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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

【妖精】との再会

2005年12月21日 | my favorite・・・
妖精 妖精 妖精 妖精  鳥 ダンス 曲芸
ホームページ作りの真似事をやっていた頃、ネット上から、必死になって素材を集めていたことがあります。どんな素材を使うかで、コンテンツのイメージも方向付けが決まってしまうような気がしていましたので、それはそれは一生懸命にいろいろな素材に目を通していました。それに、その頃は、ホームページ作りの難しさに根をあげないためにも、そうした楽しみが是非とも必要でもあったのだと振り返っています。今では、作り手の思いを盛り沢山にしすぎない、すっきりとスタイリッシュに仕上がったサイトの方がお洒落だと感じるようになりましたが、当時は、作り手の肌触りが感じられるような手作り感を大事にしていました。その頃、私がとても気に入っていた妖精のアニメ画像があったのですが、サイトの更新を繰り返しているうちに、いつの間にか、その画像を失ってしまっていたのです。出典は不明で、どこかのホームページで使われていたものを拝借しただけだったので、取り返しの付かない状態でした。【天使】というキーワードで検索をかけても、一向に、その画像を探り当てることは出来ませんでした。フロッピーに保存してあったかもしれないと思い付きはしたものの、私の新しいパソコンには、フロッピーの差込口がないので、もう確かめるすべもありませんでした。「もう仕方がないのだろうな…。」と諦めかけていた時、一つ見つけてあった、あるアニメサイトのリンク集に目がいきました。そのリンク集に集められてあったサイトを辿って行くうちに、信じられことないのですが、その天使の画像のサイトに行き着いたのです。尤も、命名は天使ではなく妖精でした。「天使ではなかったんだぁ!妖精だったんだ!そうだったんだ!」と、旧友に思いがけずも出会えた時のような静かな感慨に浸ることが出来ました。子どもっぽくて、お恥ずかしい限りですが、私のメルヘンなんです。妖精の、この表情。この仕草が大好きなんです。(私の探していた妖精の画像は左側の2つの画像です。)私を再び、この妖精に巡り合わせてくれた『ぱたアニメ分室』と妖精の画像が隠されている『ホームページのおもちゃ箱』のホームページを是非、覗いてみてください。(このブログでは、妖精たちは静止していますが、これらの画像はすべてアニメーションですので、通常使用する時には可愛いらしい動きを見せてくれます。)
ぱたアニメ分室
Web Toy Box/ホームページのおもちゃ箱→アニメーションというバナーをクリックしてください。そうすると4つの部屋が現れます。お好みのアニメが必ず見つかると思います。これらの作品をを製作された方の【自己紹介】にも目を通してみてください。私はこの方にとても好感を持っています。ご自分で作られたこんなに愛らしい小物たちを「どうぞ、ご自由に使って遊んで下さい。」と言ってしまえる広くて潔良い心意気にも感謝…です!

虚実皮膜

2005年12月19日 | 日々の泡
【きょじつひまく】とも【きょじつひにく】とも読みます。物語とは、【虚実皮膜】にあると近松門左衛門は言っているようです。「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰めあるものなり」すなわち、芸というものは虚と実との境目の微妙なところにあるということのようです。言ってみれば、芝居そのものは作り事だけれど、その中に人生の真実が凝縮されていて、役者は喜怒哀楽を、その舞台では‘本当のこと’として演じるわけです。精神分析的な治療の場面でも、何人かの分析家は分析関係における微妙な関係を虚実皮膜という言葉で捉え表現しています。分析の場での関係は、あくまでも、非日常的で擬似的な関係ですが、完全な虚構の関係というわけでもありません。クライエントは治療の過程において、必ず、分析家に転移を起こしてきます。また、転移神経症という言葉もあるように、転移が起きなければ治療も前に進みません。分析家は、この転移関係を通して、クライエントとの関係を虚の世界へ引き込むことによって、新たな物語を紡がせるための媒体としての役割を果たし、虚を実へと転換させます。【虚虚実実】という言葉を思い出しました。意味は、[実(=固イ守リ)を避け、虚(=守リノ弱イ所)をついて戦うことの意から]互いに計略やわざを出し尽くして戦うこととあります。虚虚実実はあまりいい意味では使われない言葉だと私は理解しています。虚虚実実の世の中ですが、虚実皮膜という観点で、日常生活における人との関わりを観ていくと、薄い皮一枚のすれすれのところにある真実が見えてくるような気がします。

ピンクハートいろいろ+うさぎのおまけ

2005年12月18日 | my favorite・・・
ネックピンクのガラス風ネックレスは透明感があって、とても可愛いらしいですネ!












