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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

国吉城学習会 福井県美浜町

2019年08月06日 13時20分38秒 | 福井県
国吉城歴史資料館10周年イベントの一環として、国吉城に関連するテーマでの学習会が行われました。講演内容は、武田氏に関するものでした。武田氏といっても甲斐の武田信玄の武田氏ではありません。戦国時代、同時期に若狭の守護であった武田氏のお話です。この武田氏は、国吉城の城主である粟屋氏の主君に当たります。そこで、この武田氏についても学習して、国吉城を多面的に考えようということです。

学習会の講師 有馬香織さん(右)パソコンをいじっている方は、館長の大野さん

有馬さんは、現在一乗谷朝倉遺跡資料館に務めていらっしゃいますが、もともとは、若狭歴史資料館の学芸員でした。このたび一乗谷朝倉遺跡資料館の拡張に伴い、そちらに務めることになったとのことです。

「粟屋勝久の主君・若狭武田氏の文化と力~本家の正当性~」というタイトルで、いろいろとお話をしていただきましたが、一番印象的だったのは、「若狭の武田氏こそが本家である」ということでした。

戦国時代の武田氏といえば、甲斐の武田信玄を思い浮かべ、他に武田氏という武将がいたとしても、それは傍流で、甲斐武田氏こそ本家と思ってはいないでしょうか。私もそう思っていました。しかし、今回の講演で武田氏の本流は、若狭の武田氏だということが分かりました。

武田氏は、もとは清和源氏で、新羅三郎義光(1083~1087年の後三年の役で活躍)の三男の子孫だそうです。常陸国那珂郡「武田郷」から、甲斐国、安芸国(今の広島県の一部)、そして若狭国へと「総領家」移動したそうです。

若狭武田家が本家であることの証拠は、以下のようです。
①弓箭口伝(きゅうせんくでん)
流鏑馬(やぶさめ)などの技術を武田家においては、宗家にしか伝来していない。ウィキペディアによれば、以下のように伝来されたそうです。(下の系図は講師の方の説明ではありません。)

清和天皇‐貞純親王‐源経基‐満仲‐頼信‐頼義‐義光‐義清‐清光‐武田信義‐信光‐信政‐信時‐信綱‐信宗‐信武‐氏信(安芸武田氏)‐満信‐信繁‐信栄(若狭武田氏)‐信賢‐国信‐信親‐元信‐元光‐信豊‐信時‐義統‐義親‐信恭‐信重‐信直‐細川藤孝
※青色は若狭武田家

②「大善太夫」「伊豆守」の名乗り 
この名乗りも武田家宗家に伝わる名乗りだそうで、若狭武田氏は、2代信賢(大善太夫)3代国信(大善太夫)4代信親(大善太夫)5代元信(大善太夫・伊豆守)6代元光(大善太夫・伊豆守)7代信豊(大善太夫・伊豆守)8代義統(大善太夫・伊豆守)というふうに歴代受け継がれていること

以上のことから、若狭武田氏こそ甲斐武田氏、安芸武田氏の総領家ではないかと強調しておられました。

そして、若狭という地域にもっと誇りを持っていいと言っていました。

現在は、原発銀座ということで、産業がない、漁村の地域というイメージがありますが、戦国時代は、京都に近いこともあり、日本の政治文化の中心地のひとつであったようです。

国吉城 本丸 福井県美浜町

2019年07月08日 11時46分32秒 | 福井県
狭くなった石垣づくりの堀切
国吉城の石垣について学習した後には、本丸に上がりました。その途中に堀切がありました。

本丸と腰曲輪の間の堀切

前回見たときは、たくさんの石仏が使ってあることに驚きましたが、今回分かったことは、この堀切、はじめはもっと幅が広かったというのです。石垣で造った段階で、内側に石垣を造ったため、幅が狭くなったというのです。では、なぜ狭くなるのに、石垣づくりにしたかといえば、やはり「見せる」城として機能したからだろうとおっしゃっていました。
武器としての石仏
なお、この石仏については、城主が宗教を蔑ろにしているということではなく、もう誰も祀っていないような石仏を使っているとのことでした。また、石垣として使用したほかに、上から敵に投げつけるために持ってあげられたという可能性もあるとおっしゃっていました。

鏡石
次に本丸の虎口ですが、立派な石垣づくりの枡形のものだったそうです。しかも、大きな石(鏡石)があるので、ここは、非常時の時だけでなく、日常的に客をもてなすときにも使用していたのではないかとおっしゃっていました。

