10/24 私の音楽仲間 (324) ~ 私の室内楽仲間たち (297)
動かない Beethoven
これまでの 『私の室内楽仲間たち』
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動かない Beethoven
「弟子の中には Beethoven もいましたが、こちらは "扱いにく
かった" のかもしれません。」
これは、作曲家ノイコムについての記事の中で、私が書いた
文章です。 "師" の方は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンでした。
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ハイドン先生と Beethoven は、あまり意見が合わなかったよう
ですが、その原因は、必ずしも "音楽の独創性"、"性格・気性"、
"主義・主張" などの相違だけではありません。
そもそも弟子入りのきっかけは、第三者を介してのものでした。
また同じヴィーンに起居していたとは言え、時間的なすれ違い
も災いしたのでしょう。
[wikipedia]には、「ベートーヴェンがウィーンに出てきた1792
年7月からハイドン自身が第2回目の渡英をするまでの1794年
1月29日までが、最長での教授を受けられる期間である。」…
という記述があります。 ハイドンは、翌年にかけてヴィーンを
留守にし、ロンドンで大成功を収めています。
これに比べるとノイコム (1778~1858) の場合は、師と親しく
交わる条件に恵まれていました。
生まれたザルツブルクには、ヨーゼフの弟ミヒャエル・ハイドン
が君臨 (1763~1806年) しており、10歳になるかどうかという年齢
のノイコムを教え始めています。 ヴィーンの兄、ヨーゼフへの
口利きも、おそらく順調だったのでしょう。
ヴィーンでの勉学期間は1794~1801年とされています。 ただ
最初の2年はハイドンのロンドン時代と重なっているので、本格
的な修業期間は、その後半の数年間と考えられます。
両者の信頼関係も深いものでした。 ハイドンは、かつて
のピアノの教え子でサンクト ペチェルブルクの皇族となった、
ゾフィー・ドロテア・フォン・ヴュルテンベルクに、弟子の就職
を依頼しています。 またノイコムの方でも、師の作品の普及
のために終生、労を惜しみませんでした。
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以下は、その記事中の "ノイコム 簡易年表" を参考にした、
Beethoven の作品表です。
ノイコムのロシア時代 (1804~1809年) だけを残し、同じ時期
に書かれた Beethoven の代表作で埋めてみました。
( ) 内は作曲年代です。
[1] ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 Op.37
(1800)
[2] ヴァイオリン ソナタ イ長調 Op.47 『クロイツェル』
(1803)
[3] ピアノ ソナタ 第21番 ハ長調 Op.53 『ヴァルトシュタイン』
(1803~04)
[4] 交響曲 第3番 変ホ長調 Op.55 『英雄』
(1803~04)
[5] ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ハ長調 Op.56
(1803~04)
1804年、ノイコム、サンクト ペチェルブルクへ。
[6] ピアノ ソナタ ヘ短調 第23番 Op.57 "Appassionata"
(1804~05)
[7] 歌劇『フィデリオ』 Op.72
(1805~1814)
[8] 交響曲 第5番 ハ短調 Op.67
(1805~08)
[9] ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 Op.58
(1805~06)
[10] 弦楽四重奏曲 『ラズモーフスキィ』 3曲 Op.59
(1806)
[11] 交響曲 第4番 変ロ長調 Op.60
(1806)
[12] ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61
(1806)
[13] 序曲『コリオラン』 Op.62
(1806)
[14] 交響曲 第6番 ヘ長調 Op.68 『田園』
(1807~08)
[15] ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 Op.73
(1808~1809)
[16] 弦楽四重奏曲 第10番 変ホ長調 Op.74
(1809)
1809年、ノイコム、師ハイドンをヴィーンに訪ねる。
同年5月31日、ハイドン77歳で死去。
[17] 劇音楽『エグモント』 Op.84
(1809~10)
以上は、飛び切りの名曲として親しまれているものばかり
です。 ただ、初演当時に好評を勝ち得たものは、「ほとんど
無い」…と言っていいほどです。
初演されたのが音楽会場ではなく、"私邸だった" 作品も
あり、「再演の後、広く理解を得るのに時間がかかった」…
という事情もありました。 しかし、どの曲も独創性に溢れて
おり、当時としては余りにも "破天荒" だったのでしょう。
『田園』など、私にとっては "癒しの音楽" なのですが…。
このうちの、ある曲については、次のような記録があります。
「初演は1807年3月に非公開の形で、1808年12月22日にアン
・デア・ウィーン劇場で公開の形で行なわれた。 公開初演の際
は、交響曲第5番『運命』と、交響曲第6番『田園』も初演された
が、いずれも失敗に終わり、最初に成功を収めたのは1836年
にフェリックス・メンデルスゾーンが取り上げてからだと言わ
れている。」
これは、[9] ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58 についての
記述で、やはり [wikipedia] に見られるものです。
ところで、ノイコム (1778~1858) は、むしろ Beethoven (1770
~1827) やメンデルスゾーン (1809~1847) よりも、当時は人気
があった…という記述を眼にすることがあります。 あるいは、
少なくとも "同等" と評価されていたようです。 その1,300 とも
2,000 とも言われる膨大な量の楽譜が、今でもフランスに眠った
ままになっているのだそうです。
今日の "評価が低い" のか、それとも "評価が追い付いて
いない"のか…。 いずれにせよ、勿体ない話です。
Beethoven の "ト長調の協奏曲" ですが、その第Ⅰ楽章は、
いきなり独奏ピアノで始まります。 また至るところで聞かれる
のが、いわゆる [8] "運命の動機" です。
初演の評判は芳しくなかったものの、現在これほど愛好されて
いるのは、本当に喜ばしい限りです。 単に耳触りが良いだけで
はありません。 聴けば聴くほど、また楽譜を読めば読むほど、
秘められた奥深さに気付かせてくれる曲の一つでしょう。
ちなみにこの曲のカデンツァ部分は、作曲者によるもの以外
にも、アントン・ルービンシュテイン、クララ・シューマン、ハンス・
フォン・ビューロウ、ブラームス、サン=サーンスなど、10人以上
の "演奏家が作曲" しています。
なお、この "運命の動機" は、[6] ピアノ ソナタ 第23番 ヘ短調
"Appassionata"、[10] 弦楽四重奏曲 『ラズモーフスキィ』 第3番
でも頻繁に現われます。
また [11] 交響曲第4番の第Ⅰ、第Ⅲ楽章でも、よく見ると形を
変えて現われています。
[12] ヴァイオリン協奏曲では、第Ⅲ楽章が 6/8拍子なので、
3つの八分音符が同じ音程のまま、主にオーケストラで何度
も繰り返されます。
それ以上に、リズムの拘りを感じさせるのが、第Ⅰ、第Ⅱ
楽章です。 4、5個の四分音符は、あるときは八分音符、
十六分音符となり、4/4拍子の流れを、極めて安定したもの
にしています。
音程のほとんど動かない "リズム要素" は、たとえ動機とは
成らずとも、この時期の作曲者の心を強く捉えていたようです。
音源は、ソロ ピアノと弦楽五重奏 (コントラバス入り) の編曲譜
によるもので、「編曲・編集は、Vinzenz Lachner (1811-1893)、
Sigmund Lebert (1821-1884) による」…とあります。
ピアノの T.さんと仲間たちが、一度だけ通したときのもの
です。 "オケ" は10人ほどで、指揮者はもちろんいません。
私も Viola を弾いています。
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子守唄のト長調
ヒマなソリスト、多忙なソリスト
[第Ⅰ楽章 終りの部分の演奏例]
[音源サイト ①] [音源サイト ②]