風船宣伝に使う風船のようです。
渋いピンク色は大人っぽい雰囲気ですネ。





豆腐ピンク色のハート型のお豆腐です。









うさぎピンク色のうさぎのぬいぐるみです。




ピンク色の‘柔らかさ’にとても惹かれます。ハートは文句なく好きです!ピンク色のハートの持つエネルギーが、自分と&このブログを訪れてくださった方々の心に届くようにと願って…ピンク色の画像を4点ほどアップしてみました。

ディフューザー

2005年12月17日 | my favorite・・・
アロマオイルを焚くことの楽しみの一つに、アロマを焚くたびに、このデフューザーの美しさに触れられることがあります。フランスの職人が粋を凝らして作り上げる作品群には、癖のある作品も多いのですが、私好みのモノも少なからずありますので、芸術品を愛でる喜びもあります。アロマに関わる、最たる一番の利得はアロマテラピーにより、自分の身体の苦痛が改善されていく過程を観察および実感できることにあるでしょうか?そうは言っても、まぁ、それも一直線に…というわけには行きません。香りにはさまざまな癒し効果があるとはいうものの、アロマオイルも万能ではありませんので、体調の方も良くなったり停滞したり後退したりで、行きつ戻りつで、なかなか大きくは前進しません。けれども、仲間が居るので、情報交換やお互いの効果を確認し合える要素が大きいことが助けになっています。このアロマの世界には、まだまだ私の知らない未知の奥深さが潜んでいそうです。アロマを焚くことを習慣にするようになってから、不思議と、確かに、私の筋肉の凝りは徐々に緩んできているのです。このアロマから発散される酸素とマイナスイオンの影響がじわじわと私の筋肉にも浸透しているということなのでしょうか?森林浴をしているのと同様の状態になるそうなので、きっとそうなのだろうと思っています。筋肉の固い人は生き方も不自由なのだそうですので、私の生き方もまだまだ不自由なのでしょう(トホホ)。筋肉を柔らかくするための「ゆる体操」というものがあるそうです。これから、ゆる体操の本も読んでみようと思っています。

成長とは不安定でいられること?

2005年12月16日 | 日々の泡
生きているということは常に不安定であるということ。不安定を感じていられるということが成長だという見解に触れました。揺るがなくなった考えは妄想であり、死であり、概念にすぎないということは、本当に、その通りかもしれません。だとすれば、成長とはまことに辛いものですネ。揺れる心・ざわめく気持ち…生きていればこそ味わう思いを抱え続けていられることが成長ならば、思春期でもないのに、私は今も、成長の真っ只中にいることになります。

100円shopの優れもの

2005年12月15日 | my favorite・・・
100円のものには、結局100円の値打ちしかない、というものも多いのですが、これだけの使い心地で、100円では申し訳ない…というような優れものもあります。写真の首のマッサージ器具は【申し訳ない】部類のひとつだと思っています。この器具で首を挟んでキュキュと押してみると、具合の悪い部分がどこなのかがたちどころに把握できます。デザインも色も可愛いものが多いのも楽しくて、嬉しいです。