本丸虎口の鏡石

天守閣があった?
さらに本丸については、ここに天守閣があったのではないかともおっしゃっていました。その台になった場所が南隅櫓台です。ここから土台の石(礎石)を抜き取った跡が見つかり、隅櫓台のまわりに石垣とみられる石が散らばっていることから、ここに天守閣のようなシンボル的建物があったのではないかとおっしゃっていました。

南隅櫓台 人が立っている所

このあと、本丸東虎口やⅡ郭の方に行きましたが、雨がひどくなってきたので、下山することになりました。

特別講師の萩原さんや「城主」と呼ばれていた館長の大野さんのお話を聞きながら、この国吉城を見学しましたが、豊臣政権下のお城という性格をはっきり見ることができ、この城に対するイメージががらっと変わりました。見学に来てよかったと思いました。

国吉城見学 おしまい


本丸からの石垣 福井県美浜町

2019年07月05日 05時43分18秒 | 福井県
二の丸をさらに登っていくと、いよいよ本丸です。本丸に到着するまでに大きな石が斜面にありました。

本丸からの斜面にみえた石

これらの石は、どうやら石垣を造った時の石だったようです。

石垣の角の石組

上記写真の石の位置 青い矢印がさす部分

これらの石垣は、城下町を意識して作られたそうです。

石垣の斜面

上の写真で本丸は頂上です。本丸からの斜面は、2段から3段になっていますが、ここに石垣を組み、城下町から見上げると一つの面となって高石垣のように見えたのではないかと館長はおっしゃっていました。いわゆる「権威の象徴としての石垣」です。このような石垣づくりは、豊臣時代、徳川時代になってからのもので、木村氏、京極氏の時に造られたのではないかともおっしゃっていました。

国吉城 二の丸 福井県美浜町

2019年07月04日 06時25分01秒 | 福井県
ふもとの居館跡はさらっと見て、いよいよ山城です。


山城めざして登る参加者の皆さん

難所の急こう配を過ぎると二の丸が見えました。


二の丸の食い違い虎口 左の人は、萩原さん

ここで、食い違い虎口の説明や土塁の説明がありました。
館長からは、「今までの登城道だと、この二の丸を通過しないで本丸に行ってしまう。実際の登城道は、二の丸を通っていたのではないかと考えられる」と説明されました。そして、二の丸の下に腰曲輪があるので、そこを通って来たのではないかと話していただきました。


二の丸の南側斜面

国吉城ふもとの居館 福井県美浜町

2019年07月03日 04時55分17秒 | 福井県
さて6月30日(日)は、天気予報でほとんどが雨100%でした。ところが、奇跡的に午前中は雨が降りませんでした。10時から始めることができました。

見学会のはじめの集まり 中央の黄色のTシャツの人が萩原さん、右の兜をかぶった人が当館館長の大野さん

ハンゲショウ
遺構を見る前にいきなり半夏生(ハンゲショウ)という植物がこの歴史館のまわりに自生していることが紹介され、館長の資料館愛というか、国吉城愛というか、感動しました。


資料館の周囲に自生しているハンゲショウ

ハンゲショウとは、季節を表す言葉で、夏至から数えて11日目の頃を言うようです。また植物の名前でもあり、ドクダミ科の植物で、このころに花を咲かせるので「ハンゲショウ」という、あるいは葉の表面だけが白くなることから「半化粧」という説もあるそうです。全く知りませんでした。


国吉城石垣探訪地図 国吉城の概要図です

国吉城は粟屋期、豊臣期、徳川期の三つに分かれる
そのハンゲショウの群生地のすぐ上がふもとの居館跡になります。ここで、国吉城の基本的な歴史を教えていただきました。
弘治2年(1556)から天正11年(1583)までは、国吉城を本格的に構えた粟屋越中守勝久が居住していた時期です。
天正11年(1583)から慶長5年(1600)までは木村常陸介定光をはじめとする豊臣の家臣が居住した時期。
慶長5年(1600)から寛永11年(1634)まで主に京極家が小浜に入り、城代として多賀越中守良利が居住した時期

に分けられるそうです。


ふもとの居館跡南の石垣

それを踏まえてふもとの居館跡の石垣を見ると、雰囲気が違うことが分かります。写真の右側は石がやや小さいです。それに比べて左側は大きいです。積み方も左に比べ右は、しっかりと積まれているように見えます。
大野館長の話では、左側は豊臣家臣の木村氏によるもの、右側は、江戸期の京極高次の時代のものではないかとのことでした。

冒頭で、萩原さんが強調されていましたが、城は一度にすべて造ってもうおしまいというものではなく、時代の移り変わりで、改修されていくものということでした。なので、国吉城には石垣がありますが、一時期に誰かが造ったということではないそうです。

参考 1回目の国吉城見学記録2017年8月