おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

飽くなき権力欲

2011年06月06日 10時04分38秒 | 日記
悲しいね。侘びしく哀しいね。

永田町は特殊な場所ではなく、この人間世界の縮図といえるのではないかー

自分で言ってしまったことを言っていないと否定し、また自分の辞職の際に流した涙と悲哀と恨みを「私と同じようにあなたも身を捨てなさい」と「現職」に迫る醜さ。

ここぞとばかりに攻め立てる野党。

どこかにあった。そう自分の経験の中にも同じような権力をめぐる悲喜劇があった。その時にはストレスで持ち堪えられずに心臓発作を起こした。命を失うところだった。

人間には上昇志向というもの、権力志向というものがある。どこかで「上」に立ちたい。目立ちたい。権力に伴う栄誉と金銭を手に入れたい。要するにチヤホヤされたいし、いい生活を送りたいのだ。

しかし、このままでは早晩倒れ、命を失うことは自明であった。熟考した末にすべてを捨て去って、60を機に定年退職し無給生活に入った。

どんな組織にも権力機構は存在し、そこには組織運営をめぐる政治がある。これが民主主義の原理なのだ。

激しい権力闘争が起こる。興奮と憤怒、闘争、勝敗、悲哀、絶望、希望・・・渦に巻き込まれズタズタになって身も心もすり減らしながら生きていかなければならない。現代社会の宿命がある。

封建社会では権力は絶対であった。上が死を命じるときには潔く腹を切る。これが上意というものでそれは美徳でもあった。「義」を重んじるところには垂直的な縦割り構造が敷かれ、それは社会の隅々まで貫徹していた。維新の後にも第二次大戦敗北までそれは続いた。

現在、日本は敗戦によって新たな国家としての歩みを民主主義国家として出発した。

民主主義には「なんでもあり」というアナーキーな部分がある。言いたい放題したい放題・・・

そして一方大衆のアパシーが存在する。

この構図が津々浦々に行き渡っているので、常に政治は混沌とする。

首相の行動は哀れを催す。権力をめぐっての攻防に裁定を下され、身を引かざるを得なくなった。何故その前に自ら辞職しなかったのか。これでは恥の上塗りではないかー

老兵は静かに黙して去り行くのみだ。



NHKでの普賢岳の火砕流の特別番組(九州だけだったもしれないー)はよかった。火砕流の直撃で校舎を焼かれた上古場小学校の卒業生の今の特集をやっていたが、一人の卒業生は20年後の今でもその焼け爛れた校舎には近づけないでいた。

天災は忘れた頃にやってくる。肝に銘じておかなければならない。