10/21 私の音楽仲間 (323) ~ 私の室内楽仲間たち (296)
師に誘 (いざな) われた人生の旅
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以下の内容は、史実年代を基に勝手に組み立てたフィクションです。
1804年*月*日 ヴィーンにて
親愛なる、マリーア・フョードロヴナ皇太后閣下。
先年の皇帝陛下の御崩御を、衷心よりお悔やみ申し上げます。
深い悲しみからは、幾分なりとも立ち直られましたでしょうか?
いや、どうもやりにくい。 やっぱり、ゾフィー・ドロテアと
呼ばせてもらうよ。
私の心の中では、貴女はずっと16歳のままなのです。
ここヴィーンでピアノを教えていた頃が本当に懐かしい。
あんなに可愛らしく、はしゃいでいたのにね…。
それが、突如としてロシア皇太子妃になってしまうんだ
から! もう一人のゾフィーが、エカチェリーナⅡ世に
なった事件より、私にとってはもっと大きな驚きだった
のです。
…失礼。 エカチェリーナは、貴女のお義母様でしたね。
その女帝が、次いでそのご子息のパーヴェルⅠ世が、この
たびは暗殺という形で命を落とされるとは! 皇后の貴女に
とっては、さぞ耐えがたい苦しみでございましたでしょう…。
その上、今度は貴女が女帝になられるのかと思っていたら、
即位したのは、ご子息のアレクサンドルⅠ世だったのです
から…。 返す返すも、心中のご無念をお察し申し上げます。
ところで、もう一つ貴女に同情しなければならないことが
ございます。 それは、ご子息が、あのナポレオンの奴め
に、かぶれておられる事です。
あのボナパルトというのは、まことに危険な人物です。 戦勝
の余勢を駆って権力を手中にしただけならまだしも、先日は王侯
の貴族まで処刑してしまったという、もっぱらの噂ですから!
貴女も、彼奴を毛嫌いしておられるのではないでしょうか?
このヴィーンにも危害の及ぶことがなければよいと、毎日不安
に駆られております…。
つい気弱になってしまいました。 私も最近は何かと病気がち
で、作曲も思うに任せない状況なのです。 考えてみれば、もう
72歳ですから当然のことでしょう…。 このような長い手紙も、
近頃は滅多に書くことがございません。
はるかロシアにおられる貴女にはお目にかかれないどころか、
今後こうしてお手紙を差し上げられるかどうかも分らず、寂しさで
一杯なのです。 もしこれが私の最後の便りとなってしまったら、
どうぞお赦しください。
このたび御地ペチェルブルクまで書面を託しました運び手は、
私の愛弟子でございます。 才能、人物面ともに、充分信頼の
置ける人間です。 どうかご安心ください。
名は、ジギスムント・ノイコムと申します。 今後ともお見知り
置きいただければ、師の私としても、まことに幸いに存じます。
これと言うのも、我がオーストリアの秘密警察が極めて優秀で
頼もしく、私が当惑するほど成長してしまったからなのでござい
ます。 もちろん一般の書簡は郵便馬車の中継地で紐が解かれ、
検閲の憂き目に遭うのです。
何しろ私の主君だったエステルハージ侯のみならず、帝国
の貴族までが、書状を途中で検閲されてしまうこともあるので
ございますよ。
本来でしたら検閲など、危険な外国の輩がやり取りする手紙
だけで充分ですのにね…。 これというのも、あの過激なボナパ
ルトのせいでございます。 時には、旅行中の者まで拘束され、
足止めを食って尋問される始末ですから。
その点、ジギスムントには特別の安全が保証されております。
それゆえ私も安心して、こうして貴女に好きなことを書き送れる
…というわけでございます。
ちなみに、このたび我が帝国の初代皇帝となられたフランツ
様からの、内密の親書もございます。 これはご子息ではなく
貴女へ宛てたものですので、くれぐれもお間違えの無きように。
お人ばらいの上、ジギスムントから直接お受け取りください。
親愛なるゾフィー・ドロテア。 ロシア宮廷では危険な思想が
蔓延ることのないよう、このヴィーンから祈っております。
もし辛い時がございましたら、貴女の愛する音楽を自ら奏で、
昔のように元気を取り戻してください。 またジギスムントは
極めて優秀なピアニスト、作曲家ですから、必要なときには
どうかお傍でお役立てください。
貴女の忠実な僕 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
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1809年*月*日 ヴィーン発
暗号名 SN 君。
サンクト ペチェルブルクへの長旅、ご苦労様。 君が
5年近くも宮廷楽長を務めてくれたお蔭で、危険分子が
暗躍している様子を逐一把握することが出来たよ。
現地の事態は間もなく治まることになろう。
それにストックホルムやベルリンの情報もありがとう。
遅くなったが礼を言う。
何も、嘆くことはないさ。 君の音楽的才能が、音楽以外の
事柄でもこれほど役立っているのだから、素直に喜べばいい。
オーストリア帝国の安泰という大義のために、今後も尽力
できるのだから、これほど光栄なことはないじゃないか。
先日亡くなられた君の師も、きっと喜んでおられるだろう。
何しろ、あれほど愛国心に富んだ音楽家は、どこを探しても
いないからね。 我々がどんなに助かったことか、君にもよく
解るだろう?
ところで、次はパリに行ってほしい。 引き受けてくれるね?
