おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

田舎と読書文化について

2012年11月14日 06時48分20秒 | 日記
昨日のブログの追記。週刊朝日の橋下記事の話。これを書いた作者のこの件についてのコメントが出ていないと書いたが、朝刊を読むと出ていた。地方紙なので恐らく共同通信の記事だろうが「弁解と反省の弁」を述べていた。font>



手元に読みたい本がないとどことなく焦ってくる。

「どうしよう・・・」



この村は観光には力を入れる。他に収入の道(大きな企業がない)が皆無の村は阿蘇という大自然の齎してくれる余力に頼るしかない。
豊かな水の産まれ出る里、白川水源、明神ヶ池、竹崎水源、池の川水源などなどそこらにいっぱいある。これも阿蘇の伏流水であり山の恵なのだ。

景色に吸い寄せられるようにして都市部から人が集まってくる。東京から、愛知から、京都から大阪からー殆どはこの大阿蘇の雄大な景色に魅了された人々だ。

山を見ていると、たとえその時人が興奮状態にあって、苛立ちを覚えていたとしてもただ山に向かって静かに座っているだけで次第にこころは平静さを取り戻し、血流が緩やかになり脳内ホルモンの分泌が落ち着いてくる。これが癒し効果というものなのだろう。

海も好きだ。釣りが大好きで食べるものだって魚貝類が肉よりも好きだし、量的にも肉を圧倒している。


これは先日釣った魚。

海は古代、日本人が南から北上する海流に乗って列島に流れ着いた故郷だし、唯一の移動手段だった。朝鮮半島からもシベリアからオホーツクを渡って蝦夷が島へ漂着していったのだ。

海は食料庫であり冒険の旅路の出発点でもあり、人のこころはロマンへと波立たせる場所。どこかこころがざわめいて来る。

話がずれた。この南阿蘇村というところは観光が大きな資源であり、始終彼方此方でイベントを開いている。人を集めることが行政の唯一の仕事でもあるかのように。

だから文化面では観光に結びつくもの以外はまったく何もない。移住して最初にしたのは図書館を探した。ところが村の図書館という場所を探し当てたと思ったら、その蔵書なんて我が家の図書のスケールと変わらない貧弱なもので小学校図書程度のもの。

スポーツ施設は確かに貧弱ではあるのだが不便は感じない程度。村の財政支出の医療費を削減するという大義名分があるので公共投資がなされるのだろう。

だから図書館から書籍を借りるということは期待薄。去年から今年にかけては阿蘇の修験の歴史を調べるために特別にお願いして村史、郡史、町史を8,9冊借りて読んだことはある。無理をいって1冊に付き2ヶ月程度は借りていた。これは感謝。

冬は畑はすることがほとんどなくなってしまう。厳しい寒さに耐えるだけの生活が待っている。自然読書量が増えてくる。

先日街に下りた時に古本屋から本を14冊仕入れてきた。本への出費は仕方ない

本を捜すとき作者の名を確認して、背表紙の題名を反芻していく。「読んだかな???」

記憶力が減退しているので、ショッチュウ「間違い」が起こる。読んでいて書棚に並んでいるのに思い出せなくてまた買ってしまうのだ。残念

一度読んだら忘れないという人間がいるのは知っている。立花隆なんてそうだろう。もし私にもその「ビンタ」があったら今頃はノーベル文学賞貰っていることだろう・・・

本屋の書棚で重松清を探す。読んでないものがないかどうか?あったあったずらっと並んでいる中で「エイジ」って名の本が未読だ。これを買い物籠に入れた。すぐ読み始め昨日読了。

連続通り魔の話なのだが、捕まった犯人がエイジの前の席の級友だった。設定は中2。思春期を実に巧く丁寧にしかも鋭く描き出す。「犯人」がなぜ通り魔という行為を起こして行くのかー最後にエイジは気付く。「その気」は自分の中にも眠っていることを。そしてその気が芽生えた時「手を出すか出さないか」のほんの少しだけの間隙で止(とど)まるのか進むのか?

違いはたったこれだけ。