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[悲報] 時代が記憶すべき人、「はだしのゲン」作者死去

2012-12-25 | Weblog

広島原爆で愛する家族(父・姉・弟・妹)を失い、自身も被爆し、そのうえ被爆者としての差別をうけながら、その悲しさや苦しさを天が自分に与えた使命ととらえ、漫画を描くことで、戦争の悲惨、平和の尊さを訴え続けてきた中沢氏。ご冥福を祈ります。

しかし中沢氏がいま眠りにつき、原発推進・富国強兵をおす自民が蘇ってきたことはまことに皮肉だ。それに天職をまっとうした中沢氏と比べ、自民の安倍にしろ、維新の石原にしろ、職責を任期途中で投げ出し、国民を欺いた極右派のふらつきモノたちだ。

結局、ゴタゴタ続きの家庭には福が寄り付かないのと同じで、日本は完全に国運にみはなされたようだ。2011年は東電の前会長・勝俣恒久が引き起こした福島原発人災事故、そして今年は先代の外交努力を無とかし、日本の産業界に計り知れない経済的損失をまねいた前都知事石原慎太郎の尖閣購入計画。2013年は、よくはならないということだけは確かだ。本ブログ管理人の一言。

 

漫画家の中沢啓治さん死去 「はだしのゲン」作者

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「はだしのゲン」(c)中沢啓治/汐文社

  MAINICHI:19日に73歳で亡くなった漫画家で「はだしのゲン」作者の中沢啓治さんは、原爆投下と戦争の「責任」を問い続けた。漫画の主人公のゲンさながらに、ユーモアと明るさで包んだ怒りを、頑固に発信し続けた。

 8月6日の広島・平和記念式典に自分の意思で参加したことはなかった。「だって全然問わないからね、戦争責任を。平和宣言やって、鐘鳴らして。こんなもんじゃないだろう。もっと怒りを持たねばならない」。09年に「はだしのゲン」の原画を広島市に寄贈したことから、11年夏に初めて式典に招待された。「今生の別れのつもりで見届けたが、(ハトが飛ぶ演出など)空虚に感じた」とやはり手厳しかった。

 米軍による広島、長崎への原爆投下を「実験場にされた」とみていた。原爆以前から反戦運動をしていた日本画家の父晴海(はるみ)さんが投獄され、一家で「非国民」といじめられた経験、日本人自身が昭和天皇やA級戦犯の戦争責任をうやむやにした怒りを漫画に込めた。きれいごとを嫌い、「自由にものが言えなくなる」と、団体に一切属さなかった。

 怒りの矛先は原爆にとどまらなかった。「原子力」の利用そのものにも鋭い批判を向けた。旧ソ連チェルノブイリ原発事故から25年となった11年4月26日夜、広島市内であった自伝映画の上映会でのあいさつで東京電力福島第1原発事故に触れ、「人間の手で制御できない原発ばかりに頼るのは危険だ。これを機に自然エネルギー利用に転換すべきだ」と語った。被爆者が差別された経験から、福島でも同様の事態が起きないよう強く願った。

 若くして離れた故郷への愛着が、憤りを一層激しくしたのかもしれない。絵描きの才能を発揮した中沢さんは中学卒業後に看板屋に就職し、1957年完成の旧広島市民球場で看板広告を描いた。11年に式典に出席した前夜、新球場「マツダスタジアム」に初めて足を運び、カープの試合で始球式のマウンドに立った。力いっぱい投げ込み、子どものような笑顔を見せていた。

 既に肺がんが体をむしばみ、再発や転移を繰り返していた。抗がん剤や放射線治療をしたが副作用が強く出て中断。退院すると精力的に講演活動などを行い、今年8月6日の広島原爆の日にはラジオ番組に出演していたが、秋から肺炎で入院していた。

「踏まれても踏まれても、たくましい芽を出す麦になれ」。被爆死した父の教えは「ゲン」のテーマでもあり、その言葉通り中沢さんは何度も復活し、最後まで戦い続けた。

 中沢さんは家族に、家族葬が終わるまで死去したことを他言しないよう言い残していたという。

 【ことば】はだしのゲン

 小学2年の主人公、中岡元(ゲン)は広島の自宅で被爆し、奇跡的に助かるが、父や姉弟たちは家の下敷きになって亡くなる。ゲンも原爆症で髪が抜け落ち、死への恐怖に襲われる。母と原爆投下後に生まれた妹のために焼け野原を奔走するが、その後2人とも亡くなってしまう。ゲンは絶望のふちに追い込まれながらも立ち上がり、戦後の苦難を力強く生き抜いていく。

 

 


 参考:インタビュー記事(pdf)

http://www.japanfocus.org/data/Microsoft%20Word%20-%20genisangry.j.original.pdf

 

参考:経歴ほか

1945年8月6日、広島市立神崎国民学校(現在の広島市立神崎小学校)1年生だった時に広島で被爆。友達の母親に呼び止められて自身は建物の塀の影に入って熱線を浴びずに奇跡的に助かるが、父、姉、弟を失った。これは『はだしのゲン』の原爆投下時のエピソードとほぼ同じである。父は日本画家だった。

終戦後、手塚治虫の『新宝島』を読んで感動し、漫画家になる事を決意。

中学卒業後に看板屋で勤め、そこで当時の中卒最高額の給料を貰った。昼間は看板修行、夜は漫画修行、日曜の休みに三本立ての映画を見たと言う。その後、漫画の投稿を何度も行い、『おもしろブック』に時代劇の読みきりを描いて応募した作品が入選作となった。

