marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(319回目)受難週にあたり:死にて葬られ陰府にくだり・・・Ⅱ

2017-04-15 20:48:14 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
2017年受難週、イエスはまだお墓の中です。明日の朝、復活されます。4月16日(日)イースターです。礼拝後皆さんでお祝いをします。
ところで、キリスト教と言えば、死の克服、つまりイエスの復活なしに語ることはできません。今回は、前回に書きました”使徒信条”の表題とは異なることばに注目したいと思います。それは、”聖霊を信ず”ということばです。
◆さて、クリスチャンでもこのことばについて、不謹慎にも僕のようにあれやこれやと朽ちていく人間の言葉で屁理屈をつけるような者はいないかと思います。でも僕は考えざるを得なくなる。なぜなら、僕もこれを読まれる方も命があって存在しているから(この地球上のある空間を人の体積を持って生きているから)です。
◆肉の身体(からだ)、霊の身体(からだ)があると書いてきました。これは、パウロのコリント人の第一の手紙15章44節にある言葉ですが、永遠の命を考えることについて今までこのブログで書かせてもらいましたので、新約聖書のすべてを読まれるときに、どうぞ肉の人と霊の人という観点を思いながら読んで欲しいと思います。
◆ヨハネによる福音書の初めの方の話に、「イスラエルの教師でありながらこのようなことも分からないのか、地上で起こっていることを話して分からなければ、天上のことを話してどうして信じることができようか」とイエスから叱責を受けたニコデモという人の話(第3章)がありました。イエスは「よくよく言っておく」と三度もこの章では念を押されていました。また、次のようなことばもあります。「神がおつかわしになったかたは、神のことばを語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。」(ヨハネ福音書第3章34節)その他、多くのイエスの語られたこと、その業(わざ)について、肉の人と霊の人について、考えを思い巡らし欲しい。「神は死んだ者(霊的に)の神ではなく、生きている者(霊的に)の神である。人はみな神に生きる者だからである。」(ルカ第20章38節〕
◆さらには、東日本大震災6年を迎えてのこのブログにも書きましたが、いまだ見つからない方が幽霊(これは怖いという感情ではなく霊の収まりどころがなく、自分の身体はまだ三次元のその地にあると思われている霊の方々の浮遊する霊と言ったらいいか)が多く現れているという事実。僕は、テレビで、ラジオで本でもこのことが何度か流れた時イエスの復活に疑問を抱かなくなってしました。
◆さらに、最近の悲惨な事件、事故について考えてください。霊の人があり、肉の人があるとすれば、肉の人が他の霊に入れ物である肉の人間を殺害するということがどれほど、神の前に駄目で大変なことを行っているかを考えて見なくてはいけない。僕らは、聖霊を信ずというより具体的につながりを持っていなければいけないということになる。我らの戦いは、支配と権威、闇の世界の支配者、天における諸々のあくの諸霊に対するものだからである。どうぞ、コリント人への手紙第一第15章を読んでください。
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 わたしが最も大事な事としてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。うなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと。そして、葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと・・・
                                     (コリント人への手紙第一第15章3-4節)    
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◆あと数時間です。
「最後の敵として滅ぼされるのが、死である」(コリント第一の手紙第15章26節) ・・・ Ω