marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(320回目)受難週にあたり:三日目に死人のうちよりよみがえり

2017-04-16 05:09:06 | 聖書・聖句
 朝が明けた。まだ、薄暗がりの中・・・。復活については、東日本大震災のことなどから(今までのブログを読まれてください)、僕は霊と肉体、実態となる目に見える肉体がなくとも霊は、可視化することがあることを理解してから、これは実際にあることで何も不思議と思わなくなった。そして天使との表現されている現れについても・・・。神々しいとかではなくきっと、少しはましだろうが普段の人のように現れていたのだろうなどと思ってしまう。
◆ましてヨハネ伝の第11章など、ラザロが死んで四日も経ってからイエスに生き返らせられたこと、つまり、霊の入る実態がある場合、霊は再びその肉体に宿るのだろうと考える事ができそうだ。これは、少なくとも確かな出来事であったのは、その奇跡によりラザロが生き返って共に生活に供していることに目障りであると思ったユダヤ人たちは、再度、ラザロを殺そうとまでしたことが書かれています。長命だったと言われるヨハネ伝の著者ヨハネは手紙の中(第一)で、よく目で見て、手で触れてと、その復活(イエスの霊が十字架刑で死んだ肉体に霊が再度入ったと考えられるが・・・)について、また他のいろいろなイエスの業については確かな事実であったことを訴え続けたのだったからです。〔・・・とすれば、天上界に帰れない堕天使悪魔もその霊を用い、隙のある人間の霊に憑依して神の創造物である他の人間を死に落としめるよう働いていることが推測されるであろう。〕
◆福音の宣教はイエスのこの復活の事実が起因となっています。ここからは難しいかも。全くその道の列車に乗りかかっている方向けか。
霊の人、肉の人を考えながら読んでください。ここまで言い切っている宗教書を僕は読んだことがないのです。
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◆キリストは、最後の敵として”死”を滅ぼされた。(Ⅰコリント15:26、Ⅱテモ1:10、ヘブル2:14-15、黙示20:14、21:4)
 人間の”死”はキリストの”死”によって滅ぼされるという信仰が述べられているのです。
→〔そもそも救われるとは、永遠の命を実態として持つことです。それは、今の生活において信者になり死後のために保険をかけるようなものでは無論ありません。光ある今の地上の生活において個人において必要な事柄として考えにおいて変貌を来たらせるものでもあります。〕
◆ここには天地創造来の神の最高傑作の自分の似姿に創造された人間の神のもとへの帰還の壮大なドラマが展開されています。
 第一のアダムがその罪(神からの離反)によって全人類に”死”を来たらせたように(ロマ5:12)、キリストは第二のアダムとして、生命を与える霊として、その恵みのわざによって死を滅ぼし、永遠の生命を人類にもたらせたのである(Ⅰコリント15:45-47、ロマ5:17)。
 →〔ここにおいては、天地万物の創造主の観点から我々を総括する意味で、その生命のありようが述べられています。僕らは地上に生きているかぎり、このあらゆる世界のどこへも脱出はできないのですから。〕
◆パウロはアダムはキリストの予型であると述べている(ロマ5:14)
 →〔神の似姿たる人間の誕生から、永遠の命を受ける人間への完成形を示されたということか・・・。つまり、人類の終わりの始まりが示されたということです。〕
◆しかし、人間は自然においては死ぬように、自然にキリストの不死に預かるのではない。
 →〔ここに、第一に信仰、つまり人間界のすべてのしがらみを捨てきって、イエスは「あなたは私を信ずるか」と問うているのです。〕
◆「もし、わたしたちが彼(イエス)に結びついてその死の様(さま)に等しくなるなら、さらに彼の復活の様にも等しくなるであろう。」(ロマ6:5)といわれているように、人間がキリストの復活のように等しくなるためには、その死のように等しくなり、その苦難に預からねばならない。(ピリピ3:10)とも述べられています。
「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されている」(Ⅱコリント4:11)信仰者の死はイエスの死と密接な関わりを持っている(Ⅰテサ4:16、黙示14:13)のです。
 →〔ここでは無論、ゾンビのように生きろと言っているのでは無論ない。パウロは言っている、私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではない、キリストが私のうちに生きているのだ。「生きることはキリスト、死もまた益なり」と言い切っている。・・・Ω