前回の記事に引き続き。
お父さんの心が分からない私だと自覚して以来、
じゃあ、お父さん(天のお父さん、神様)の心を知るように
祈ってみようと思いはじめた。
「お父さんあなたの心を教えてください。」
「お父さん、あなたは何を願っておられるんですか?」
私は、本当にこの祈りで変わった気がする。
たとえば、ある祈っている事がある。
現状をどう変えたいか。
めぐみが、「こう変えたい」と思っていること以上に、
神様が「どんな結果を望んでいらっしゃるか」を中心に
考えるようになった。
めぐみが、ある感情に支配されている時、自分の感情に
従うよりも、神様が何を望んでいるかを思うようになった。
全て疲れた人、重荷を負っている人は私のもとにきて休みなさい。マタイ11;28
神様のもとで休んで、立ち上がるとき、神様は
「ここにその重荷を置いていきなさい」と語られる。
私の重荷。
重荷なのに、手放したくないと思っていることが無いだろうか?
ある一つのことにとらわれて、身動きもできない状態。
人を憎むこと。
羨ましく思うこと。
愛されたいと、必要以上に熱望して満たされない心にあえぐ事。
自分をさげすむ自己卑下。
私の希望が叶えられない不満
考えてみると、全部自分中心だ。
そういういろんな心の動きや感情を「置きなさい」って言っているんじゃないだろうか?
…
ところで
人には色んな心の傷があって、人が聞けば、
「もっともだよ、その気持ち、分かる分かる」
って言うようなこともたくさんある。
そして、ある時期、そんな対応がとても心を潤して、そんな癒しも必要だ。
しかし、神様の心は、私たちの当たり前の心の動きをしない。
私はこれが知りたいのです。
罪のある人のために、イエス様を十字架につけたこと。
完全に天と切り離された地獄を、自らが代わって体験されたイエス様。
去っていった弟子達を、そうと知って、選んで愛してくれたイエス様。
復活して、漁にもどっていた弟子達に、朝の食事の準備をしてくださったイエス様。その朝、テベリヤ湖の朝の光はどれだけ麗しかったんだろう?
放蕩息子の例話も、誰もが、放蕩してもどってきた弟に対し、
マジメに父に仕えてきた兄が面白くない思いを抱いたことを、
理解するだろう。
誰もが抱くだろう、当たり前の感情。
兄を主人公にすれば、当たり前のお話なのだ。
でも、それが人を疲れさせていないだろうか?
自分中心な私の生き方は、私を疲れさせる。
父の心を知ろうと祈ることから
私の重荷は軽くなっていく。
祈りによって、
父と一緒に、放蕩の弟を喜んで迎えられる心を持つ事に
近づけられていくように思う。
お父さん、あなたは、想像を超えた方です。
見えない神様をお父さんと呼んで礼拝している私を、
可笑しいと思う人がいるかもしれない。
でも、聖書のみ言葉って、知れば知るほど、私たちの命があって、
力があって、能力がある。
そして、愛がある。