MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

翻弄された讃歌

2009-03-07 00:17:17 | 私の室内楽仲間たち

03/07  私の音楽仲間 (22) ~ 私の室内楽仲間たち (21)



              翻弄された讃歌



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                  芸術家ハイドン
               傑作への誘 (いざな)




 前回は、全曲が素材的にも第Ⅱ楽章を中心として成り立って
いることを見てきました。

 それでは、この有名な第Ⅱ楽章、そして原曲の歌には、
どのような背景があるのでしょうか。




 愛国心、そして、かのナポレオンに対する敵愾心に燃える
ハイドンは、母国オーストリアでも、国歌制定の必要性を痛感
していました。 そして、自国を治める、時の神聖ローマ帝国
(962~1806) の皇帝を讃える詩に、曲を作りました。 あの
ハプスブルク家の。 それが、のちにこの楽章の原型となり
ました。

 『皇帝讃歌』は1796年に完成し、初演は翌1797年の2月12日、
皇帝フランツⅡ世の誕生日。 帝都ヴィーンでのことでした。
ちなみにこれは、モーツァルトが同じヴィーンで亡くなってから、
五年二か月後のことになります。

 そして同じその年のうちに、この四重奏曲全体が完成され、
他の五曲の四重奏曲とともに、1799年に出版されました。



 皇帝を讃える歌は、世にも美しい変奏曲に形を変えました。

 この第Ⅱ楽章では、テーマが、四つの楽器すべてによって
奏でられます。 まず Vn.Ⅰ。 以後、順番に Vn.Ⅱ、チェロ、
Viola、そして最後にもう一度 Vn.Ⅰが思いを込めて。



 以来200年余、この曲は彼の、いや四重奏曲中屈指の名作
として、今日まで愛されています。




 原曲の歌の方ですが、こちらは、歴史の荒波に揉まれ
ながら、今日に至っています。





 歌の初演から九年が経ち、神聖ローマ帝国は1806年に
オーストリア帝国となり、神聖ローマ皇帝フランツⅡ世は、
オーストリア皇帝フランツⅠ世と名を変えました。 ハイドン
は、この様子を目撃してから三年後に亡くなります。



               音 源

オーストリア帝国国歌「神よ、皇帝フランツを護り給え」



 それから60年余、その母国がオーストリア=ハンガリー
帝国
(1867~1918) となってからも、さらに第二次大戦後に
至るまで、この曲はオーストリアの国歌であり続けました。

 その間、歌詞の方は何度も改められています。 作曲者の
存命中でさえ、二度も。





 またこの曲は、やがて『ドイツの歌』としても愛されるように
なります。 ナポレオン戦争後に、ドイツ統一の気運が高まって
いったからです。 もちろん、言語は同じドイツ語です。

 ただし、皇帝を讃えるオーストリアの歌詞内容は改められ、
ヴァイマル共和国時代 (1919~1933) に、ついに国歌と
なりました (1922年)。



 以後、ヒトラーのナツィス時代、また戦後の西ドイツ時代と、
歌詞内容に若干の異動はあったものの、100年近くを経た、
東西ドイツ統一後の1991年、そのままドイツの国歌となり、
今日に至っています。



               音 源

Deutschland über Alles

ドイツ連邦共和国国歌「ドイツの歌(Deutschland lied)」

     (画像は異なりますが、音の方は同じもののようです。)




 それではこの曲は、本来は
「オーストリア、ドイツの、どちらの国歌なのか
ということになると、単純に論じるのは難しいようです。



 現在これを国歌としているドイツ側に言わせれば、作曲当時
は地理的に "オーストリア" ではあっても、それを統治していた
のは神聖ローマ皇帝、すなわち "ドイツ皇帝" だったからです。

 しかし、ハイドンがウィーンでこの曲を作ったという事実は
残ります。 ましてや、当時のドイツは "統一国家" とは言え
ない状態でした。 ですからオーストリア側にしてみれば、
自国の過去の政治体制が異なっていたとは言え、曲に対する
愛着はひとしおでしょう。



 このように複雑な歴史的背景がある上、過去の文化事情、
現代の民族主義思想、政治運動も絡んできます。 この曲を
取り巻く事情は、残念ながら今日大変複雑になってしまった
ようです。




 また現在のオーストリア国歌は、第二次大戦後、まったく別
のものに取って代わられました。 もちろんそれは、ハイドンに
責任があるわけではありません。

 ナツィスの侵略まで経験し、今や民主的共和国家となった
オーストリアには、帝政を称えつつ150年間も歌われてきた
歌詞は、もはや望ましくなかったのでしょうか。

 そして、ひょっとして、それに密接に結びついてきた曲自体
までもが…。 残念ながら。



 それでもこのメロディーが、両国民に長年愛され続けたのは、
まさにハイドンの原曲の素晴らしさがあってのことでしょう。

 歌詞や政治体制の違いを越え、心を打つ、一つの音楽として。





 またこれを讃美歌としてご存じの方も、きっと多いことでしょう。

 イギリス、アメリカでこの曲が教会に登場したのは、初演の
僅か5年後、1802年のことで、題名は "AUSTRIA" だった
そうです。





 さらに驚くのは、この曲はまたポーランドの国歌として愛された
時代もあったということです。

 この間の詳しい事情は、下記の優れたサイトでご覧ください。



オーストリア散策]中の[5国と1皇室を潰したトホホな国歌

   一番奥の方に、オーストリアの新旧の国歌の音源があります。




 以下は、上記のサイトから関連部分のみを抜粋させていただきました。

  ところで、このハイドンが作曲したメロディーには、その後
 ヨゼフ・ビヴィツキー将軍によって独自の歌詞がつけられ、
 ポーランドの国歌にも流用されました。 その国歌のタイトル
 は「ポーランドはまだ消えじ」です。 ロシア、プロイセン、
 オーストリアによるボーランド分割がよほど悔しかったの
 でしょう。

  しかしここでまたトホホなことが。 20世紀に入ってから、
 ポーランドは独ソに蹂躙されて、またもや地図から消えて
 しまったのです。 ちなみに、今のポーランドの国歌はこの
 縁起の悪いメロディーをもう使っていませんが、「ポーランド
 はまだ消えじ」の歌詞だけは健在だそうです。






 作曲者ハイドンは、この曲に特別な思いを込めており、

『皇帝讃歌』の主題「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」

による変奏曲まで、ピアノのために書き残しています。





 1809年、ナポレオンに占領される寸前のヴィーンにおいて、
今や病魔に蝕まれていたハイドンは、おのれとヴィーン市民を
鼓舞するがごとく、この曲を自室のピアノで盛んに奏でていたと
言われます。

 周囲の愛国心を高揚すべく。 また、これらの変奏曲が、
自らの作曲技術の粋を凝らした最高傑作であることを確信
し、77年間の歩みを振り返りながら、苦難も多かった生涯を
おそらく思い起こしつつ…。



 ハイドンが息を引き取った、1809年5月31日の翌日、
ヴィーンはナポレオンの手で陥落しました。





 参考サイト  [神よ、皇帝フランツを守り給え



          [ドイツの歌




 第Ⅱ楽章の音源です。

   [PYS Senior String Quartet





 以下の音源は前回と同じです。



   [Kodaly Quartet]     []  []  [

   [Quator Mosaiques]   []  []  []  [