前回の続きです。前回「先生を確保しろ」と言いましたが、この状況じゃあ授業なんか受けれないよ、と思われるかもしれません。確かにその通りです。今回の話はあくまで一般論として捉えて下さい。ではいきます。
(4)暗記したかどうかよりも、自分の技術がその本を上回ったかどうか
問題集ではなく講義系の本に取り組む場合、どうしてもその本に書いてある”字面”を覚えたかどうかということにこだわってしまいがちです。もちろん間違いではありませんし、本を勉強して覚えるということはそういうことです。しかし、覚えよう、覚えよう、とすればするほど、いつのまにか本そのものを覚えることが目的になってしまい、無理をして知識を詰め込むことになってしまいます。で、そのような知識というのは結局応用が利かず、ゆえに、レベルの高い試験でなかなか点が取れないということになってしまいます。
逆の例を言うと、英語が苦手だと泣き言を言っている高校生なんかでも、中学の1年、2年くらいの教科書を見返してみると、アホらしいほど簡単だと思う人が多いと思うんですね。別に、その頃の教科書を脂汗たらして死に物狂いで暗記・復習したわけでもないのに、高校生になる頃のあなたにとってはもう、簡単すぎてアホらしい本になってしまっている。もちろん、そういう中学レベルの英語の試験を仮に受けたとしても結構な点が取れる。
勉強とは本来そうあるべきだと思うのです。苦手ながらも中3、高1、高2と少しずつレベルを上げた英語と格闘していくうちに、いつのまにか自分の技術力は中1、中2の教科書レベルなら見下せるくらいの領域に到達してしまった。そういう営みをずっと続けていけば無理なクソ暗記をしなくても実力は上がっていくし、また、そうやって無理なく身につけた力でないと応用は利きません。
だとすると、高校レベルの内容も別に脂汗たらして暗記しなくてもそのような形でマスターしてしまえれば全く問題ないのですが、残念ながら、大学生になる頃に高校英語がアホらしいと思えるほどの英語力を身につけても、もはや遅すぎて報われませんし、そもそも高校生が終わった段階でほとんどの人は勉強をやめてしまうので、高校レベルの内容を中学の内容と同じように”自然に”身につけてしまうことはできないのですね。
要するに、大学受験があるために高校レベルの内容を高校のうちに無理して覚えないといけない所に全ての元凶があるわけですが、上に書いたような自然なやり方に少しでも近い形で、そして、その結果柔軟に使いこなせる形の知識を身につけようと思ったら、以下のような方法を取るしかないでしょう。
(a)できるだけ早く勉強を開始する
(b)繰り返す
(c)違う情報ソースで同じ情報に触れる
(a)は要するに”先取り学習”ですね。前回、普段の授業をその日のうちに完全理解する以上の方法はないと言いましたが、しいて言えば、この先取り学習はそれをも上回る、まさに最強の方法だと思います。先取り学習を組織的に行ってくれる塾や先生がいれば無敵ですが、そういう物が手に入らなくても、少々乱暴な勉強でも早く始めて早く一通り終えて、そして何度も繰り返すということをやれば、かなり出来るようになるはずです。受験勉強なんて所詮は時間との闘いですからね。
(b)は極めて当たり前の話で、どんなに優秀な人でも何度も繰り返さないと覚えられないということで、これもそのための時間が確保できるかどうかという話なので、(a)と密接な関係があります。
(c)はまた違う話で、次の(6)に近い話なので、そこで詳しく述べます。そして、(a)、(b)を具体化したものが次の(5)となります。ここで言いたかったことは、脂汗たらして本を覚えるというよりも、その本に書かれていることが自分にとって”常識と言えるほどの当たり前の知識”と思えるように腕を磨くという考え方にシフトすることが重要で、そのためには上の(a)~(c)が基本方針になるということです。
(5)中学・高校の全過程を何周もする
よく、公立高校は3年の秋くらいにぎりぎり高校の範囲の授業を終えるから受験に間に合わず、中高一貫の私立高校に太刀打ちできないのだと言われます。しかし、あれだけボリュームのある、そして難解な高校課程の内容を、たった一回しか回そうとしないことの方が問題ではないでしょうか?
勉強でも何でも、物事を習得しようとするときに一番無理のないやり方は、易しい内容から徐々に難しい内容へ、そして、それぞれのレベルを徹底的に繰り返して身についたら次のステップに移る、というやり方だと思います。だから、スポーツや芸事の世界では何級とか何段とか、そういうランクに分かれているのでしょう?
