
私のところへ配信されてくる数少ないメルマガの一つの最近の内容を転記します。『ものごとを深く考える、理解しようとする、という特性は、長所であると同時に短所です。「今・ここ」を生きるという生き方のコツが解ってくると、自然に、この短所は現れなくなります。疑問がやってきたとき、「どうしてだろうか?」と、知りたい欲求を沈め、それで終わりにしてください。すなわち、答えを探そうとしないでください。解るか解らないか、その結果にこだわらない、という態度がとれるように意識してみましょう。答えを受け取る、という結果に執着するあまり、頭を使いすぎて、せっかくのインスピレーションを受け取れなくなるからです。解りたい病の治ったあなたは、疑問が湧いてきたら、ただ単にその疑問とともに、その瞬間を過ごします。解らなくてもいいわけですから、答えを受け取るという結果にこだわりません。疑問がきたら、ただ疑問とともにいる。やがて、宇宙から答えというインスピレーションを受け取るでしょう。今のあなたにもインスピレーションは届いています。ですが、頭が忙しく働いているために、ほんのわずかしか受け取れていないのです。あなたが頭で考えているところには、答えはありません。答えは、初めから「今・ここ」にあるのに、あなたは、答えをどこかへ探しに行っているのです。「今・ここ」にだけ、一定時間、意識を連続的に向け続けることができ たら即座にあなたは、ひらめきのある人間になることでしょう。』 私は少し前まで、ものごとを深く考え、理解しようとすることの病に冒されていました。とことん突き詰めて、自分の中に湧き出てくる想念の核や芯を探し出そうとしていたのです。それが人間としての上等な行為だと信じていたからです。けれど考えても考えても、答えなんて出てこないことにある時気づきました。考えなくてもいいことを知ったのです。むしろ考えてはいけないと思うようにもなりました。それが「今・ここ」を生きる秘訣なのかどうかなどということにも全く関知していません。もう答えは探しません。答えはどんなに求めても決して得られないでしょうし、得られたと思えても、それが本当の答えかどうかなどということもまた人智を超えたことだと思うようになったからです。その時その時をやり過ごしているようでもあり(自分では決してやり過ごしているとは思っていません。)、何だかとても刹那的なようでもありますが、そうした態度を持っていないと、この刹那さえ生きられないのです。刹那さえが中身のない観念になっていってしまうのです。そうしていてもなかなかひらめきはやってはきません。けれどかつてのように、思考と感情の罠に嵌って身動きが出来ない…ということだけはなくなってきているのです。だからでしょうか?苦しいことはあっても、かつてのように、苦しみの土壺に嵌ってしまい、自分の存在が苦しみそのものになってしまうという珍奇な現象からは免れているようです。