
私は、教頭・校長になる前は、中学生に英語の授業をしていました。
この前、西南小で、あるお母さんから「スハT(と以前は生徒から呼ばれていました)!」と声をかけられました。
その人は、私の二中での教え子でした。
そうです。教え子がもう、中学生や小学生の親になっています。
さて、私が教えていた、その英語についてです。
今でもかなりその精度は高いですが、日本語と英語が、今後人工知能の発達により、かなり正確に翻訳できるようになるでしょう。
日本語で話したら、その場で英語に直して発話してくれる。
また、会話だけでなく、英語の文章を正確に日本語の文章に直してくれます。
そんな時代になれば、英語を学ぶ必要はないと思う人もいるかもしれません。
しかし、日本語もそうですが、英語も同じで言葉は常に変化しています。
言葉とは、一つのコミュニティをつくっているのです。
人同士が言葉を交わしてこそ意味があるのであり、だからこそ、言葉は生きているのです。
社会のなかに、人間がいて、おたがいに言葉をやりとりしています。
先般、「そうだね」という一つの表現が流行し、注目を集めました。
言葉というものは、やがて、誰かが少し違った意味でその言葉を使うようになります。
「ヤバイ」がそうです。ある種の表現は消えていきますし。別のものは残ります。
外国でも、女性の性被害やセクハラの根絶に取り組むキャッチフレーズが「♯Me Too」です。
これをニューヨークの出版社が最近、「わたしも同じ」から、いまや「他社の後追い」という意味で使い始めました。
このように、言葉は変わっていきます。
将来、人工知能が人間の言葉を完全に理解するようにはなるでしょう。
また、人工知能同士が言葉をやりとりするようになるかもしれません。
機械同士で情報をやりとりするならば、人間の言葉を使う必要はなく、もっと効率よく、多くの情報を伝えるやり方に任せばいいのですから。
ただ、そうであっても、言葉は人間らしさの象徴であり、人間が生きている証です。
言葉を人工知能任せにはできません。三中の子には、言葉を大切にして、言葉とともに歩み続けてほしい。
こう考えると、毎日言葉を使うのが楽しくなります。