学校の勉強も本来そうあるべきだと思います。英語なんかは割りと学年ごとに段々とレベルを上げていくようなやり方に近くなっていると思いますが、他の教科は単に中学3年間、高校3年間で内容が分断されているだけで、順を追って難易度をあげていく、というやり方にはなっていませんよね。
これがもし、例えば、高1ではごく基本的なテキストを使って全教科ともに基本的な骨格部分だけをマスターする、高2では少しレベルを上げて細かい知識を上乗せしながら高1の内容を復習する、高3で大学入試に対応できる応用力を磨くことをしながら、その過程で身についていなかった知識をあぶり出して最後の確認をする、というようなやり方にできれば、入試の直前でまだ基本的なことが分かっていないなどと焦りまくる必要もなくなるし、高校課程の一通りの内容を3回も繰り返すことになり、知らないうちに覚えていた、に近い状態になれると思うのです。同じ教科、科目でも、高1コース、高2コース、高3コース、があって然るべきだと私は思います。
勉強の仕方を自分で勝手にこのように変えてしまうのは、よほど力のある人か勇気がある人でないと無理かも知れませんが、ごく基本的な所だけでも先取りして早い段階で基礎(初歩的な、という意味の)を身に着けてしまうくらいのことは出来なくはないと思うのです。早い段階でそのような知識の核ができてしまえば勉強はかなりラクになるはずです。
(6)本よりも問題演習
受験勉強に限っていえば、その目的は本を暗唱することではなく入試問題が解けるようになることです。当たり前ですね。で、問題を自分で解くためには当然、その前提となる教科書や参考書に書かれている知識が頭に入っている必要があるわけですが、ここで勘違いしてはいけないのは、前提知識を覚えているからと言って問題が解けるとは限らない、ということです。別の言い方をすれば、教科書や参考書に書いてある知識を覚えていることは、問題が解けるための必要条件ではあっても、十分条件ではないのです。
「あんなに勉強したのに問題が解けない」という歯がゆい思いはほとんどの人が経験しているでしょうから、こんな事は言われなくても分かっているでしょうけど、なぜ問題が解けないのか?を深く考えてみたことがあるでしょうか?まあ私も受験指導のプロではないので断言はできませんが、その原因は、
としか言いようが無いと思います。ではもっと突っ込んで、なぜ問題を解く経験が必要なのでしょうか?それは、
です。では、問題を解くことでしか得られないもの、とは何でしょうか?それは、
についての経験上の理解です。簡単な試験では本に書いてある知識がそのまま問われるだけなので、本を覚えているかどうかだけが問題となります。しかし、難関試験では上のような感覚をもっているかどうかが勝負になるわけです。
本で覚える知識そのものと試験問題演習を通して得られる知識って何が違うんだ?どちらも同じ知識じゃないのか?と思われると思います。確かに両者の違いを言語化するのは難しいです。が、例えば数学だったら、”あの公式はこんな風に、こんな場面で使うのか”というような感覚だったり、化学なら”この化学反応式は入試で書かされることがあるのだな”というような、問題を解くという側面から見た知識の整理が出来ていないと問題がスムーズに解けないことがあるというのは誰でも経験があると思います。要は、知識を単に”暗唱”しているだけではなく、問題を解くための道具としてその使い所まで熟知していることが必要なのです。
また、問題を解くプロセスを通して知識を確認する作業を行うことによって、同じ知識を違う視点から眺めることになり、結果として記憶が強化されるということが起こります。以前、同じ英単語に違う媒体で出会った時に定着度が一気に上がるというような話をしましたが、受験勉強でも、1冊の本だけで脂汗たらして覚えようとしてもなかなか覚えられなかったことが、問題を解いたり違う本を眺めることによって覚えられてしまった、ということはよくあることです。
前回例に挙げたアンモニアソーダ法ですが、「塩化ナトリウムの飽和水溶液にアンモニアを溶かし、その後二酸化炭素を吹き込む」という手順は私もなかなか覚えられませんでした。というか、何回か勉強して覚えようとしたつもりなのに、前回の記事を書いた時は結局覚えておらず、本を見ながら文章を書いたのです。しかし、前回の記事に書いたことがきっかけで、もう完全に覚えてしまいました。不思議なものです。このように同じ情報に対して違う角度から接することは、暗記の効率を大きく向上させてくれるものです。
だから、問題を解きながら基本知識を確認するというのは非常に有効な作業であり、逆に言えば全部完璧に覚えるまで問題演習をやらないという姿勢は非常に効率が悪く、受験勉強が時間切れになる可能性も高いです。教科書傍用の基本問題集の存在意義もそこにあるのです。
