発達障害 2005年12月06日 | 日々の泡 少し前までは、その概念すら浮上していなかったにもかかわらず、最近では、子どもの世界のみならず、大人の世界でも発達障害による生きずらさや人とのコミュニケーションの疎通を持てない不都合を抱えている人のことが取沙汰されています。発達障害ですから、治療の俎上には乗りません。薬も対症療法のみで根本的な原因を取り払うことは不可能ということになります。難しい病名がその微妙な症状の特徴の差異によって、さまざまに名付けられています。地球の環境汚染などが関与した時代の病だと考察する人もいます。森の石松なども発達障害を持っていたそうです。一昔前なら、少々の発達障害があっても、‘変わった人’と見られるぐらいで、地域社会の中で抱えられて存在することも可能だったようですが、現代社会ではそうは簡単にはいかないようです。一口に発達障害と言っても、細かく区分けされていますから、専門家でないと、なかなか、その全体像を掴むことは出来ませんが、往々にして、同年代との先行きの見えない関係作りが苦手であるところが鑑別診断の一つの観点になるようです。大抵はかなり年下の年代との交流を好むのは、縦の関係の中でなら、自分の権威や威厳は脅かされずに済むので安心だから…と説明されています。‘見通せる関係’なら何とかやっていける。けれども、今日が良くても明日のことは分からない…そんな同年代との関わりの中での、しかも思春期におけるそうした切磋琢磨にはめっぽう弱いのだそうです。そういう状況への対処が苦手、といっても、生きていく過程ではいつどんな時にどんなことが起こるかも、私たちは予測できないわけですから、画一的な構えでは早晩、破綻をきたすことになるのは想像に難くありません。年齢の離れた関係ならば、予期せぬ交流には悩まなくてもいいというのも、考えてみれば、随分お手軽な発想のような気もします。年齢の離れた関係ならば、決まりきった役割やルールでこなせると思ってしまえること自体がものすごく浅薄な思考回路ではないでしょうか?年長者や年少者を侮っていることですから…。思いがけないところでフェイントを掛けられずに済むという発想そのものに、形骸化された古い魅力のない価値観しか抱けないのは、私だけかもしれませんネ!そういう子どもたちがそういう行動を取るからには、多くの人々の集合無意識が、未だにそのようであることの何よりの証拠でしょうから…。子どもは大人の鏡でもありますから、子どもの問題の根っ子は大人の中に潜んでいるのだと、私には思えます。