marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(318回目)受難週にあたり:死にて葬られ陰府にくだり・・・

2017-04-14 20:47:12 | 聖書・聖句
僕にとっても今週は受難週のようです。「裸で逃げた若者は誰だったのかⅢ」を書こうとしていましたが、その内容は前の回に書きました枝葉末節、尾ひれのいっぱいついた、憶測だらけの僕の考えでありましたが、時間が無く途中まで書いて疲れて眠りこけて(まるで、このときのマルコのように・・・)、あれやこれやで気がつくとイエスが十字架にかかられたであろう時は過ぎ、イエスは今はお墓の中ということになりました。よって、「裸で逃げた若者は誰だったのかⅢ」はいずれ、マルコの事を書くときに僕の憶測をたくさんつけて書こうと思います。それで、時間がなく途中名まで書いて・・・のその文を次の一行掲載して今回の表題をその後に書こうと思いました。
◇その夜・・・受難週で言えば(2017年は今晩が金曜日で、ちょうど時刻は今頃・・・マルコの母の家で最後の晩餐を終えたイエスと11人の弟子は(ユダは既にいない)、祈りのためにゲッセマネの園に向かう。その時、マルコは眠りに落ちいていた・・・。
◆さて今回、イエスは今、お墓の中にいることになりますが、明日の日曜日に復活されて墓の中にはいなくなったのだから(ただし、この時間的経緯の詳細は、お墓の中の実況中継ができないのでどのように動かれていたか分かりませんが、このときのお墓は人が頭を下げて入れるような大きさでイエスが治められたのは土に掘られたベットのようなところです。)それはともかくとして、この使徒信条と呼ばれ、信徒が礼拝で唱える文言(礼拝で唱えないところもあります)は、「私はこういうイエス・キリストという方を信じているのです」ということを短くまとめたものだと思っていただければいいのですが、今回の表題はその後半にある文言です
◆ですから、もし、イエス・キリストという方はどういう人(神)なのかと問いたければ、十字架で死んでよみがえってネックレスのアクセサリーが象徴というだけではなくて、それから誕生日が12月25日でクリスマス・パーティーのお祝い、クリスマス・ツリーを飾りお祝いする人だけではなくて、第一は僕らの欠陥(あえて罪とは書きません)のままでは、死後に永遠の命に入れず、そして生きている時には、聖霊(助けてくださる神からの潔い霊)に結びつき導かれないので、そのためその意味を信ずる人々すべてを助けてくださる方がイエスという方で在り、それはこのこういう時代に起こったのだ、信じているのはこの人なのだという、その答えのような内容です。
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◆使徒信条 
 我は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は、聖霊を信ず、聖なる公同の教会、生徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。
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◆肉の人、霊の人があるならば、イエスはこのとき肉体は死ぬも、神の霊によって再び生き返り、天使(マルコでは「若者」)が墓の扉の石を開け、イエスの遺体の布を取り去り弟子たちが来られる夜明けまで待たれていたのだろうか。
◆僕はここで突飛な憶測が頭から離れない。陰府に下ったイエスは、そこで今までに亡くなった人々すべてに福音を述べ回っていたということです。日曜学校で子供から、いままでイエス様を知らないで死んでしまった人はどうなるの?・・・と問われる事があったけれど、それがいまの僕の答えです。だから、○○ちゃんは、生きているうちにイエス様を信じなさい。イエス様はこう言っているんだよ。「生きていて私を信ずる者は死ぬことがない」と・・・。
◇これまた突飛なことを書くので石を投げられそうだが、インマヌエル・スウェデンボルグという霊能力者(かのヘレンケラー女史が賞賛されていた人で「真の基督教」という本も読むことができます)が、かの「パウロが地獄にいるのを見た」と記したものがあるそうで、僕はこのとき、しばらく呆然としたが、後で胸が熱くなったのです。パウロよ。あなたはそこまで福音を述べ伝えに行ったのかと・・・ Ω