少々長くなりましたが、最後にまとめじみたことを書いておくと、幼少期の乱読や社会人になってからの自己研鑽の勉強と違って、受験生には時間がありません。ただただ漫然と本を読み進めるというやり方では上手くいかないことが多く、記憶の効率化と知識のメンテナンスを考える必要があるのです。それが面白いと感じる人と、面白くないと感じる人、両方いると思います。受験を技術を競うゲームのように捉える人は面白いと思うでしょうし、純粋に知識を愛する学者タイプの人は面白くないと思うのです。
(4)暗記したかどうかよりも、自分の技術がその本を上回ったかどうか
問題集ではなく講義系の本に取り組む場合、どうしてもその本に書いてある”字面”を覚えたかどうかということにこだわってしまいがちです。もちろん間違いではありませんし、本を勉強して覚えるということはそういうことです。しかし、覚えよう、覚えよう、とすればするほど、いつのまにか本そのものを覚えることが目的になってしまい、無理をして知識を詰め込むことになってしまいます。で、そのような知識というのは結局応用が利かず、ゆえに、レベルの高い試験でなかなか点が取れないということになってしまいます。
逆の例を言うと、英語が苦手だと泣き言を言っている高校生なんかでも、中学の1年、2年くらいの教科書を見返してみると、アホらしいほど簡単だと思う人が多いと思うんですね。別に、その頃の教科書を脂汗たらして死に物狂いで暗記・復習したわけでもないのに、高校生になる頃のあなたにとってはもう、簡単すぎてアホらしい本になってしまっている。もちろん、そういう中学レベルの英語の試験を仮に受けたとしても結構な点が取れる。
勉強とは本来そうあるべきだと思うのです。苦手ながらも中3、高1、高2と少しずつレベルを上げた英語と格闘していくうちに、いつのまにか自分の技術力は中1、中2の教科書レベルなら見下せるくらいの領域に到達してしまった。そういう営みをずっと続けていけば無理なクソ暗記をしなくても実力は上がっていくし、また、そうやって無理なく身につけた力でないと応用は利きません。
だとすると、高校レベルの内容も別に脂汗たらして暗記しなくてもそのような形でマスターしてしまえれば全く問題ないのですが、残念ながら、大学生になる頃に高校英語がアホらしいと思えるほどの英語力を身につけても、もはや遅すぎて報われませんし、そもそも高校生が終わった段階でほとんどの人は勉強をやめてしまうので、高校レベルの内容を中学の内容と同じように”自然に”身につけてしまうことはできないのですね。
要するに、大学受験があるために高校レベルの内容を高校のうちに無理して覚えないといけない所に全ての元凶があるわけですが、上に書いたような自然なやり方に少しでも近い形で、そして、その結果柔軟に使いこなせる形の知識を身につけようと思ったら、以下のような方法を取るしかないでしょう。
(a)できるだけ早く勉強を開始する
(b)繰り返す
(c)違う情報ソースで同じ情報に触れる
(a)は要するに”先取り学習”ですね。前回、普段の授業をその日のうちに完全理解する以上の方法はないと言いましたが、しいて言えば、この先取り学習はそれをも上回る、まさに最強の方法だと思います。先取り学習を組織的に行ってくれる塾や先生がいれば無敵ですが、そういう物が手に入らなくても、少々乱暴な勉強でも早く始めて早く一通り終えて、そして何度も繰り返すということをやれば、かなり出来るようになるはずです。受験勉強なんて所詮は時間との闘いですからね。
(b)は極めて当たり前の話で、どんなに優秀な人でも何度も繰り返さないと覚えられないということで、これもそのための時間が確保できるかどうかという話なので、(a)と密接な関係があります。
(c)はまた違う話で、次の(6)に近い話なので、そこで詳しく述べます。そして、(a)、(b)を具体化したものが次の(5)となります。ここで言いたかったことは、脂汗たらして本を覚えるというよりも、その本に書かれていることが自分にとって”常識と言えるほどの当たり前の知識”と思えるように腕を磨くという考え方にシフトすることが重要で、そのためには上の(a)~(c)が基本方針になるということです。
(5)中学・高校の全過程を何周もする
よく、公立高校は3年の秋くらいにぎりぎり高校の範囲の授業を終えるから受験に間に合わず、中高一貫の私立高校に太刀打ちできないのだと言われます。しかし、あれだけボリュームのある、そして難解な高校課程の内容を、たった一回しか回そうとしないことの方が問題ではないでしょうか?
勉強でも何でも、物事を習得しようとするときに一番無理のないやり方は、易しい内容から徐々に難しい内容へ、そして、それぞれのレベルを徹底的に繰り返して身についたら次のステップに移る、というやり方だと思います。だから、スポーツや芸事の世界では何級とか何段とか、そういうランクに分かれているのでしょう?
