goo blog サービス終了のお知らせ 

アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

強大なエネルギー

2006年03月14日 | 至福の花
私が以前に、自分のことを「毒にも薬にもならない」と表現したことになぞらえて、Blissさんが、ご自分のことを「取り扱い注意の劇薬」と言われました。あまりにも激烈なその言葉に、すごいことを言うなぁ…と(ちょっとした緊張を走らせながら)感心しつつも、その時は、「そういう感じかもしれない…」と思うだけで、漫然とその言葉を聞き流していました。

私が、初めてBlissさんと出会った頃には、彼に対して、特に強力なオーラを感じるというようなことはありませんでした。いつから、特別な感覚や感情を抱くようになったのかも、今となっては明確には線引き出来ません。

友情にしても恋愛にしても(恋愛のことについては、実は、私は片思いの経験しかないので、何も語る資格はないのですが…)、関係がいつもいつも滑らかに繋がるわけではありませんし、相手に対して、いつもいつも変わらなぬ普遍の感情を保持し続けられるものでもありません。そして何より、学生時代などとは違って、オフィシャルな出会いを、プライベートな時間や空間に移動させること自体もそんなに簡単に出来ることでもありません。よしんば、1度や2度はそれが可能だったとしても、その関係を継続させるためには、両者の間に関係を継続させたいという何らかの動機や意思(重大なものである必要はありませんが…)が潜んでいなければ、親密な関係は成立しません。

アロマに親しむようになってからの私には、自分の身体の不調が、根っ子の部分から解きほぐされていくことを、時間の経過の中で、微妙にしかも確実に感じ取れる習慣が身に付き始めていました。そんな折、自分でも、自分にがっかりするような体験を持つことになったのです。カイロ治療によって、随分と身体が軽くなるという恩恵を受けていることについてはこれまでにも、ブログで何度も書いてきました。カイロの先生との、治療を受けながらの会話のやり取りも、心身がよりリラックスするための大きな要素でもありました。カイロの先生もアロマの効果や素晴らしさを、自らのアメリカでの体験からお話してくださっていたからです。ところが、いざ私が、是非、先生もアロマを取り入れられたらいかがでしょう…と、具体的な話しをし出した途端、その先生には、そのお気持ちはないのだということが、私にははっきりと理解出来てしまったのです。(話題としてなら面白いけれど、自分がそれを使うまでの気持ちにはまったくならないというようなニュアンスでしょうか…。)

私がいくら、アロマによって、日常生活を助けられているからといって、人にも私と同様の価値観や行動を強要する気持ちはまったくありません。アロマの良さを分かって欲しいという思いはあっても、人には人の考えがあると思っているからです。ならば、カイロの先生がアロマに対してどのような態度を持たれようとも、それに対して、私が、快になったり不快になったりすることはまったくもって独りよがりで言語道断な反応です。相手にとっては失礼千万な話し以外の何ものでもありません。そんなことは十分に了解しているはずなのに、それなのに、理屈抜きに、私の感情は一気に興ざめしてしまったのです。アロマの話題以外にも、多分、サービス業の方だからでしょうか?何くれとなく、こちらの興味のありそうなことに話題を振ってくれ、結構、突っ込んだ質問もしてこられます。今までは、さりげなく、そうした質問にも答えながら、楽しい時を持てていたのですが、冷め切ってしまった気持ちはなかなか元には戻れないばかりか、その先生に対する、私の構えも以前のものとはスッカリ様変わりしていることに気づいてしまったのです。もう屈託なく、心を許して話しの出来る相手ではなくなっていたのです。

これは、私のご粗末な感情の変化というだけのものでもなさそうなのです。確かに、カイロ治療がもたらしてくれた効果は大きいには大きかったものの、治療が終われば症状が逆戻りしてしまうという傾向も付きまとい、行ったり来たりで…最後の最後で膠着状態を突破出来ないでいることも、私はひしひしと感じていました。一方、アロマの効果も最後の詰めのところで難航していて、なかなかはっきりとした手応えを確信することが出来ない状態が長引いていました。ところが、ある時から、突然、堰を切ったように、アロマの効果がメキメキ表面化してきたのです。正確には、アロマとカイロの相乗作用で、現在の結果がもたらされたというべきなのかもしれません。アロマだけでも、やはり症状の改善は難しかったのかもしれません。にも拘らず、カイロの先生への、私の気持ちの変化はもうどうすることも出来ないものとなっていました。

Blissさんは、ある時、こんなことも言われました。「一見、仲が良さそうに見えても関係が続かないこともあれば、仲が悪そうに見えても、関係が継続する場合もある。歩み寄れる人間同士というのは魂の距離が近いのではないか?」Blissさんの表現を正確に再現出来てはいないかもしれませんが、その言葉を聴いた時、私は、「なるほど」…と思いました。ところが、私とBlissさんは、何から何までがまったく違っていているので(それこそ、魂の色もカタチも質も、あまりに違いすぎるので)魂の距離が近いとはどうしても思えないのです。だから、一見は、全然、しっくりはいっていないでしょうし、よく見てもやっぱりしっくりはいっていないように見えるかもしれません。いつ関わりが切れてもおかしくはない。むしろ継続していくことの方が不思議といってもいいように思えるほどの間柄に(客観的には)見えるでしょう。でも、私は、気持ちの上ではBlissさんに、どこまでも歩み寄ることが出来るのです。

離れていると、私は、Blissさんの存在の大きさを思い、「会いたいなぁ」「話がしたいなぁ」と思うのに、いざ、その存在を目の前にすると、‘ヤマアラシジレンマ’ではありませんが、屈託なく無邪気に楽しめる時ばかりではなく、そのエネルギーの強大さに、圧倒され、なぎ倒されてしまわないでいることに精一杯になったりして、思うように振舞えなくなったりもします。でも、いつか、彼のエネルギーに負けないくらいの力を付けたい。拮抗するくらいの自分になりたいと、やはり切に思ってしまう自分を見つけているのです。

ある人に対して、「もういい!」と思ってしまう場合と、「どこまでも関わっていきたい!」と願う場合の違いはどこにあるのでしょう?心の中に潜んでいる‘思いの核’の深部には、人それぞれに対して、どんな違いが存在しているのでしょう?…???