marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(325回目)(聖)霊の実と肉の働きについての僕なりの考え<Ⅰ>

2017-04-21 23:30:51 | プロテスタント
 今回の表題の”僕なりの考え”というのは、禁じ手のような表現だ・・・だって、”ブログというのはすべてにおいてそうだろうよ”というような意見が聞こえてきそうだから。
◆今年はマルチン・ルターの宗教改革から500年、彼の著作を丁寧に読むことによってもプロテスタントの方は多くの実になることを学ぶと僕は思っているのですが、そのプロテスタントでもあまり、ルターのこと(実際に聖書の言葉をひとりひとりのものにしようと後半の人生生涯をそれに賭けて生きたこと)を学ぶ時があまりもたれていないように思われるのは何故なのだろうと思っています。エキュメニカル(キリスト教会一致運動)で、カトリックに遠慮しているのだろうかなぁ。
◆しかし、ここにおいても、僕らは精緻に神の声なるを聖書の言葉を自分の言葉で聞いてみることです。偉そうに聞こえるが”自分の言葉”だからね。分かるでしょ! とすれば、”みんな仲良くね”とう言葉は、決してここで聞こえてこないことが分かるはずだと思う。万人祭司からすれば・・・というよりイエスその方の声かけは、ヒエラルキーのある人間の組織体からは決して生まれて来ないことが分かるはずだと思うから。(組織があれば人という生き物は依存してしまうものなのよ。からだなるキリストの教会ということを今一度よく理解せよです。)
◆彼(ルター)の生きた時代は、当然、欧米では今に続く人々の先祖様が活躍していた時代なのであるから、ただの文字だけの知識としてだけではなく(人間というものは、上から目線で総括的に何らか理解してしまうとそこに腰を落ち着けて満足してしまうものだ)彼がどのような事柄に関して、どのように考え、どのように対処したのかを今の僕らはよく耕して考えて見ることだと思います。
◆これは聖書も同じ、イエスを宣教しようとする人々は、例え、キリスト教の国になったとしても、その欧米のキリスト教国をがどのような歴史をあゆんで、現在どのようになっているかを考えて見るならば、それらは同じ地上の上に生きてきた神の被創造物たる人間の歴史でもあるのだからその時代に生きる人々が、具体的に当時の目線でどのような環境状況の中でどのように対処してきたかは想像できるはずであると思う。無論すべてというわけにはいかないだろうけれど。その適応は人間学というのだろうか・・・無論、自分も含めてだ。
◆今、キリスト教国で問題になっている難民過剰問題・・・人道主義はキリスト教から来ている?? どうですこの問題。何か違っているのではないですか、よく考えてください。人間という動物の種の先理解に後から身につけたキリスト教をふっつけただけではありませんか。「知性は情念の奴隷である」・・・これはヒュームという哲学者のことばだったか、人という動物の種の持つ心情(情念)に知性をふっつけて何かいいことをしていると勘違いしやすいものだからね。よく考えよだ!
◆少し堅い食べ物(これはパウロがまだ弱い信仰者に対して、信仰により困難を乗り切れるような信仰者を食べ物に例えて宣べている)を食べられる人にとっては、こういう状況人はいつの時代も規模は異なるとは言え、同様の考えを持ち行動するものだ・・・というような考察はできうるのではないだろうか。
◆それで、ルターもその時代そのような体験をしている訳です。宗教という権威、ヒューマニストとの戦い、改革の中での農民戦争(自由も箍(タガ)が外れるといずこの時代の人間もこうなるだろうよという例)などなど。いずれの体験も僕らも同じ人間の種(生物学的に)としてどうして、そうなるのかは、原罪(これはカルヴァンさんの前に書いた定義)に該当する諸々の一面なのかもしれない。
◆とすれば、堅い食物を食べつつある僕らにとっては、聖書というのは抹香臭い宗教の一つの書物というのでは決してなく、まさにすべてのすべてを創造されし神の業(現象すべて)を考えることができ、その中で神の似姿に創造されし人間が神の元に安らうための、つまり元の懐に戻り安心するための秘密(人間にとってはさっぱり分からないかもしれないが)そのプログラムが書かれていると言えばいいか。
・・・内容が散乱してきてしまったが、肉と霊について考えつつ、聖書の使徒の手紙を読まれてはどうかと書いたのは、目では確認できないイエスは、今後(つまり今もですが)あなたがたに助け主”聖霊”を送ると言われて、このときも語られているということになるわけだから、そのことを考えつつ、今何を語られ、我々は何を知るかが大切なこととなるのですね。なぜなら、信者、未信者関係なく霊で生きている僕ら人類すべてに対してということになるのですから。
◆その父なる神の摂理(プログラムがあって)、その中にうごめきし、生きは死に、死んでは生きての生命の繰り返しがあって、そのOS(オペレーション・システム)に乗るに対し、神の最愛の人間はそれに載れないシステムの肉の欠点があって、それにイエスという方のパッチを組み込むこと、つまりそれには信仰というパスワードは必要で、それを手に入れればウイルスにも感染せずいずれ永遠のシステムの回路に繋がって次の世界に入って(帰って)行けるということになるのです。・・・・続く