日々いろいろなことが起きて、いつもブログ(日記)に残しておこうと思うのですが思ったように記事をアップできません…。とっても残念です。
コリント人への手紙を読んでの黙想です。
これはイエス様昇天後の使徒の時代、コリント教会の信徒へパウロが宛てた
手紙です。
コリント人への手紙第一では、人を配慮することがたくさん書かれています。
当然の権利であったり、間違っていないことであっても、「あなたがたのこの
権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい」、そして
「彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪をおかしているのです」と書かれています。
ということは、キリストは、人々の間で、もっとも弱い人のためににも
いのちを捨ててくださり、彼らを大事にしておられたという十字架の意味が
連想されます。
もしも私たちが、自分の義を優先して、人の思いや気持ち、弱さに
まったく配慮しないで行動を決定していこうとするならば、その行動が
間違ってなくても、キリストが悲しまれることになるんだということが
分かります。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
コリントⅠ 6:20
の本当の意味は、杓子定規で正しい、正しくないを判断して、正しいこと
だけを自身を持ってお前が行えばよろしいというすすめでないことが
分かります。
代価を払って買い取られたからこそ、同じように代価をもって買い取られる
尊い人々の思いや、弱さを配慮しなさいという事だと思います。
神を愛することと、人を愛すること。
これをひとつの次元で考える、ということは、易しいようで、時に複雑です。
なぜなら、神を愛して、神の義だけを追い求めるならば、自分を憎み、
人の行う罪ある行動をも憎み、社会を憎み、とうとう私たちは山にこもるしか
道が無いんじゃないでしょうか?
だけど、神を「愛する」ということは、「律法を守ることで義を確立しなさい」
ではなく、神の愛を知り、神と交わるということだと思います。
他の宗教では神と交わると言ったら、不気味な霊媒師が霊の交流をするような
ものがイメージされるのかもしれませんが、私たちの神、キリストイエス
を信じるキリスト教会で言われる神様との交わりは、「たたり」とか「罰」
とかを伝達するものではありません。
私たちに恐れを与えるような存在ではなく、愛に始まり、愛に終わる、
愛なる神様。
だから、私たちは山にこもったり、孤立して義を求める者になるのではなく
社会にあって、生活をしながら、キリストの愛を自ら黙想し、体験しつつ
実践を持って証しして生きています。そのように努力をしています。
人を配慮しないことがたくさん見られます。
まず、聖書を学んで、それを実践しなければならない、クリスチャンの私たちが
人を互いに配慮したり、仕えあったりすることに欠ける場合もあります。
あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を
現すためにしなさい。
コリントⅠ 10:31
これも、クリスチャンの中では非常に有名なみ言葉ですが、「食べること、
飲むこと」を、個人的な食生活の基本をして捉えて、「よーし。私は今日から
食べるにも飲むにも神のためにするぞ」などと決断してしまうことが
あると思います。それもみ言葉の正しい適用だと思いますが、コリント10章は
正餐式と、当時のユダヤ社会の「偶像にささげられた肉」の取り扱いについて
扱われている部分です。
文脈と背景を考えると、自分の利益を考えるのではなく、他人の利益を
心がけることを基準に、その問題に対しなさいというのがメッセージの
本質です。
ということは、個人的な生活で常に神の栄光をあらわそうというすすめ
というよりは、「あなたがたの」弱い人への配慮そのものが神の栄光に
なるということを言っていると読むことができます。
あなたがたとは、私たち、クリスチャンたちです。
信念を貫くことが神の栄光になることもある。
弱い人を配慮することが神の栄光になることもある。
しかし、私たちの信仰生活は、やみくもに自分の満足する礼拝をただ
熱心にすることが本質なのではなく、その輪の中に居る人、そしてその
輪の外に居る人への配慮も、信仰生活の重要な核である、と言えると思います。
私の配慮を必要としている人は、今日、誰でしょう?
また、私たちの配慮の無さで傷ついた人はいないでしょうか?
