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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

思いがけずも届いた2通のメール

2005年12月24日 | my favorite・・・
いつだったか、Blissさんに、私は‘思いが強すぎる’と指摘されたことがあります。今まで、私は思いの強いことを悪いことだと思ったことは一度もありませんでしたので、そのような指摘を受けたことにとても強い衝撃と驚きを覚えました。が、ほどなく、強すぎる思いは、相手に圧迫感を与え、気を重くさせるものであることを知りましたので、それ以来、人に対する思いは強くさせすぎないように気をつけるようになりました。気功を習うようになってからは、何事も中庸が大切であることを教えられ、ますます、偏りすぎない気持ちの持ち方の大切さに注意を向けるようになっています。今までは、何につけ、マイナスよりはプラスのほうが価値があると考える人間でした。けれど、気功の世界観はそうではありません。陰と陽はどちらかがいいとか、どちらかにより大きな価値があるとかということではなく、両者に同等の価値があり、すべてはバランスで成り立っていると考えるような類のものです。すべてのことは程々が良いのです。最初は、それではフラットであることがいいのかと考えてしまい、事なかれ主義的で面白味のない人間像や宇宙観を思い描いてしまったものですが、気功の先生の「嬉しいからといって喜びすぎない。悲しいからといって落ち込みすぎないことが大事です。平常心が一番です。」という言葉に、徐々に共感できるようになっていったのです。糠喜びは禁物。一喜一憂も宜しくない。と思えるようになってきました。Blissさんに対してだけでなく、いろいろな人に、この感覚を適応するようになりました。濃い関係を築きすぎた!あるいは近づきすぎた!と感じたら、意識的に距離を取ってみるようにもなりました。実際、自分もそういう時は苦しく感じるようになって、自然に距離を取れるようになってきたのです。それで、ダメになる関係ならばそれでもいいという覚悟も持てるようになりました。そうしたら、本当に人生は皮相的で皮肉に満ちているものだと感心するのですが、意識的に、関係から遠ざかるような不義理をしても、それでも(だからなのかもしれませんが→時間の‘間’が科学反応を起こさせる場合があるようです。)そんな私を見捨てずに、メールをくれる人もいるのです。表面的には、何があったというわけでもないのに、(言外には大いなる波乱が生じていたのですが)ずっとずっと長いこと音信不通だった人や、仕事上の繋がりから、見てみぬ振りをするわけにはいかず、半分はやむなく始まった関係を、何とか自然消滅させたい…と願って、ちょっと強引に関係を切ろうとしていた人など。今回、届いた2通のメールは、私が心の中で、関係の終焉を少し意識しながらも、その結末については、自分のあずかり知らないこととして、大いなるものの意思に委ねて、執着などの強い情念から、自分の気持ちを意識的に開放させていた人たちから届いたものです。彼女たちのくれたメールの文面には、押し付けがましさなどがまったくなく、私に対する‘愛’に溢れていました。私と関わってくれている人たちの変貌振りを見ていると、人間とは放っておいても成長していく存在なのだろうなぁと改めて思ってしまいます。十年一日のごとく、さっぱり進化しない自分を尺度にしたら、周りの人々の変化は計ることが出来なくなってしまうとため息をつくと同時に、もしかしたら、彼女たちに対する私の変化が彼女たちの変化をも促しているのかもしれないともちょっと思ったりもしました。星が動くということは、人が動くということだそうです。運は人が運んでくるものなので、結局、人に会わないと何も動かないのだそうです。変化を起こしたかったら、人に会うこと、人と関わることが大切だそうです。でも、何かをすることだけが行動ではありません。何かをしないでいることが積極的な‘行動’であることもあるようです。