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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(324回目)コリント人への第一の手紙(15章35~58節)復活のからだ

2017-04-20 18:16:08 | 聖書・聖句
・・・続き 第15章の35節から
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(15:35)ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるか、どんなからだをしてして来るのか」
(15:36)おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、いかされないではないか。  
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◆パウロはコリント人への手紙で人の復活のことについて書いている。これは、先に書いたように、当時のコリントで福音が宣べられ信じた人々に、「イエスの復活?そんなのはありえんだろうよ。どんなふうによみがえるのか教えて欲しい」とかまびすしい議論がユダヤ人からもふっかけられた事に対しての激励と教えを込めてかの人々に手紙を書いたものだと思われる。・・・今の僕らはどうだろう。
◆コリントゲームというのは今、辞書を引いて出てきます。今で言うところのゲームセンターのピンボール。パチンコの起源と言えばいいか。いずれ、パウロが立てたコリントの教会は問題がたくさんあった。このような中でコリント人への手紙の第15章は、僕らにとっては「そうでございますか・・・」と聞くだけのようではあるが、旧約聖書(当時で言えば”聖書”など、離散したユダヤ人たちにも博学な人がいたし、ギリシャ哲学も盛んだったし、それはそれは、その福音の要をしっかり理解し自分のものとしなければ、世的な享楽に流されて、ここでパウロはいま一度、喝(かつ)入れいなければと奮起して手紙を書いたのだと思われます。コリントにいた純真な信仰者からの困った状況に対するアドバイスの要請があったのだろう。ここで、35節からは”復活のからだについて述べています。
◆でも、読んでもよく分からないな、正直。そのように信じるしかない。いずれ三次元的な現世における肉体のありようとは異なり、霊的な意味合いにおいて、また新たなる霊の身体に生まれ変わるようだ。そして、諸々の生きていた時の肉における個人の欠陥は、キリストを信じたが故に、そのとがめが赦されて免除されて、永遠に生きる世界に入って行けるようなのだ。
◆東日本大震災から6年、20000人以上の方が災害に遭われ、多くの方が亡くなられた。未だ死んでいないと思われる方の霊としての可視化という現象が起こっている事に対して、イエスがニコデモに語った霊の事、そしてまたパウロが手紙で書いた霊と肉における今の僕らの生き方、考え方を再度、見直してみる必要があるようだ。
◆新約聖書のイエス亡き後の使徒たちの働きは、地上における僕たちの肉と霊、それに関わる聖霊というものが無ければこの地上での霊の動きや働きについて分からないし、その生命の根源ラザロを墓から生き返らせたように、その働きとしての生命の根源、光に向かう上昇志向的な思いは自分自身に起こってこないものであろうと思わされるのである。霊と肉として使徒の手紙をよくよく考えながら読むとより深く新しい自分の言葉でつかみ取り、理解できるかもしれない。なぜなら、僕らは誰でもが霊を持って生きているから。
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(15:49)すなわち、わたしたちは土に属している形をとっているのと同様に、また、天に属している形をとるであろう。
(15:50)〔・・・・〕血と肉は神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。〔・・・・〕
(15:54)この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないもの(キリスト)を着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 
(15:55)「死は勝利にのまれてしまった。死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。死のとげはどこにあるのか」。・・・Ω 



