
「~死別の悲しみを分かち合うために~亡き人を思うことの意味-不在・現存・つながり」というテーマの講演を聴講する機会がありました。死者は神のごとき存在である…という語りかけから始まった講演の内容は終始一貫して哲学的であったため、一見、平明に語られているようで、実はとても難解でもあったので、実際に、もし自分がそのような悲しみや苦しみに直面してしまった時には、どうやって、その逃れようもない実存的な悲しみや苦しみをしのいでいったらいいのか、あるいは向かい合っていったらいいのかという具体的な手段のことはとうとう分からず仕舞いのままで終わってしまいました。ところで、人間であるならば、誰もが大なり小なりの喪失体験を抱えながら生活しているものです。大切な人を失った悲しみから立ち直ることに困難を感じている人たちが集まり、言葉にし難い感情を分かち合うグループがあちらこちらで立ち上がっています。平成10年以降、自殺者の数が年間3万人前後で推移しているという状況は看過することが出来ないほどの社会問題にも膨れ上がっているため、国や各関連団体でも、この問題に緊急に取り組み始めています。‘自死遺族の会’という言葉もしばしば耳にするようになり、そうした会が発足するようになったのも時代の要請があればこそなのだと思います。生活の中である程度、経済的にも精神的にも余裕を持てる立場にある人なら、十分に時間をかけて【喪の仕事=グリーフワーク】を進めることも出来ますが、身分が学生であったり、日々の生活の維持に忙しかったりして、悲しみや苦しみに向かい合う暇もない境遇にあるほとんどの人間は、喪の作業を十分には進めることは出来ません。そうした場や時間や作業を保証されることは滅多にないことでしょう。第一、「悲しみに向かい合い、悲しみに浸ってもいい。悲しみに浸る経過が大事」などという概念があることすら知りえないかもしれませんし、そんな発想は教えられなければ、思いつかないことかもしれません。どちらかと言えば「いつまでもぐずぐずするんじゃない!」とか「過去にしがみつかずに前向きに行こう!」式の叱咤激励を受けることの方が多いのではないでしょうか?大事な人を失うことだけが喪失体験ではありません。受験に失敗し続ける体験や相手にどうしても思いが届かない挙句の果ての失恋や慣れ親しんだ場所から去らなければならない【引越し】なども立派な喪失体験です。小さなことに見えるけれど、実は、体験した者にとってしか分からない心の苦しみは大きな外傷体験として、心の奥底に容易には癒されがたい楔として打ち込まれることって案外多いのではないでしょうか?喪失の悲しみや苦しみにきちんと向き合っていかないと、身体や精神にあとあと、必ず深刻な影響が出現してくるそうです。ある程度の辛抱は必要かもしれませんが、我慢は禁物です。我慢なんか…する必要もありません!我が意のまま=わがままに生き(行き)ましょう。
★生と死を考える会
★東京・生と死を考える会