陣地跡の図(虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会「虎御前山の散歩」長谷川博美氏作)
この図の頂上部分の窪んでいるところが長枡形虎口と思われます。


長枡形虎口

信長の陣地跡だけにこのような厳重警戒の虎口が設けられている気がしました。

伝木下秀吉陣地跡
さらに進むと木下秀吉陣地跡になっていました。

木下秀吉陣地跡

木下は藤吉郎ではないのか? と思い、ネットで豊臣秀吉の名前の変遷を調べたところ、以下のように5回名前を変えていました。秀吉は一貫して変えていないようです。姓がコロコロ変わっています。「平」「藤原」はいかにも権威を金で買ったという印象です。織田信長は「平」、徳川家康は「源」を名乗り、自分が武家の棟梁であることを権威づけています。秀吉は最終的には源氏でも平氏でも藤原氏でもない「豊臣」という姓を天皇に認めさせ、自分とその子孫が歴史上の名門になることをめざしたようです。

【木下藤吉郎秀吉】 信長に仕え始めたころ
【羽柴秀吉】 長浜城を与えられたころ
【平秀吉】 本能寺の変、山崎合戦の後のころ
【藤原秀吉】 関白になったころ
【豊臣秀吉】 太政大臣になったころ

ネット「万屋満載」を参照


木下秀吉陣地跡(虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会「虎御前山の散歩」長谷川博美氏作)

この陣地は小谷城に近いせいか、北側に土塁が幾重にもありました。

木下陣地の土塁

また、中心地のすぐ北側に池のような堀がありました。案内板で「かざし堀」と命名されていました。

木下陣地、かざし掘

このさらに北側に柴田勝家の陣地があるのですが、猛暑のため行くのを断念しました。

虎御前山 おしまい

虎御前山(2) 滋賀県長浜市

2020年08月15日 05時03分01秒 | 滋賀県
伝丹羽長秀陣地跡
とても広い陣に出ました。丹羽長秀の陣です。さすが織田の中でも幹部クラスの家臣だけあると負いました。



丹羽長秀陣地跡

この後、古墳群が次々と現れ、虎御前山の砦がこうした古墳を利用して築かれたことがよく分かりました。

信長の軍用道
「信長の軍用道」という看板が目に入りました。
何万もの兵を動かし合戦に勝利するには、兵士の移動や兵器・弾薬の輸送、そして何よりも兵糧(兵士の食糧)の確保と調達が最も重要である。「信長公記」によると信長は、小谷城と対面する虎御前山の兵力を有効に配備し、自由自在な転戦を可能とするため軍用道を築いた。道幅は7.3mで敵方(東側)に面して高さ3.78mの築地(ついじ)を築いた。移動する兵や物資の数が外から見えないように徹底したのである。さらにこの築地塀の東側には濠を掘り、水を関(堰)入れて防備を一層厳重にしたという。宮部から三川にかけての道路が条里に沿わず斜めになっていることから、国友義一氏はかつての軍用道の名残を留めるものではないかとされている。



「信長の軍用道」の看板

信長が小谷城を攻めるために軍用道を作ったという話です。戦国時代は、軍隊が戦場に機敏に移動するために、かなり兵隊のための道路が整備されたらしいです。

伝滝川一益陣地跡
そして、滝川一益の陣地跡になります。

滝川一益陣地跡

近江は礎石建物が一般的?
この陣地跡を過ぎると、「礎石建物」の復元がありました。

礎石建物復元

礎石建物説明版

説明によると
当地に復元した礎石建物は、小谷城城跡をはじめ太尾山城跡、鎌刃城跡などでも発掘されており、当時の山城においてごく一般的な主要施設であったといえる。復元に用いた礎石は大津市伊香立の生津城(1560年頃)跡で発掘されたものであり、4間四方(1間1メートル)の建物(4メートル四方)であった。側柱の中に束柱があり、床張りの高床建物であったことが分かる。このため一部床を復元しそれをベンチとした。前面間近に横堀があり、東には巨大竪堀がある。そして西に琵琶湖と竹生島が遠望でき、北側には堀秀政の陣が認められる。この場所は虎御前山城跡のなかでも要の位置を占めたといえる。


礎石建物復元説明図(図解の部分)

以前高知県の岡豊城を訪ねたとき、「礎石建物は高層の建物が可能になる。また、屋根も瓦ぶきが可能になる」ということを教えていただき、いわゆる天守に相当する建物を造ることが可能になると教えていただきました。そういう点で、礎石建物は、戦国時代の建物の歴史の画期をなすことだと言われました。

でも、この説明だと「礎石建物は、小谷城城跡をはじめ太尾山城跡、鎌刃城跡などでも発掘されており、当時の山城においてごく一般的な主要施設であったといえる。」といいます。
えっ、本当?
この前行った足助城は掘立柱で、それでも2階建ての建物「高櫓」がありました。近江では山城に礎石建物の主要建物が一般的にあったのでしょうか。「当時」というのがいつ頃なのか、詳しく聞きたいと思いました。

虎御前山 つづく