イエスさまを信じて、教会に通っている人「たち」として、また、
そのクリスチャン(個人)として、両方の側面から、配慮を黙想しています。
コリント人への手紙を読んでの黙想です。
これはイエス様昇天後の使徒の時代、コリント教会の信徒へパウロが宛てた
手紙です。
コリント人への手紙第一では、人を配慮することがたくさん書かれています。
当然の権利であったり、間違っていないことであっても、「あなたがたのこの
権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい」、そして
「彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪をおかしているのです」と書かれています。
ということは、キリストは、人々の間で、もっとも弱い人のためににも
いのちを捨ててくださり、彼らを大事にしておられたという十字架の意味が
連想されます。
もしも私たちが、自分の義を優先して、人の思いや気持ち、弱さに
まったく配慮しないで行動を決定していこうとするならば、その行動が
間違ってなくても、キリストが悲しまれることになるんだということが
分かります。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
コリントⅠ 6:20
の本当の意味は、杓子定規で正しい、正しくないを判断して、正しいこと
だけを自身を持ってお前が行えばよろしいというすすめでないことが
分かります。
代価を払って買い取られたからこそ、同じように代価をもって買い取られる
尊い人々の思いや、弱さを配慮しなさいという事だと思います。
神を愛することと、人を愛すること。
これをひとつの次元で考える、ということは、易しいようで、時に複雑です。
なぜなら、神を愛して、神の義だけを追い求めるならば、自分を憎み、
人の行う罪ある行動をも憎み、社会を憎み、とうとう私たちは山にこもるしか
道が無いんじゃないでしょうか?
だけど、神を「愛する」ということは、「律法を守ることで義を確立しなさい」
ではなく、神の愛を知り、神と交わるということだと思います。
他の宗教では神と交わると言ったら、不気味な霊媒師が霊の交流をするような
ものがイメージされるのかもしれませんが、私たちの神、キリストイエス
を信じるキリスト教会で言われる神様との交わりは、「たたり」とか「罰」
とかを伝達するものではありません。
私たちに恐れを与えるような存在ではなく、愛に始まり、愛に終わる、
愛なる神様。
だから、私たちは山にこもったり、孤立して義を求める者になるのではなく
社会にあって、生活をしながら、キリストの愛を自ら黙想し、体験しつつ
実践を持って証しして生きています。そのように努力をしています。
人を配慮しないことがたくさん見られます。
まず、聖書を学んで、それを実践しなければならない、クリスチャンの私たちが
人を互いに配慮したり、仕えあったりすることに欠ける場合もあります。
あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を
現すためにしなさい。
コリントⅠ 10:31
これも、クリスチャンの中では非常に有名なみ言葉ですが、「食べること、
飲むこと」を、個人的な食生活の基本をして捉えて、「よーし。私は今日から
食べるにも飲むにも神のためにするぞ」などと決断してしまうことが
あると思います。それもみ言葉の正しい適用だと思いますが、コリント10章は
正餐式と、当時のユダヤ社会の「偶像にささげられた肉」の取り扱いについて
扱われている部分です。
文脈と背景を考えると、自分の利益を考えるのではなく、他人の利益を
心がけることを基準に、その問題に対しなさいというのがメッセージの
本質です。
ということは、個人的な生活で常に神の栄光をあらわそうというすすめ
というよりは、「あなたがたの」弱い人への配慮そのものが神の栄光に
なるということを言っていると読むことができます。
あなたがたとは、私たち、クリスチャンたちです。
信念を貫くことが神の栄光になることもある。
弱い人を配慮することが神の栄光になることもある。
しかし、私たちの信仰生活は、やみくもに自分の満足する礼拝をただ
熱心にすることが本質なのではなく、その輪の中に居る人、そしてその
輪の外に居る人への配慮も、信仰生活の重要な核である、と言えると思います。
私の配慮を必要としている人は、今日、誰でしょう?
また、私たちの配慮の無さで傷ついた人はいないでしょうか?
イエスさまを信じて、教会に通っている人「たち」として、また、
そのクリスチャン(個人)として、両方の側面から、配慮を黙想しています。