このたび君が仕える相手は、タレーランという政治家で、
ナポレオンの側近だった人物だ。 ただし最近は批判的な
立場にあるので、我々にとっては大変好都合なのだ。 何
と言っても、ボナパルトの動静を至近距離から把握できる、
有能かつ老獪な政治家だからね。
彼の外交の手腕に対しては、我々も一目置いているのだ。
まあ君にも、遅かれ早かれ外交官という肩書が付くよ。
それが我々の狙いでもあるがね。
君はお抱えピアニストという立場で、そのタレーランに仕えれ
ばいい。 話はすでに通っているのだ。 彼も、「出来るだけの
事はしてやる」…と言ってきたよ。 どうか安心したまえ。
"Te Deum" とかいう君の宗教作品が、ノートルダム寺院で
初演してもらえることになるとも限らないんだからね。 これほど
魅力的な条件は無いだろう?
なにも、帰国後のことまで今から心配する必要は無いさ。 君
の活動や、作品の普及のために、理想的なポストを確保すべく
我々も努めるつもりだからね。
それにしても、音楽家というのは実に "素晴らしい" 職業だな。
健闘を祈るよ。
オーストリア帝国警察 特殊任務局長 *.*.
1821年*月*日 ヴィーン発
今さら何を言ってるのかね、SN 君。 あれから一体何年
経ったと思ってるんだ?
それに、ずいぶんお見限りじゃないか。 我々は、「フランス
の動向も知らせろ」…とは頼んだが、あれほど「仲良くしろ」…
とは、ちっとも言わなかったよ。
それより、まさかこちらの情報を流したりはしなかったろうね?
何しろ、勢いに任せてブラジルまで行ってしまうんだから!
本当に驚いたよ。
我々は止めたはずだ。 「それでは君の将来は保証できない」
…とね。 それとも、そんな事は忘れてしまったのかい?
結果的にポルトガルの動静まで知らせてもらったんだから、
まあ多少は君に感謝しなくちゃいけないがね。
それにしても、君の言い分には呆れたよ。 今さら「音楽に
専念したい」…とは何事かね。 君の音楽的知名度が、帝国
の安全にとって一体何だと言うんだい? すでに Beethoven
の奴より高い評価を受けているじゃないか。
君が自作譜をフランス政府に寄贈しようと何だろうと、我々
には痛くも痒くもないさ。 好きなようにすればいい。 出版社
へ売った方が儲かるんじゃないかね。
報酬なら、これまで充分にはずんだじゃないか。 それも
特別な額をね。 君の才能に免じて。
それに君は、レジオン・ドヌールとかいう勲章まで貰って
るんだからね。 外国人のくせに、まったくもって名誉なこと
じゃないか。 それも元はと言えば、あのボナパルトが制定
した勲章だよ! ハハハ…。
そう言えば、奴もついに先日くたばったな。 セント・ヘレナ
とかいう孤島でね。
ひょっとしてそれがきっかけで、珍しく便りを寄こしたのかい?
パリに着いたのなら、そのままそこに居たらどうかな。
君の任務は一応終ってるんだ。 まあ帰りたいと言うのなら、
いつ帰って来てもいいがね。
ほら、これが特別旅券だ。 好きなだけ、我が帝国に滞在
していいよ。 身の安全は保証する。
それとも、今度はイギリスへ行ってみるかい?
君のような語学の達人は、探してもそうはいないからな。
一体、何ヶ国語を話せるようになったんだね。
その気になったら連絡を寄こせばいい。
オーストリア帝国警察 特殊任務局長 *.*.
以上の内容は、史実年代を基に勝手に組み立てたフィクションです。
[ノイコム 音源ページ]
ジギスムント・リッター・フォン・ノイコム 簡易年表
1778年7月10日 ザルツブルクに生まれる。 生家は、1756年
に Wolfgang Amadeus Mozart が生まれた同じ家。 ミヒャエル
・ハイドンに同地で師事、音楽理論とオルガン演奏を学ぶ。
1792年、ザルツブルク大学の教会オルガニストとなる。 14歳。
1794~1801年、ヴィーンのヨーゼフ・ハイドンの下で研鑽を積む。
1796年、ザルツブルク宮廷劇場の聖歌隊指揮者に任命される。
1804年、ヨーゼフ・ハイドンの手紙を携え、ロシアのサンクト
ペチェルブルクを訪れ、皇太后マリーア・フョードロヴナに
拝謁。 宮廷のドイツ劇場楽長に任命される。
同年、歌劇『インドのアレクサンダー』を作曲、アレクサンダー
Ⅰ世の戴冠式の日に上演される。
1806年、ストックホルムを訪れ、翌年、スウェーデン王立音楽
アカデミーの会員に推挙される。
1808年、サンクト ペチェルブルクの宮廷楽長を辞し、翌年
ベルリンへ向かう。
1809年、ヴィーンに師ハイドンを短期間訪ね、未発表作品の
整理や編曲作業に献身。
1809年5月31日、ハイドン77歳で死去。
1809年6月1日、ナポレオン軍によってヴィーン陥落。
1810年、パリに移住。 政治家タレーランのピアニストとなる。
1812年、ナポレオン軍ロシアで大敗北。
1814~1815年、タレーランに随行してヴィーン会議に出席。
1815年、ルイⅩⅥ世のためのレクィエムを作曲、レジオン・
ドヌール勲章と爵位を授与される。
1816年9月、ブラジル王国に到着。 ポルトガルの首都と
なったリオデジャネイロで、ジョアンⅥ世の宮廷楽長に着任。
現地でヨーゼフ・ハイドン、Mozart の作品の普及に努める。
1821年4月14日、ヨーロッパへ帰還する船上で、チェンバロと
3声のためのアリア『さようなら!』を完成、ブラジルに別れを
告げる。
1821年5月5日、ナポレオン死去。
同年、リスボン経由でパリに戻り、再びタレーランに仕える。
音楽評論雑誌の執筆に参加。
その後、イギリスを含むヨーロッパ全土を旅しつつ、
作曲活動を行う。
1842年、Mozart の銅像の除幕式の演説を依頼され、
故郷ザルツブルクを訪れる。
1858年4月3日、パリで死去。 79歳。