国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

はじめに

私(Yasuhiro)とボリビア人のLinda(通称)は2015年9月29日にニューヨークで結婚しましたが、翌2016年の1月3日にも妻の実家があるコチャバンバで式を挙げました。3ヶ月以上もの日を措いて2度結婚することになった訳ですが、その「たいへんだった」経緯については「結婚@NYまで」のカテゴリーにまとめています。

気持ち悪い

2018-09-29 | 日記
今月メジャー大会で優勝したテニス選手の人気が沸騰しているようですね。私はこの競技には面白さが感じられず(見ていて退屈)、男子のK選手の勝ち負けにもさして興味が湧かなかったほどの人間ですが、彼女のアイデンティティに関する記事はついつい読んでしまいます。先日の朝刊に載っていたこれ(ネット版は有料)とか、その検索中に見つけたこれとか・・・・・・(ここまで前振り)

で、ここからはアイデンティティについていろいろ考えさせられることの多いエッセイについて。(実はそれを採り上げたいと前々から思っていました。)

それは某社(ある特集が世間の激しい怒りを買って事実上の廃刊に追い込まれた雑誌の出版社)のPR誌「波」に今年から連載されている「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」で、筆者のブレイディみかこ(Brady Mikako)は英国在住、アイルランド人の夫との間に中学生の息子が一人います。連載の第1回では、その息子がカトリック校にはそのまま進まず「元・底辺中学校」へ通うことを自ら選ぶに至った経緯が綴られ、以降の回では人種差別的発言が飛び交い時には殴り合いの喧嘩にまで発展するといった学校の様子がたびたび紹介されています。(このように少々物騒な内容ながらユーモアもしっかり散りばめられ、決して湿っぽくならないのは作家の力量だと思います。)

その第4回(4月号)がたいへん面白かったので、いろいろ書いてみようと思い立ちました。(追記:とはいったものの自分の手には余ると思われたため、結局はほとんど引用になりました。下手にいじって筆者の主張をねじ曲げてしまうのは最悪ですしね。)

この回でも冒頭から中学校でのレイシズム発言やそれを巡るいざこざの数々について触れられ、その後息子が「多様性はいいことだと学校では教えているのに、どうして多様性があるとややこしくなるのか」と問いかけます。以下、親子の会話。

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃない方が楽よ」
「楽じゃないものが、どうしていいの?」
「楽ばっかりしていると、無知になるから」
(中略)
「多様性はうんざりするほど大変だし、めんどうくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

(なお「生物多様性が高いほど生態系の安定性が増す」という一般則には、それを実証するデータも多数提出されていますが、人間社会には当てはまらないように見える (少なくともそうは思われてれていない) のはなぜだろうと考え込んでしまいました。)

続いて登場したのは件の「元底辺中学校」の校長先生。筆者は彼に「この学校は英国的価値観の推進をポリシーにしているそうだが、近年は欧州的価値観を打ち出すのが教育機関の姿勢として好ましいと言われているのをどう思うか?」と尋ねます。(いかにもEUからの離脱ですったもんだしている国らしい質問です。)それに対する答えは「どうしてどっちかじゃないといけないんですかね?」で筆者は「は?」

「自分のアイデンティティはイングリッシュで、ブリティッシュで、ヨーロピアンであり、どれか一つということではない」と語る校長は、「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」と述べていました。以下はやり取りの続きと筆者のコメントです。

「うちの息子なんか、アイリッシュ&ジャパニーズ&ブリティッシュ&ヨーロピアン&アジアンとめちゃくちゃ長いアイデンティティになっちゃいますよ」
 わたしが言うと校長が答えた。
「でしょ? でも、よく考えてみれば、誰だってアイデンティティが一つしかないなんってことはないはずなんですよ」
 どれか一つを選べとか、そのうちのどれを名乗ったかでやたら揉めたりする世の中になってきたのは確かである。
(中略)
 分断とは、そのどれか一つを他者に身にまとわせ、自分の方が上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときに起こるものかもしれない、と思った。


そういえば私が愛読しているお坊さんの著書には「ナショナリズムが甘い誘惑となりやすいのは努力がいらないからです。日本人であることは『生まれもったアイデンティティー』だからです。」という一節がありました。ということで、言いたかったのは「楽をしつつ優越感に浸ろうとする人間が(少なくともネット上には)ウヨウヨしているような国はちょっと気持ち悪い」ということでした。

さて、私の国籍は日本人だしアイデンティティを訊かれたらそう答える他はありません。(さすがに南米やアフリカを加えるのは無理というものです。チョイ住みしただけですから。)しかしながら、高2の頃からうすうす自覚していた「アウトサイダー感(場違い感)」は歳を重ねるにつれて増すばかり。もしそれが閾値を超えることになったら・・・・・いろいろあるんでしょうが、結局は住みやすいところに落ち着くことになると思います。国は関係なしです。(あそこは面白そうだけど台風がなあ。)

おまけ
 実はこの第4回で最も読み応えがあったのは後半部(母ちゃんのデジャヴ)でした。わが国に根強く残る差別問題に関するエピソードで、幼き日の筆者が当事者の一人であったと告白する最後の一文にはガーンとやられました。これ以上の大量引用は気が引けるため詳しくは書きませんが、バックナンバーが入手できるなら一読をお薦めしたいです。いずれ単行本化されるでしょうけど。

おまけ2
 気が変わったので上の「母ちゃんのデジャヴ」から少しだけ。二人の生徒による大喧嘩(自分の家の貧困を嘲笑われた生徒が相手の出自を挙げて言い返したのが原因)を諫める際に先生が喧嘩両成敗にした理由を訊かれた筆者が自身の見解を示すところから。(補足:その女性教師は周囲の猛反対を押し切って (家出までして) 最初に貧困をからかった生徒と同じ被差別コミュニティに嫁いでいました。)

「差別はいけないと教えることが大事なのはもちろんなんだけど、あの先生はちょっと違ってた。どの差別がいけない、っていう前に、人を傷つけることはどんなことでもよくないっていつも言っていた。だから2人を平等に叱ったんだと思う」
「・・・・・・・それは真理だよね」と息子がしみじみ言うのでわたしも答えた。
「うん。世の中をうまく回す意味でも、それが有効だと思う」

本文で括弧書きの注とした雑誌の件ですが、「言論の自由」を理由に編集部や特集記事の執筆者を擁護する人間が少なくないそうです。他人を傷つけることへの思いが至らなさすぎじゃありませんか? ブレイディ親子の爪の垢でも煎じて飲んでほしい。
Comments (2)
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