1961年一峰大二のアシスタントになるために上京し、山手線日暮里駅のそばのアパートに住んだ。漫画家デビューは2年後の1963年とされる。

レースカーと産業スパイをからめた『スパーク1』(『少年画報』)でデビューしたが、打ち切られた。一からやり直すために、辻なおきのアシスタントになり、『週刊少年キング』では『宇宙ジラフ』を三ヶ月連載し、締め切りに追い込まれプロの厳しさが分かったと言う。

上京当初は周囲の原爆被爆者に対する差別の視線から、もう二度と原爆と言う言葉を口にすまいと決心し、自らが被爆した過去を語りたがらず、専ら少年向け漫画誌に原爆とは無縁の漫画を描いていた。

転機となったのは1966年の母の死で、広島に戻り火葬した際に放射能のために母の骨がなかった事に怒り、原爆という言葉から逃げ回るのでなく、漫画の世界で戦うと決意した。

初めて原爆を題材とした漫画『黒い雨にうたれて』を描き始めるが、最初はどこの出版社からも掲載を断られた。『漫画パンチ』のH編集長には感動されたものの「CIAに捕まるかも知れない」と言われたが、「喜んで捕まりますよ!」と答え、描き上げてから2年の時を経てようやく掲載された。『黒い雨にうたれて』は好評となり、『黒い川の流れに』『黒い沈黙の果てに』『黒い鳩の群れに』といった作品も描いた。

『はだしのゲン』は、33歳の時、出版社の企画で描いた自伝の漫画『おれは見た』に感動した編集長に長期連載を勧められ始まったもので、広島の原爆で父、姉、弟を喪った主人公の少年、中岡元(なかおか げん)が逞しく生きる姿を描いている。主人公・元の姉と妹の名前は中沢自身の姉と妹の名前をそのまま使用しているなど自伝的要素が強い。

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被爆者でありながら悲惨な被爆体験のため2010年まで平和記念式典に出た事はなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」と述べている。2010年に肺がんで生死をさまよった事を契機に、2011年、初めて出席した。

中沢の漫画は妻に手伝ってもらう他には一人で描いている。これは中沢がアシスタントを雇って作業する方法を嫌っており、自分一人で描くというポリシーを持っているためである。そういった中沢のこだわりもあり、違う職業の人としか顔を合わせないこともある。理由は、原爆漫画家と同業者からレッテルを貼られていることが不快で、自分の顔を見られることが嫌だからと語っていた。

最高戦争責任者だった昭和天皇の戦争責任を主張しているため、戦後も国家元首だった昭和天皇を激しく嫌い、その憎悪から天皇制を絶対に許せない物として強固に廃止する事を求めており、天皇に対する怒りは一切の妥協を許さない程厳しく、広島に行幸した天皇を『人間の神経をもたない冷血人間』と評している。

「天皇や軍部はポツダム宣言を無視し、その結果、広島・長崎で多くの人が亡くなった。なのに戦後、天皇が広島に来た時には日の丸を振るように学校で言われた。なぜ万歳なのか。今でも腹の中が煮えくり返る思いがある。日本人は甘いと思う。」と述べ、さらに「天皇ヒロヒトと皇族を助けるために広島と長崎は犠牲にされたのだ。」と過激な発言を述べている。

また日本の戦争責任者の昭和天皇が生き延びた事がイタリアの戦争責任者のベニート・ムッソリーニが逆さ吊りにされてイタリア国民に石を投げつけられる末路と正反対である事を比較している。しかし中沢は作中で天皇制批判を描いても嫌がらせがなく拍子に抜けたと言い、自伝や週刊誌や新聞で天皇制批判を載せている。

『はだしのゲンへの手紙』では読者に「天皇は憎いですか?」という質問に対し、「天皇の名によってアジアで2000万人、日本では300万人も殺された、私は天皇が憎い」と返答しており、一方、昭和天皇が1975年の日本記者クラブで「戦争中の事だからやむを得ない」と失言した事に対しては「被爆者に対して土下座して謝って欲しかった」と述べている。

原爆投下の当事者のアメリカに対し怒りを持っており、原爆投下をしたアメリカにはナチスドイツホロコーストを批判する資格はないと述べている。アメリカの原爆投下について『黒い雨にうたれて』では「勝てば官軍、負ければ賊軍、でも勝手すぎる」『はだしのゲン』では「喧嘩両成敗」と主張している。ただし、アメリカの国力もしくは文化には敬意を示しており、ウォルト・ディズニー白雪姫が戦前のカラー映画である事に気が付き舌を巻いたと言う。アメリカの児童やオバマ大統領とその子女に英語版『はだしのゲン』を読んで欲しいと述べている。

日朝関係に対しては、日本統治時代の植民地支配を批判し、朝鮮に対し贖罪意識を持っており、朝鮮語版『はだしのゲン』を北朝鮮に持ち込みたいと述べている。

日中関係に対しては平和交流を期待しており、「日本人が被害者ぶるのではなく他の国で何をしたのかも知っておく必要がある。南京虐殺の資料が出てくると、なんと日本人が酷い事をしたのかというのが出てくる。申し訳ない気持ちでいっぱいになります。」と述べている。

また、原爆を題材にした漫画の他、『グズ六行進曲』『お好み八ちゃん』など、主人公が一人前の職人や調理師等を目指して努力する「仕事シリーズ」や、「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」等の怪獣映画コミカライズも多数手掛けている。


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