皆さんご存知のように、志村けんさんが亡くなられてしまいました。大変残念です。今50歳の私は全員集合とかドリフ大爆笑とか、まさにど真ん中世代ですし、私自身も子供の頃は全員集合は毎週、ドリフ大爆笑も毎回見て笑わせてもらった人間ですので、なんとも悲しい、やり切れない思いです。
若い人は志村どうぶつ園、なんですかね。今自宅にテレビが無い私はこの番組は知らないです。ということで、50歳の私が志村さんやドリフにどのような思い出を持っているのか、若い人達に少しお話ししてみようと思います。同世代、または私より上の世代の方は、共感して頂ける部分も多いかも知れません。
今50歳の私の中で、志村けんさんについて覚えている一番古い記憶は、「東村山音頭」ですね。76年ですから小学校一年のときです。これくらいの年齢ならそりゃもう、はっきり覚えています。当時、”なぜ2丁目がないのか?”が大きな疑問でした。
この東村山音頭、実は、志村さんが歌っていたのはカバーで、元歌というか、もっと古い原曲があるのをつい最近知りました。皆さん、知ってました?1963年に作成されたそうで、三橋美智也さんが歌っています。導入部分は志村さんバージョンとほぼ同じ。平田満バージョンもあるそうです。
志村さんがドリフの正式メンバーになったのは74年だそうですが、東村山音頭より古い、志村さんに関する記憶は私の中にはないです。でも、それより前の、カトちゃんの”ちょっとだけよ”とか、ジャンボマックとかは覚えているので、幼くて覚えていないというわけじゃなさそうなんですよね。たぶん、ドリフ加入直後はまだそれほど子供の記憶に残るような強烈なインパクトが無かったのかも知れません。荒井注さんとの交代劇も全く覚えていないです。というか、荒井注さんのドリフ時代も私は覚えてないですね。ドリフを脱退された後の荒井注さんはよく覚えていますが、ドリフ時代の記憶はないです。
ジャンボマックス。。。若い人は知らないと思いますが。3メートルくらいあるでっかい、髭面のおっさんの風貌をしたぬいぐるみで、全員集合とか、他のTBS系の番組にちょくちょく出ていました。未だにあれが何者なのかよく知りませんが(何かの企画もの?)、私の中で、全員集合に関する一番古い記憶はジャンボマックスですね。4歳くらいの頃だと思います。
東村山音頭の次に古い記憶は、”早口言葉”。これはもう踊りまで覚えている。そして、、しばらく全員集合が3人になった時のことですね(知らない人は調べて)。で、その次がひげダンス、かな。”最初はグー”が誕生した、仲本さんとの決闘のコント(じゃんけんで負けた方が罰を食らう奴)もよく覚えています。同じ頃でしょうか。
最近ネットを調べていて、最初はグー、は初めの頃はもう少し長くて、”いかりや長介頭はパー”とか言っていたという情報を見つけて、「そういえばそうだったかなー」と、薄っすら覚えているようないないような感じなのですが、そうでしたっけ?
