10/20 私の音楽仲間 (322) ~ 私の室内楽仲間たち (295)
旅行好きの師弟
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前回は、旅の音楽家、ジギスムント・リッター・フォン・
ノイコムが、ヨーゼフ、ミヒャエルの両ハイドンと師弟関係
にあったことに触れました。
生地ザルツブルクで、まずミヒャエルの手ほどきを受け、
16歳からは居をヴィーンに移し、ヨーゼフに教えを請うた
わけです。
ヴィーンでの7年間は、もちろんノイコムにとって実りのある
ものでした。 また巨匠の方でも、厚い信頼を彼に寄せ、自作
の編曲を、ほぼすべて彼に一任しています。
ザルツブルク宮廷で初めて職を得た後は、サンクト ペチェル
ブルクの宮廷楽長を務めるなど、ノイコムの華々しい活躍が
始まります。
その後1816年にブラジルに渡ってからは、師ハイドンや
Mozart の作品の普及に尽しています。 また1821年、
ヨーロッパに戻ってからは、編曲、出版作業という形で。
故郷ザルツブルクでは、1842年、Mozart の銅像の除幕式
にゲストとして参列したことには、すでに触れました。 ここでは、
ヨーゼフ・ハイドンのお墓を巡る逸話を、幾つか見てみましょう。
ちょうど、[音楽史跡とオペラの旅]という写真入りのサイト
に出会いました。 その中の記述を引用させてもらいながら、
先へ進んでみたいと思います。 「 」内が、引用の部分です。
「ハイドンは1809年5月31日、ナポレオン軍に占拠された
ウィーンで死亡しました。 葬儀が行われたグムペンドルフ
教区教会の壁の銘板によれば、それは翌日のことだった
ようです。」
砲声の轟く中、ハイドンは自らの病を押し、盛んにピアノ
を奏で、市民を鼓舞した…と言われます。 曲は、自作の
『皇帝讃歌』を自ら編曲したものでした。 ヴィーン陥落は
6月1日ですから、ちょうどその同じ日に葬儀が行われた
ことになります。 慌ただしい中、参列者は多かったので
しょうか?
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[ハイドン ピアノ曲 『皇帝讃歌』 音源サイト]
「1809年6月、ハイドンの遺体はフントシュトルム墓地に
葬られました。 この墓地は1874年に閉鎖され、1926年
にハイドン公園となりました。 広い公園を探すと、片隅
にハイドンの墓石がありました。 この墓石は1842年と
1900年に修復されているそうです。」
これはヴィーン市内の旧墓地で、現在 "ハイドン公園" と
なっています。 墓地名の "Hundsturm" は、直訳すると
"犬の嵐" ですね。
この後の記述にもあるとおり、お墓は間もなく別の場所に
移されることになります。 しかし、墓石だけは、そのまま
同じ場所に残っており、このサイトにも写真が掲載されて
います。
実はこの墓石ですが、設立にはノイコムが関わっていると
言われます。
作業を依頼されたノイコムは、1814年、自ら碑文を作成し、
その中には自作の "謎のカノン" が含まれているのだそう
です。 残念ながらこの写真は遠景なので、詳細は解りま
せんが。
「1820年に遺体をアイゼンシュタット (これもヴィーン市内)
にあるエステルハージー家ゆかりのベルク教会に移す
ことになり、棺を開くと遺体には頭部がありませんでした。
エステルハージー家の元書記官が、埋葬の数日後に
切断して盗み出していたのです。 頭部はいろいろな
人の手を渡り、1954年にやっと胴体と一緒になりました。」
事もあろうに、遺体収集癖のある人物に遭遇してしまうとは…。
生前ユーモアを好んだハイドンですが、死後がこれでは、まこと
に浮かばれません。
二度もロンドンへ遠征した思い出が忘れられず、死後も頭部
だけが長旅に出てしまったのでしょうか。 100年間以上も…。
[wikipedia]には、次の記載があります。
「ハイドンの死後、オーストリアの刑務所管理人であるヨハン・
ペーターという者と、かつてエステルハージ家の書記だったロー
ゼンバウムという男が首を切り離したのである。 彼らはハイドン
の熱烈な崇拝者だったようで、頭蓋骨を持ち去り、丁寧に薬品
処理を行なうなどして保存し続けた。 (ヨハンは、当時流行して
いた骨格及び脳容量と人格の相関関係についての学説の信奉
者であり、他に何人かの囚人の頭蓋骨を収集していた。 ハイドン
の天才性と脳容量の相関関係を研究したが、脳容量は通常人と
変化なかったため、自説を補強することはできなかった。 この
とき書いた論文のため、のちに頭蓋骨の所在が知れた。) 結局
は露見し、最終的に頭蓋骨は1954年、アイゼンシュタットに葬ら
れている胴体と一緒になることができた。」
この事件は、おそらくノイコムの耳にも入り、彼はさぞ驚き、
嘆いたことでしょう。
「ヨーゼフ先生、今はどこにおられるのですか……?」
師の所在を知ることなく、ノイコムは1858年に亡くなりました。
とんだミステリーですが、実は当人のノイコムも、いまだに
私たちに謎を投げかけています。
「先ほどの、"謎のカノン" ?」
ええ、ぜひ見てみたいですね。
「膨大な作品数? 隠れた名曲は、まだたくさんあるの?」
これも知りたい。
しかし私にとっての最大の興味は、生涯を通じての、あの
大旅行です。
ザルツブルク、ヴィーン、サンクト ペチェルブルク、リスボン、
ヒウ ヂ ジャネイル (リオデジャネイロ)、パリ、ロンドン。
これ、19世紀の話です。 その大移動には、もちろん、
それぞれ理由があったわけでしょうが…。
それにもう一つ。
膨大な数に及ぶ自作譜を、なぜフランス国家に寄贈した
のでしょうか?
生まれたオーストリアではなく…。