おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

肩透かし台風5号と日曜美術館

2011年06月26日 14時53分46秒 | 日記
台風が接近していて、朝から空は曇って風が少しずつ強くなってきた。

前回の台風ではほとんどなにも準備しておらずに、大分被害を蒙った。

そうだ、作物には細かな愛情を注がないと育たない。

朝6時15分には覚悟を決めて畑に降り立った。

伸びてきたトウモロコシを風から守りグラグラしないように、杭を立て茎の中間付近にぐるりとロープを巻きつけた。

これも伸びて来ている枝豆には一本一本支柱を立てガード。

昨日種を蒔いた紫蘇の低畝には上から黒ビニールマルチを敷いた。

朝飯前に一仕事を終え、シャワーして食事。食後にはまた雨が降り出さない内にとまた畑へ降りて作業。することは一杯ある。

昼まで百姓仕事をやってまたシャワーして、昼食。

午睡の後今に至るのだが、風は止んだ

雨も止んでいる。

「なんじゃこりゃあー

朝食時、NHK教育の「日曜美術館」という番組を初めて見た。美術には疎く、若干馬鹿にしている部分も無きにしも非ずで(身の周りの美術家というのがどうも縁遠いというか生き方に賛同できない人が多いということもあるのだがー)、だけど意想外に感動した。

諏訪敦という新進気鋭の画家が、娘を南米ボリビアで不慮の事故で喪ってしまい失意の底から喘ぐように、救いを求めるように諏訪氏に「娘の絵を描いてほしい」という依頼を受ける。

描く主体とは接点のない、そしてすでに他界していて、生きたモデルとして描けない。写真を取り寄せ、義肢製作所に出向き写真によって手を再生してもらったり、両親と直接面会して話を聞いたり・・・

両親は知的な方々で、独身のまま世界を駆ける娘に自由を与え続けた。そして事故。結婚も決まり式の10日前だったという。

両親は娘の死から立ち直れない。時間がいくら経過しようが娘の死を実感できないでいる。

はじめ諏訪はリアルに娘の姿を描いた。しかもその顔は似ているのだが暗く、寂しげで父親から贈られた腕時計を外そうとしている姿だ。腕時計を外すポーズは「死」を意味するという。彼は絵をジーっと見つめ、「だめだ!」これでは両親は絵を見ても心が励まされない。

諏訪は「生と死を考える会」の事務所に出向き示唆を求める。

「親が求めるのは、リアルな肖像ではなく、思い出の中に生きる肉感的で情緒的な、絵の中に生きた人間である娘を見たいのではないでしょうか」という同じ子供を喪った女性の語りに耳を傾ける。

アトリエで画布に描き上げた「死んだ娘」の姿を消してしまう。そして書き直し。

できた絵をもって依頼者鹿嶋恵里子さんのご両親のお宅を訪れる。一見して父親が叫んだ。「恵里子ーっ」、その後ろで母親が泣いている。

芸術とは写実性の追求だけでは写真と変わらない。人間の中に蠢く情念とか魂を描くこと、それはモデルが生存していようがいまいが関係なく、真実生の実存があって時間を超越した人間の叫びを汲み取る事ができるかどうかが芸術の真骨頂なのだ。

そうだよ、音楽でも同じだ。やっぱり歌は魂の叫びだ。