最近思い出したと言えばもう一つ、東村山音頭の少し後にやっていた”ディスコ婆ちゃん”。あー、そんなのあったなーと。
コントは、それこそ数限りなくありますが、女優さんや歌手との絡みで印象がつよいのは、古くは桜田淳子さんとか研ナオコさんですね。ヘマをやらかして”陰・陽”がコロコロ代わるやつと、生卵、です。
ドリフ大爆笑系のコントで印象に残っているのは、加藤さんと一緒に逆さづりになって、カメラも上下逆にして、”擬似無重力状態”になるやつ。あまりに斬新で、初めて見た時のインパクトは強烈でした。あとは、”威勢のいい風呂屋”。これは初めて見た時は腹がよじれるほど笑いました。中学生の頃だったと思います。
この風呂屋のコントのように、たまにいかりやさんをいじめる系のコントが出てきますが、ドリフって、いかりやさんとそれ以外のメンバーとの軽い不仲というかゴタゴタした部分というか、そういう物もチラチラ出していたのを子供心によく覚えていますし、それが大人の世界の人間関係についての勉強にもなりました。”ああ、これで日頃の鬱憤晴らしをしてるんだな”と、子供ながらにそんな事を感じながら見ていたもんです(もちろん、本当に仲が悪かったわけではないでしょうが)。
とまあ、とりとめのない書き方になってしまいましたが、私の中でドリフについて特に強く記憶に強く残っている事はこんな感じです。
全員集合が終わったのは85年ですが、その前年の84年の始めころまでは見ていたと思います。その年は中3で高校受験を控えていたので、さすがに後半はテレビを見ている余裕はなかったですね。85年はもう高校生で、さすがにこの頃は見なくなっていました。最終回も見ていないと思います(勉強で大変だった)。
ちなみにこの1985年というのは、それまでに続いていた名物長寿番組がバタバタと立て続けに終わっていった年だと記憶しています。時代が変わっていくなー、というようなことを初めて感じた年でした。未だに、この年になぜそのような事が起こったのか、色々調べてはいるのですが明確に説明してくれている情報に出会えていません。なぜなんでしょう?昭和が終わったのは4年ほど後ですが、”昭和的なもの”はこの頃から終わりつつあったのかも知れません。
加トちゃんけんちゃんご機嫌テレビ、は大学受験勉強の合間の息抜きに時々見ていましたが、これはもはや”ドリフ”ではなく、”加藤茶と志村けんのコンビ”というイメージでしたね(そりゃそうか)。バカ殿の頃は、自分自身の進路などの事で大変で、テレビを見て笑う余裕は完全になかったです。
最後になりますが、ドリフ、そして、志村けんさんのようなタイプのお笑いレジェンドが出現するようなことは、もう二度と無いと思います。ひょっとしたら、笑いの才能や実力では同じくらい力のある人が現れることはあるかもしれませんし、今のお笑い界にもそういう人はいるのかもしれません。しかし、それを支える土壌、簡単に言えば、昭和の時代のテレビのようなパワーのあるメディアは今の時代にはありません。日本国民の半分が見る番組、老若男女を問わない皆んなのスター、を生み出す社会的土壌はもう存在しないのです(ネットは明らかにそういう性質のものではない)。なので、ドリフや志村さんのようなタイプのお笑いレジェンドが出現することは、もう二度と無いと思います。
若い人は志村どうぶつ園、なんですかね。今自宅にテレビが無い私はこの番組は知らないです。ということで、50歳の私が志村さんやドリフにどのような思い出を持っているのか、若い人達に少しお話ししてみようと思います。同世代、または私より上の世代の方は、共感して頂ける部分も多いかも知れません。
今50歳の私の中で、志村けんさんについて覚えている一番古い記憶は、「東村山音頭」ですね。76年ですから小学校一年のときです。これくらいの年齢ならそりゃもう、はっきり覚えています。当時、”なぜ2丁目がないのか?”が大きな疑問でした。
この東村山音頭、実は、志村さんが歌っていたのはカバーで、元歌というか、もっと古い原曲があるのをつい最近知りました。皆さん、知ってました?1963年に作成されたそうで、三橋美智也さんが歌っています。導入部分は志村さんバージョンとほぼ同じ。平田満バージョンもあるそうです。
志村さんがドリフの正式メンバーになったのは74年だそうですが、東村山音頭より古い、志村さんに関する記憶は私の中にはないです。でも、それより前の、カトちゃんの”ちょっとだけよ”とか、ジャンボマックとかは覚えているので、幼くて覚えていないというわけじゃなさそうなんですよね。たぶん、ドリフ加入直後はまだそれほど子供の記憶に残るような強烈なインパクトが無かったのかも知れません。荒井注さんとの交代劇も全く覚えていないです。というか、荒井注さんのドリフ時代も私は覚えてないですね。ドリフを脱退された後の荒井注さんはよく覚えていますが、ドリフ時代の記憶はないです。
ジャンボマックス。。。若い人は知らないと思いますが。3メートルくらいあるでっかい、髭面のおっさんの風貌をしたぬいぐるみで、全員集合とか、他のTBS系の番組にちょくちょく出ていました。未だにあれが何者なのかよく知りませんが(何かの企画もの?)、私の中で、全員集合に関する一番古い記憶はジャンボマックスですね。4歳くらいの頃だと思います。
東村山音頭の次に古い記憶は、”早口言葉”。これはもう踊りまで覚えている。そして、、しばらく全員集合が3人になった時のことですね(知らない人は調べて)。で、その次がひげダンス、かな。”最初はグー”が誕生した、仲本さんとの決闘のコント(じゃんけんで負けた方が罰を食らう奴)もよく覚えています。同じ頃でしょうか。
最近ネットを調べていて、最初はグー、は初めの頃はもう少し長くて、”いかりや長介頭はパー”とか言っていたという情報を見つけて、「そういえばそうだったかなー」と、薄っすら覚えているようないないような感じなのですが、そうでしたっけ?