シャープ♯とフラット♭

2005年12月14日 | 日々の泡
現在の職場では、私は「おかしな人」あるいは、「不思議な人」で通っています。オーラがすでに人とは違うと言われます。誰かと話しをしていても、それまでの話しの流れとは全然関係のないことを、突然、話し出したりするし、何気なく、人にかける言葉自体が、スタンダードな路線からは、すでに大きく外れているそうです。ある同僚が、帰宅後にトイレの中で、(トイレの中でそんなことを考える人というのも十分におかしいとは思いますが…)どうしてだろうと考えたそうです。彼女が、そこで思いついたことは、「あの人は、♯と♭を持っている人なんだ!」という結論だったそうです。ピアノを弾く時、ピアノの鍵盤の白い部分を叩くとドレミファソラシドの音が出ますが、♯や♭の音を出すには鍵盤の黒い部分を押さなければなりません。でもそれって、私には、すごい褒め言葉に聴こえてしまいました。♯や♭の音の持つニュアンス。それこそが音楽の世界をより豊かにするための大事な要素だと思えるからです。♯や♭がなければ、音の世界は単一そのものになってしまうのではないでしょうか?♯や♭が主流の音を引き立て、その音に膨らみを持たせることが出来るように、もしも本当に、私の中に♯や♭の持つ力が潜んでいるのだとしたら…私の周囲の人の持ち味にスパイスを加えることが可能になるのですから、こんなに素敵なことはない!と思えました。でも、本当の私は愚直でバカ真面目で何の変哲もないごくありきたりの凡人なのに、どうして、私のそうした核や芯が人には透けて見えないのでしょう?私は自分を偽ったり、自分を隠すために演技をしたりしているわけではないのに、人にはどうしてそんな私が見えないのでしょう?摩訶不思議です!

大停電の夜に…My Foolish Heart

2005年12月13日 | 映画
久しぶりに映画を観ました。群像劇というもので、2~3人の人間の間で起こる幾つかの小さなエピソードがあちこちでリンクしあって全体を一つの物語として構成しているものです。けれど、偶然にもリンクはしているけれど、それはたまたまのものであって、その場その時の‘縁’で終わってしまうものなので、どろどろ感がなくて非常に都会的な雰囲気を演出しています。それにクリスマスイブの夜から明け方までの一晩の出来事を描写しているだけですし…「Foolish Heart」とは豊川悦司のジャズバーの名前です。全編にベースを基調にしたジャズ(「My Foolish Heart」という題名のジャズのようです。その他にも色々な曲が流れますが、ジャズのことは分かりません。)が流れていて、(何しろ停電の夜ですから)蝋燭屋さんの蝋燭が唯一の光として煌きます。いずれの人が抱えているテーマも深いものですが、さらっと描かれていますので、象徴的なおとぎ話しとして深刻な現実味には触れていません。が、私はしみじみとした感慨に耽ることが出来ました。人との関わりを当たり前と思ってはいけないこと…ある関係を一度手放したら、どんなに思いを深く持続させていようとも、もう過ぎ去った時や大切な人は、容易には再び私のもとには戻ってくれない。(人生は無常を常とするから、状況はどんどん移り変わってしまうものなのでしょうね。けれど、また、それが人生の妙味とも言えます…)どんなカタチであっても、‘今’というこの時に、人を‘思える’という事はきっとすごく幸せなことなんだと改めて実感できたこと。それに、どんなに辛くても、愛する人の過去をも含めたすべてを許せてこそ、人と人との優しい関係が成立するのだということ。映画の中の登場人物たちの体験を我が事のように追体験しながら、これらの想念が、ジャズのメロディーに乗って脳裏を駆け巡っていました。
大停電の夜に

Personal space

2005年12月12日 | 日々の泡
一般的には、人はそれぞれ、パーソナル・スペースというものをもっていて、コミュニケーションをとる相手との物理的な距離をその相手との関係に応じて、適当な距離に保っておこうとするものです。自己の境界というのは皮膚になるのでしょうか?それとも皮膚を超えた感覚になるのでしょうか?元々は皮膚にあったようですが、今では、ヒトは、皮膚を超えたある空間を自由自在に操作して境界を近づけたり遠ざけたりすることが可能になっているようです。気功をやっていると、この辺の感覚が鋭くなってくるようです。(私はまだまだ…ですが。)意識というものはバリアとしての役割を持っていますので、誰かに近づかれたくない時には、そのことを意識するだけで、他者の波動を受けずに済むことも可能になります。時に、自己と他者の境界を侵してまで、進入してこようとする変動波もあるようですが、意識のバリアでこうした悪意に満ちた変動波も防ぐことが出来るようです。治療者が気をつけなければならないことの一つに、知らず知らずのうちに、病んでいる人の、生命力の低下している変動波をもろに受けて自滅してしまわないように心してかかることがあります。そこから逃れることに失敗してしまった人もあると聞きましたので、変動波を逃がす方法を会得しておかないと、ミイラ取りがミイラとなって人を助けることが出来なくなってしまうようですので、くれぐれも気をつけてください。