おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

人は飼い犬で心が癒されるか?

2011年06月25日 06時42分17秒 | 日記
朝日がやけに眩しい。この明るい朝の匂いは子供時代の夏休みの朝寝の匂いだ。
もしかしてもう梅雨シマイ??

昨日街から長距離バスで帰ってきた。県道28号で木の香温泉前で降りたのだが、そこは温泉ではなく馴染みのパン屋「ヴドネ」さんの前。ここから5,600m歩くのだが、ふと卒業生のいる喫茶店「ガレット」の前に来た時、丁度彼女が出てきた。
「やあ、元気してる?」と声を掛けたとき目の隅っこにチラッと小さな「物」が見えた。よく見ると紐に繋がれた柴犬ではないかー

昔市内にいた時「ラン」という名の柴の雑種を飼っていた。15歳まで生きたから割と長生きしたのだろうが、亡くなった寂しさ、悲しみを思い出すとどうしても再度犬を飼う気持ちになれないでいる。穴の開いたような空隙を別の犬で補うことは「ラン」に対して申し訳ないような・・・

その犬を見た時に体が動けなくなってしまった。その可愛いことったらないのだ。

生まれて2,3ヶ月だろう、小ちゃくてポチャーッとしてて目が細く垂れ、前足を揃えて座っている。夏毛に生え変わる前みたいにフカフカ毛に覆われている。「お手!」の状態だ。名を聞いたけど忘れてしまった。「ロッキー」だったか外国の名だったような・・・
聞いてすぐ、名を呼ぶとまだ自分が呼ばれているのかよく認識できないのか小首を傾げるのだ。ちょこっと首を横に傾ける仕草が何ともいえない。有頂天になってしまった。

携帯を取り出して写真を撮ったけど、遠くてよくわからない。近くに寄って撮ればよかったと今深く後悔する。

この時初めて思った。たしかに人は愛玩動物で心が癒されるのだ。

きっと猫でも小鳥でも、水槽の熱帯魚でもそうだろう。

こんな可愛い犬だったら、また飼っても良いぞと思う。どこにも行けなくなったっていいさ。いつも一緒にいられるなら愉快だろうな

                                                         

中島義道の「カイン(自分の弱さに悩むきみへ)」(講談社)を読んだ。
哲学者でカントの専門家。哲学書なのだろうが難解な用語はあまり使わなくて、一般の悩める若者に向けて書いた本で、すんなり読めた。
若者の自立について、雁字搦めになっている世間という常識の桎梏、家族親の「愛」という名の束縛から自分を解き放たない限り自分は解放されない。アダルトチルドレンのまま。
「強くなるためには、きみは膨大な数の他人を捨てねばならず、彼らを無視しなければならず、彼らの期待にそむかねばならず、彼らから嫌われなければならず、彼らに迷惑をかけなければならず、あえて言えば彼らを(精神的に)殺さねばならない
過激な哲学者の弁ではあるが、よくわかる。どうも親から自立できない年だけ食った大人が増えているような気がする。母親とペアのシャツを着て街を歩いている親子を見ると吐き気がする。
引きこもりの時代、親の庇護=甘えから脱却してそろそろ外に出てきて一人の人間として自分の食い扶持くらい自分で稼ぎ、一人で生活を始めたらどうだ。他人をあてにするな、あてにできるのは自分だけだ。その自分を鍛えよ。