世界のベストセラーを読む(323回目)コリント人への第一の手紙(15章20~34節)死人の復活Ⅱ 

2017-04-19 18:37:41 | 聖書・聖句
 2017年のイースターも過ぎ、死と命のことをしばし考える時を過ごしています。その中で、イエスの復活について思いを巡らしています。生前のイエスの言葉を思い出します。ここまで書いてきました、肉と霊の事柄についてです。
その福音は、パウロの手紙第15章に書かれたことで、彼が言わんとすることは、第一にイエスは実際によみがえったのだ、この三次元の世界に実態として現れなさったということを、そしてその復活は、彼を信じた者すべてに永遠の命を賜ると言うことでした。
◆しかし、当時、遊興の町、パウロが立てたコリントの教会は(2017年といわずいつの時代もそうだが、人間は命があり生きているにもかかわらず、自分で自分の事を考える言葉も持たないものなのだ・・・不思議なことに)実際に使徒たちが体験した福音伝道の基本中の基本となったイエスの復活については、先祖伝来の言い伝えでは理解していても言葉だけの事柄であるから、離散したユダヤ人さえも忘れ去られる。おまけにこの町は交通の要所、誰でもが知っている野外劇場や競技大会がオリンピアについで盛んで、偶像もたくさんあった。曰く、不道徳、経済が盛んであれば宗教的にも活気があるが退廃の町であった訳だ・・・。そういう環境でのキリストの教会は種々の問題もはらんでいたのですねぇ。
◆それで、パウロはエペソの町から手紙を書いた。その内容は、福音におけるそのパウロの神学的な見解ともなっているように思う。パウロは、神により選ばれて啓示を受け”私の福音”とまで言っているから、その深いところでの理解の吐露に当たる一見先理解のない僕らにはまったく何のことやらではあるが、やはりコリントの町の人々、遊興の町の環境にいた博学なユダヤ人たちにも、その回答はこうなのだと、信者としての死後、そして復活はどうなるのかなどの質問に答えたものだと思う。
◆パウロの念頭にあるのは、人間を創造されし神、そしてその人間を永遠の天国への帰還を促すべく、新契約の成就。その間に生活している今の我々が、知っておきべきこと(これは疑問に思えばの条件つきで、疑問に思わず信じるならそれに越したことはない)などを手紙にしたためたものである。しっかりしてくれと、少々過激な言葉使いもある。理屈めいて”そうでございますか”とだけで読みとおしてしまう内容でもある。それはパウロが終末の時までに話を広げていることについては僕らは(少なくとも僕は現時点ではピンと来ないから)からである・・・。
◆いずれ、コリントの教会には、いろいろとあれやこれやと議論を沸かせた人々がいたということだ。(20~34節抜粋する)
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15:26 最後の敵として滅ぼされるのが”死”である。〔・・・・キリストの復活、信仰者の復活、キリストの万物の支配、終末〕
15:29 そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし、死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。〔当時、コリントにはそのように行っていた人がいたということか。これについては先祖がいて今も個人が生きている訳であるから、自分がバプテスマを受けることにより先祖も永遠への帰還の成就ができると考えていたのだろうか?〕
15:31 兄弟たちよ。私たちのキリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇りにかけていうが、私たちは日々死んでいるのである。〔肉と霊の合体としての”魂”を持つ僕らであるならば、障害となるべく肉の思いの領域を聖霊を受けるべく霊の領域に明け渡して生きることを述べているのではなかろうか・・・と思う〕
15:34 目覚めて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。〔目覚めて身を正することは、少しくらい僕にでもできそうだから、心がけよう〕・・・続く ・・・

世界のベストセラーを読む(322回目)コリント人への第一の手紙(15章12~19節)死人の復活 

2017-04-18 18:50:35 | 聖書・聖句
 ・・・続き、(訳は口語訳です)
12:さて、キリストは、死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などないと言っているのは、どうしたことか。
13:もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
14:もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15:すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたといって、神に反するあかしを立てたことになるからである。
16:もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらんかったであろう。
17:もし、キリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたはいまなお罪の中にいることになろう。
18:そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは滅んでしまったのである。
19:もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
  ・・・続く ・・・


世界のベストセラーを読む(321回目)コリント人への第一の手紙(15章1~11節)キリストの復活 

2017-04-17 19:57:21 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 パウロが遊興の町、コリントに住む信徒たちへ出した手紙、第三回伝道旅行の時、エペソという町に滞在している期間に書かれた(使徒言行録19章)といわれる。キリストの復活の再度の確認として・・・
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1:兄弟たちよ。わたしが以前にあなたがたに伝えた福音、あなた方が受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思いおこしてもらいたい。
2:もし、あなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を堅く守っておれば、この福音によって救われるのである。
3:わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書にかいてあるとおり、わたしたちの罪のためにしんだこと、
4:そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと
5:ケパ(ペテロのこと)に現れ、次に、十二人(ユダは既にいないのでその後、選ばれた弟子を含む)に現れたことである
6:そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
7:そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ
8:そして最後に、いわば月足らずのに生まれた言うなわたし(パウロ)にも現れたのである
 〔・・・・〕
11:とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは述べ伝えており、そのように、あなた方は信じたのである。
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  ・・・続く・・・

