marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(310回目) キリスト者の自由 (M・ルター)

2017-04-03 22:36:00 | プロテスタント
 神が生きておられ、全知全能であられ、今この時、救いとは何かとか、異邦人(つまり先祖伝来の万物の創造なる神の由来をもたない民族)である人々にも心を砕いておられるとか、あるいは聖書を自分の言葉で読むなどとするならば、正直に自分の問うて欲しいのだが、ルターが全く神の側につくとはいえども、善悪の判断を自分の言葉で肯定し始めるとやはり、僕はいくらルターであっても、正直、違和感がしてくるのです。
◆M・ルターの「キリスト教的人間」、昨日の会の続きを読んでみます。

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  第23回 それゆえ、次の二つの文章はどちらも真実である。よい義(ただ)しい行いが、よい義しい人をつくるのでは決して無く、よい義しい人が、よい義しい人がよい義しい行いをする。また、悪いおこないが悪い人をつくるのでは決して無く、悪い人が悪い行いをする。つまりいずれせよ、まずもって人があらゆるよい行いに先立って、よく義しくあり、よい行いがこれに続き、義しいよい人から生じて来なければならないのである。〔・・・・〕信仰は、人を義しくすると同時に、よい行いもする。〔・・・・・〕キリスト者はすでに信仰と神の恵みによってみたされ、救われているので、行いをなしながらも、そこにおいてただ神のみこころにかなうことのみを願うのである。 (『キリスト教的人間の自由』7・29-38 )
   
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◆ある判断をするにはその判断基準が無ければいけない。義(ただ)しいとか悪いとかの言葉があるが、その基準は批評する側のどうしても個人的な判断基準となるという限界があるように思ってしまう。ルターはまったくそちら側の人であるから、その位置からものを語っていますが、善し悪しの判断とは、まさに人間が創造されて以来の課題でもあると僕は思うのです。(創世記第2章17節) これを語ると遺伝的気質、躁鬱や、攻撃性や身体のホルモン・バランスなどの関係まで現在は生理理医学的な面からも解析できるかもしれないなどと考えてしまう。
◆いずれにしても、ルターさんの、現代の僕らが正直な気持ちで読んで違和感と思われる部分が隙をつくっていて、その後の神学者の宿題となった訳である。例えば、ルターは人間の「自由意志」を否定している。僕らが、古来の西欧の長い宗教の権威の呪縛から解放され、しかし、ルターにより解放されたとして、その後の人間の自由な意思とは、神は肯定されるのか、否定されるのか・・・これは、僕らにとっても大きな問題となった。・・・ Ω