marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(315回目)受難週にあたり:詩篇22篇とイエスの受難

2017-04-11 08:47:16 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
  以下はE・フロムの「ユダヤ教の人間観(旧約聖書を読む)」(河出書房新社 1996年 初版 <また、新たに再版になったはずです>)から。これは、最後の「補論」に掲載されている文である。僕がどうしてこの文を掲載するかは後半に書きました。 
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◆詩篇第22篇は、イエスの十字架上のはりつけの物語において、決定的な役割を果たした。マタイ伝第27章46節はこう伝えている。「そして3時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(このマタイ福音書ではヘブライ語原文のアラム語訳が引用してある。ヘブライ語の原文は「エリ、エリ、ラマハ、アザヴタニ」である)
◆イエスが全く絶望的なことばをはいて死んだということはとうてい考えられないことである。このことは、もちろん、福音書の注解者たちの多くが主張するところであるが、これらの人たちの説明によれば、イエスは神であると同時に人間であったのだから、彼が人間として絶望のうちに死ぬということはまったく不条理だというのである。けれどもこの説明では到底満足できない。イエスのあとにもさきにも。多くの殉教者となった人間がでたが、この人たちは十分な信仰をもち、いささかの絶望さえも示すことなく死んでいったのである。〔・・・〕
◆この問題はいささか難しそうだが、その解答は簡単なように思われる。ユダヤ教の伝説では、今日にいたるもなお、モーセ五書、あるいは毎週読まれるその一部、さらにまた祈祷などは、書き出しの主なことばとか文句で呼ばれている。詩篇のあるものは、これもまた、今でも最初のことばでや文句で呼ばれている。〔・・・〕だから、最初の福音書が記されたころは、こうした用法から推して、詩篇に第22篇もまた、最初の主な文句で引用されたと考えられるふしが多分にある。別のことばで言えば、福音書はイエスが息を引き取ろうとしたさいに詩篇の第22篇を誦したと述べているのである。そうであるならば何も問題はない。・・・この詩篇は絶望でもって始まるが、最後には信仰と希望の熱烈なムードで終わっているからである。じっさい、この詩篇の最後のことばくらい、原始キリスト教徒の熱烈で普遍的な心情を適切に言い表しているものは、他の詩篇に見られないであろう。「子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救い後の生まれる民に述べ伝えるでしょう」(ヘブライ語では<キ・アサー>は「彼はすでにそれをなされた」の意である)〔・・・〕
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◆さて、この一見するとイエスが十字架上で人間の部分としての弱音がでたのかと思われる十字架上のことばは、詩篇22篇の冒頭のことばである。ユダヤ古来の聖書の詩篇などを常々読んでいない人は、どのように解釈するかもしれないからと思ったかどうかはっきりしないが、福音書として最初に書かれたマルコ、そしてユダヤ人なら周知の冒頭の系図の書かれたマタイには書かれているが、それを知らないであろうテオピロ閣下への献上文らしきルカ福音書や同様にユダヤ人以外の異邦人キリスト者にも多く読まれたヨハネ福音書には、誤解を避けるためにかこのことばは書かれていない。
◆信仰をもった人間で殉教するにも喜んで死んでいった!? 例が多くある。僕がキリスト教を知りたいと思ったのはこの理由をなんとしても知りたいと願ったからだが、並の人間がそうであるならば、神の子イエスは絶望のことばを吐くことはないということと、ユダヤでは冒頭の句で後半すべてを含んでいるのが通例であるというのがユダヤ人フロムの言い分であるし、それは正しいと思う。
◆ところが、イエスは人間の苦しみを身を挺して体験されたのだからその人間としての神から見放された絶望をもこのとき体現されたのだという神学的解釈がまかり通っているとか。僕はかっこいい解釈ではあるが深読み過ぎだと思う。神のことを思わず人の事を思うことになっていくのでそういう読みはしない方がよいと思う。ユダヤの現代まで色濃く残っている祈りの伝統的様式(冒頭句を強く発言し以降はボソボソと言うなど)を調べていただくと素直にそれはありえないことが分かる。イエスを信じて欲しいと願ってその中に絶望した人間の苦しみをも体現させたと思うのか、求道中のものの絶望を救うためのイエスの叫びとなるのか・・・このように考えている説教者の方がいればよく考えて欲しい。無論、そのように解釈することによってイエスを信じる人がひとりでも多く起こされるのであればそれはそれにこしたことはありませんが・・・Ω