【「自分が必要とされている」と思える場所がありますか?】3763
明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
《「自分が必要とされている」と思える場所がありますか?》
「自分が必要とされている」と思えることは、人間にとって大きな喜びです。
充実感、自己肯定感が湧き、生きる意欲にもつながります。
たとえば、仕事でこれまで自分がリーダーとして進めていたプロジェクトの中心が後輩や部下に移り、オブザーバー的な立場になってしまったとき。
あるいは、子どもが成長して自分たちの世界ができ、休日を親であるあなたと一緒に過ごさなくなったとき。
「やっと自分の時間ができる」とホッとする…とは限りません。
むしろ自分が必要とされなくなっていくことへの一抹の寂しさを感じるものです。
私たちは日常さまざまなかたちで人との「関わり」を持っていますが、ふだんはそのことをあまり意識していません。
当たり前のこととしてあった「関わり」や「関係性」に変化が生じて初めて、今まで自分が必要とされていたことに気づくのです。
人間は、やはりつながっていたい、社会から必要とされていたいもの。
自分の担っていた何かの役割が終わって心寂しさを感じるようなことがあったら、「役割を果たせそうな場所」を新たに見つけましょう。
よくないのは、「自分は世の中から必要とされていないのではないか」と考えすぎて、内にこもってしまうことです。
それがエスカレートしていくと、「必要とされない自分には、価値がないのではないか」といった考えにまで陥ってしまいます。
「必要とされる」ことを受動的に捉えるのではなく、「自分が何か役に立てることはあるか」「世の中に貢献できることは何か」という視点を持つことが大切です。
人と人、何かと何かをつなぐために自分にできることを探す。
血のめぐりもそうですが、人のつながりも滞ってしまうとよくないので、流れをよくする、めぐりをよくすることが大事です。
地域のボランティアのようなニーズはたくさんあります。
自分は社会における血液のようなもの、「血の一滴」だと考えてみてください。
社会の血液として、役割を果たすことができていると思えたら、あなたは大丈夫。
『人生後半の幸福論』光文社新書
日本経営合理化協会会長、牟田學氏のこんな言葉がある。(社長のいき方・PHP研究所)より
『テーブルの上に置いてある1個のグラスは、それがどんな形であっても、決して生命体ではない。
しかし、喉がカラカラに渇いた人が、そのグラスに水を汲んで飲む。
そうすると、グラスはその人によって生かされ、生命を持つ。
つまり、生きていることになる。
キェルケゴールは、存在しているものはみんな生きていると説いている。
たとえ、それが生命体であってもなくても、別の個体に強く必要とされるものは、その存在の価値が高くなり、長く生き続けることができると教えている。
この哲学は、実存主義として、フランスのサルトルやボーボワールや、インドのタゴールによって主唱され、21世紀の哲学として資本主義社会の中で生き続けて久しい。』
人は、「あたながいてくれてよかった」と、その存在を強く必要とされたとき、生きがいを感じ、生きていてよかったとじみじみ思う。
そして、一個のグラスと同じように、人によって生かされ、生命を持つ。
人に必要とされる人は、何かを与え続けている人。
「自分の居場所がない」「必要とされていない」と感じる人は、もらうことばかり考えている人。
「もらうこと」に焦点を当てるのではなく、「与えること」に焦点を当てること。
たとえば…
「あなたが必要だ」と誰かを応援すること。
自分の知識や情報をシェアし、発信し続けること。
頼まれたことを快く引き受けること。
いつも機嫌よく挨拶し笑顔でいること。
まわりがほっこりするような愛語を発し続けること。
ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブ。
テイク(もらうこと)を前提に、与えるのはダメ。
見返りを求めない、ギブ&ギブかどうかをお天道さまは見ている。
《「自分が必要とされている」と思える場所がありますか?》
「あたながいてくれてよかった」と、その存在を強く必要される人でありたい。
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明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
《「自分が必要とされている」と思える場所がありますか?》
「自分が必要とされている」と思えることは、人間にとって大きな喜びです。
充実感、自己肯定感が湧き、生きる意欲にもつながります。
たとえば、仕事でこれまで自分がリーダーとして進めていたプロジェクトの中心が後輩や部下に移り、オブザーバー的な立場になってしまったとき。
あるいは、子どもが成長して自分たちの世界ができ、休日を親であるあなたと一緒に過ごさなくなったとき。
「やっと自分の時間ができる」とホッとする…とは限りません。
むしろ自分が必要とされなくなっていくことへの一抹の寂しさを感じるものです。
私たちは日常さまざまなかたちで人との「関わり」を持っていますが、ふだんはそのことをあまり意識していません。
当たり前のこととしてあった「関わり」や「関係性」に変化が生じて初めて、今まで自分が必要とされていたことに気づくのです。
人間は、やはりつながっていたい、社会から必要とされていたいもの。
自分の担っていた何かの役割が終わって心寂しさを感じるようなことがあったら、「役割を果たせそうな場所」を新たに見つけましょう。
よくないのは、「自分は世の中から必要とされていないのではないか」と考えすぎて、内にこもってしまうことです。
それがエスカレートしていくと、「必要とされない自分には、価値がないのではないか」といった考えにまで陥ってしまいます。
「必要とされる」ことを受動的に捉えるのではなく、「自分が何か役に立てることはあるか」「世の中に貢献できることは何か」という視点を持つことが大切です。
人と人、何かと何かをつなぐために自分にできることを探す。
血のめぐりもそうですが、人のつながりも滞ってしまうとよくないので、流れをよくする、めぐりをよくすることが大事です。
地域のボランティアのようなニーズはたくさんあります。
自分は社会における血液のようなもの、「血の一滴」だと考えてみてください。
社会の血液として、役割を果たすことができていると思えたら、あなたは大丈夫。
『人生後半の幸福論』光文社新書
日本経営合理化協会会長、牟田學氏のこんな言葉がある。(社長のいき方・PHP研究所)より
『テーブルの上に置いてある1個のグラスは、それがどんな形であっても、決して生命体ではない。
しかし、喉がカラカラに渇いた人が、そのグラスに水を汲んで飲む。
そうすると、グラスはその人によって生かされ、生命を持つ。
つまり、生きていることになる。
キェルケゴールは、存在しているものはみんな生きていると説いている。
たとえ、それが生命体であってもなくても、別の個体に強く必要とされるものは、その存在の価値が高くなり、長く生き続けることができると教えている。
この哲学は、実存主義として、フランスのサルトルやボーボワールや、インドのタゴールによって主唱され、21世紀の哲学として資本主義社会の中で生き続けて久しい。』
人は、「あたながいてくれてよかった」と、その存在を強く必要とされたとき、生きがいを感じ、生きていてよかったとじみじみ思う。
そして、一個のグラスと同じように、人によって生かされ、生命を持つ。
人に必要とされる人は、何かを与え続けている人。
「自分の居場所がない」「必要とされていない」と感じる人は、もらうことばかり考えている人。
「もらうこと」に焦点を当てるのではなく、「与えること」に焦点を当てること。
たとえば…
「あなたが必要だ」と誰かを応援すること。
自分の知識や情報をシェアし、発信し続けること。
頼まれたことを快く引き受けること。
いつも機嫌よく挨拶し笑顔でいること。
まわりがほっこりするような愛語を発し続けること。
ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブ。
テイク(もらうこと)を前提に、与えるのはダメ。
見返りを求めない、ギブ&ギブかどうかをお天道さまは見ている。
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