最近思い出したと言えばもう一つ、東村山音頭の少し後にやっていた”ディスコ婆ちゃん”。あー、そんなのあったなーと。
コントは、それこそ数限りなくありますが、女優さんや歌手との絡みで印象がつよいのは、古くは桜田淳子さんとか研ナオコさんですね。ヘマをやらかして”陰・陽”がコロコロ代わるやつと、生卵、です。
ドリフ大爆笑系のコントで印象に残っているのは、加藤さんと一緒に逆さづりになって、カメラも上下逆にして、”擬似無重力状態”になるやつ。あまりに斬新で、初めて見た時のインパクトは強烈でした。あとは、”威勢のいい風呂屋”。これは初めて見た時は腹がよじれるほど笑いました。中学生の頃だったと思います。
この風呂屋のコントのように、たまにいかりやさんをいじめる系のコントが出てきますが、ドリフって、いかりやさんとそれ以外のメンバーとの軽い不仲というかゴタゴタした部分というか、そういう物もチラチラ出していたのを子供心によく覚えていますし、それが大人の世界の人間関係についての勉強にもなりました。”ああ、これで日頃の鬱憤晴らしをしてるんだな”と、子供ながらにそんな事を感じながら見ていたもんです(もちろん、本当に仲が悪かったわけではないでしょうが)。
とまあ、とりとめのない書き方になってしまいましたが、私の中でドリフについて特に強く記憶に強く残っている事はこんな感じです。
全員集合が終わったのは85年ですが、その前年の84年の始めころまでは見ていたと思います。その年は中3で高校受験を控えていたので、さすがに後半はテレビを見ている余裕はなかったですね。85年はもう高校生で、さすがにこの頃は見なくなっていました。最終回も見ていないと思います(勉強で大変だった)。
ちなみにこの1985年というのは、それまでに続いていた名物長寿番組がバタバタと立て続けに終わっていった年だと記憶しています。時代が変わっていくなー、というようなことを初めて感じた年でした。未だに、この年になぜそのような事が起こったのか、色々調べてはいるのですが明確に説明してくれている情報に出会えていません。なぜなんでしょう?昭和が終わったのは4年ほど後ですが、”昭和的なもの”はこの頃から終わりつつあったのかも知れません。
加トちゃんけんちゃんご機嫌テレビ、は大学受験勉強の合間の息抜きに時々見ていましたが、これはもはや”ドリフ”ではなく、”加藤茶と志村けんのコンビ”というイメージでしたね(そりゃそうか)。バカ殿の頃は、自分自身の進路などの事で大変で、テレビを見て笑う余裕は完全になかったです。
最後になりますが、ドリフ、そして、志村けんさんのようなタイプのお笑いレジェンドが出現するようなことは、もう二度と無いと思います。ひょっとしたら、笑いの才能や実力では同じくらい力のある人が現れることはあるかもしれませんし、今のお笑い界にもそういう人はいるのかもしれません。しかし、それを支える土壌、簡単に言えば、昭和の時代のテレビのようなパワーのあるメディアは今の時代にはありません。日本国民の半分が見る番組、老若男女を問わない皆んなのスター、を生み出す社会的土壌はもう存在しないのです(ネットは明らかにそういう性質のものではない)。なので、ドリフや志村さんのようなタイプのお笑いレジェンドが出現することは、もう二度と無いと思います。