学校の勉強も本来そうあるべきだと思います。英語なんかは割りと学年ごとに段々とレベルを上げていくようなやり方に近くなっていると思いますが、他の教科は単に中学3年間、高校3年間で内容が分断されているだけで、順を追って難易度をあげていく、というやり方にはなっていませんよね。
これがもし、例えば、高1ではごく基本的なテキストを使って全教科ともに基本的な骨格部分だけをマスターする、高2では少しレベルを上げて細かい知識を上乗せしながら高1の内容を復習する、高3で大学入試に対応できる応用力を磨くことをしながら、その過程で身についていなかった知識をあぶり出して最後の確認をする、というようなやり方にできれば、入試の直前でまだ基本的なことが分かっていないなどと焦りまくる必要もなくなるし、高校課程の一通りの内容を3回も繰り返すことになり、知らないうちに覚えていた、に近い状態になれると思うのです。同じ教科、科目でも、高1コース、高2コース、高3コース、があって然るべきだと私は思います。
勉強の仕方を自分で勝手にこのように変えてしまうのは、よほど力のある人か勇気がある人でないと無理かも知れませんが、ごく基本的な所だけでも先取りして早い段階で基礎(初歩的な、という意味の)を身に着けてしまうくらいのことは出来なくはないと思うのです。早い段階でそのような知識の核ができてしまえば勉強はかなりラクになるはずです。
(6)本よりも問題演習
受験勉強に限っていえば、その目的は本を暗唱することではなく入試問題が解けるようになることです。当たり前ですね。で、問題を自分で解くためには当然、その前提となる教科書や参考書に書かれている知識が頭に入っている必要があるわけですが、ここで勘違いしてはいけないのは、前提知識を覚えているからと言って問題が解けるとは限らない、ということです。別の言い方をすれば、教科書や参考書に書いてある知識を覚えていることは、問題が解けるための必要条件ではあっても、十分条件ではないのです。
「あんなに勉強したのに問題が解けない」という歯がゆい思いはほとんどの人が経験しているでしょうから、こんな事は言われなくても分かっているでしょうけど、なぜ問題が解けないのか?を深く考えてみたことがあるでしょうか?まあ私も受験指導のプロではないので断言はできませんが、その原因は、
問題を解いた経験が不足しているから
としか言いようが無いと思います。ではもっと突っ込んで、なぜ問題を解く経験が必要なのでしょうか?それは、
問題を解くことでしか得られないものがあるから
です。では、問題を解くことでしか得られないもの、とは何でしょうか?それは、
基礎知識をどのように使って頭を回せばいいのか
基礎知識がどのような形で問われるのか
についての経験上の理解です。簡単な試験では本に書いてある知識がそのまま問われるだけなので、本を覚えているかどうかだけが問題となります。しかし、難関試験では上のような感覚をもっているかどうかが勝負になるわけです。
本で覚える知識そのものと試験問題演習を通して得られる知識って何が違うんだ?どちらも同じ知識じゃないのか?と思われると思います。確かに両者の違いを言語化するのは難しいです。が、例えば数学だったら、”あの公式はこんな風に、こんな場面で使うのか”というような感覚だったり、化学なら”この化学反応式は入試で書かされることがあるのだな”というような、問題を解くという側面から見た知識の整理が出来ていないと問題がスムーズに解けないことがあるというのは誰でも経験があると思います。要は、知識を単に”暗唱”しているだけではなく、問題を解くための道具としてその使い所まで熟知していることが必要なのです。
また、問題を解くプロセスを通して知識を確認する作業を行うことによって、同じ知識を違う視点から眺めることになり、結果として記憶が強化されるということが起こります。以前、同じ英単語に違う媒体で出会った時に定着度が一気に上がるというような話をしましたが、受験勉強でも、1冊の本だけで脂汗たらして覚えようとしてもなかなか覚えられなかったことが、問題を解いたり違う本を眺めることによって覚えられてしまった、ということはよくあることです。
前回例に挙げたアンモニアソーダ法ですが、「塩化ナトリウムの飽和水溶液にアンモニアを溶かし、その後二酸化炭素を吹き込む」という手順は私もなかなか覚えられませんでした。というか、何回か勉強して覚えようとしたつもりなのに、前回の記事を書いた時は結局覚えておらず、本を見ながら文章を書いたのです。しかし、前回の記事に書いたことがきっかけで、もう完全に覚えてしまいました。不思議なものです。このように同じ情報に対して違う角度から接することは、暗記の効率を大きく向上させてくれるものです。
だから、問題を解きながら基本知識を確認するというのは非常に有効な作業であり、逆に言えば全部完璧に覚えるまで問題演習をやらないという姿勢は非常に効率が悪く、受験勉強が時間切れになる可能性も高いです。教科書傍用の基本問題集の存在意義もそこにあるのです。
少々長くなりましたが、最後にまとめじみたことを書いておくと、幼少期の乱読や社会人になってからの自己研鑽の勉強と違って、受験生には時間がありません。ただただ漫然と本を読み進めるというやり方では上手くいかないことが多く、記憶の効率化と知識のメンテナンスを考える必要があるのです。それが面白いと感じる人と、面白くないと感じる人、両方いると思います。受験を技術を競うゲームのように捉える人は面白いと思うでしょうし、純粋に知識を愛する学者タイプの人は面白くないと思うのです。