世界のベストセラーを読む(320回目)受難週にあたり:三日目に死人のうちよりよみがえり

2017-04-16 05:09:06 | 聖書・聖句
 朝が明けた。まだ、薄暗がりの中・・・。復活については、東日本大震災のことなどから(今までのブログを読まれてください)、僕は霊と肉体、実態となる目に見える肉体がなくとも霊は、可視化することがあることを理解してから、これは実際にあることで何も不思議と思わなくなった。そして天使との表現されている現れについても・・・。神々しいとかではなくきっと、少しはましだろうが普段の人のように現れていたのだろうなどと思ってしまう。
◆ましてヨハネ伝の第11章など、ラザロが死んで四日も経ってからイエスに生き返らせられたこと、つまり、霊の入る実態がある場合、霊は再びその肉体に宿るのだろうと考える事ができそうだ。これは、少なくとも確かな出来事であったのは、その奇跡によりラザロが生き返って共に生活に供していることに目障りであると思ったユダヤ人たちは、再度、ラザロを殺そうとまでしたことが書かれています。長命だったと言われるヨハネ伝の著者ヨハネは手紙の中(第一)で、よく目で見て、手で触れてと、その復活(イエスの霊が十字架刑で死んだ肉体に霊が再度入ったと考えられるが・・・)について、また他のいろいろなイエスの業については確かな事実であったことを訴え続けたのだったからです。〔・・・とすれば、天上界に帰れない堕天使悪魔もその霊を用い、隙のある人間の霊に憑依して神の創造物である他の人間を死に落としめるよう働いていることが推測されるであろう。〕
◆福音の宣教はイエスのこの復活の事実が起因となっています。ここからは難しいかも。全くその道の列車に乗りかかっている方向けか。
霊の人、肉の人を考えながら読んでください。ここまで言い切っている宗教書を僕は読んだことがないのです。
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◆キリストは、最後の敵として”死”を滅ぼされた。(Ⅰコリント15:26、Ⅱテモ1:10、ヘブル2:14-15、黙示20:14、21:4)
 人間の”死”はキリストの”死”によって滅ぼされるという信仰が述べられているのです。
→〔そもそも救われるとは、永遠の命を実態として持つことです。それは、今の生活において信者になり死後のために保険をかけるようなものでは無論ありません。光ある今の地上の生活において個人において必要な事柄として考えにおいて変貌を来たらせるものでもあります。〕
◆ここには天地創造来の神の最高傑作の自分の似姿に創造された人間の神のもとへの帰還の壮大なドラマが展開されています。
 第一のアダムがその罪(神からの離反)によって全人類に”死”を来たらせたように(ロマ5:12)、キリストは第二のアダムとして、生命を与える霊として、その恵みのわざによって死を滅ぼし、永遠の生命を人類にもたらせたのである(Ⅰコリント15:45-47、ロマ5:17)。
 →〔ここにおいては、天地万物の創造主の観点から我々を総括する意味で、その生命のありようが述べられています。僕らは地上に生きているかぎり、このあらゆる世界のどこへも脱出はできないのですから。〕
◆パウロはアダムはキリストの予型であると述べている(ロマ5:14)
 →〔神の似姿たる人間の誕生から、永遠の命を受ける人間への完成形を示されたということか・・・。つまり、人類の終わりの始まりが示されたということです。〕
◆しかし、人間は自然においては死ぬように、自然にキリストの不死に預かるのではない。
 →〔ここに、第一に信仰、つまり人間界のすべてのしがらみを捨てきって、イエスは「あなたは私を信ずるか」と問うているのです。〕
◆「もし、わたしたちが彼(イエス)に結びついてその死の様(さま)に等しくなるなら、さらに彼の復活の様にも等しくなるであろう。」(ロマ6:5)といわれているように、人間がキリストの復活のように等しくなるためには、その死のように等しくなり、その苦難に預からねばならない。(ピリピ3:10)とも述べられています。
「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されている」(Ⅱコリント4:11)信仰者の死はイエスの死と密接な関わりを持っている(Ⅰテサ4:16、黙示14:13)のです。
 →〔ここでは無論、ゾンビのように生きろと言っているのでは無論ない。パウロは言っている、私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではない、キリストが私のうちに生きているのだ。「生きることはキリスト、死もまた益なり」と言い切っている。・・・Ω