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麻生のナチス発言 内外から批判続々’ドイツ 麻生の釈明すら批判

2013-08-02 | Weblog

記事毎日;麻生副総理 ナチス発言、ドイツで批判

8/1

麻生太郎副総理兼財務相は1日、憲法改正に関連しドイツのナチス政権を引き合いに「あの手口、学んだらどうかね」と講演で述べたことについて「誤解を招く結果となった」として撤回した。

ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の反省から、ドイツでは現在、ナチスを賛美する発言や集会は刑法で禁じられている。

麻生氏はナチスについて「否定的にとらえていることは発言全体から明らか」と釈明しているが、ドイツでは、あくまで麻生氏がナチスを「ほめた」「手本とした」と批判的に報じられている。

20世紀ドイツ史を研究する公立現代史研究所(ミュンヘン)のマグヌス・ブレヒトケン博士は「麻生氏の例えは驚くべき発言だ」と述べたうえで「ナチスが政権を握った1933年以降も、公式にはワイマール憲法は存続した。

だがこの年、議会承認を経ずにヒトラーが法律を制定できる全権委任法が成立し、ナチス独裁体制が固まったことで、ワイマール憲法は事実上の効力を失った。

ナチス自身は特に憲法を定めていない」と説明。麻生氏による「ワイマール憲法はいつの間にか変わっていた」との発言は事実誤認と指摘した。

ドイツでは、ナチス賛美を容認しない空気が広く社会に浸透している。2007年にはナチスの家族政策を称賛したテレビ司会者の女性が番組を降板する騒動があった。

ワイマール憲法は1919年に制定され、男女平等の普通選挙権や、労働者による団結権・団体交渉権などを保障し、当時は世界で最も民主的な憲法とされた。ナチスはこの憲法の下、32年の選挙で合法的に第1党となった。33年のヒトラー政権発足後も憲法は正式には廃止されず、45年のドイツ降伏まで存続した。

ドイツのDPA通信は1日、「麻生氏は失言で知られている」と伝えた。


参考


民主政体でなぜ独裁?、「ナチス憲法」は存在したのか?

-麻郎副総理兼財務相のいわゆる「ナチス憲法」発言が物議を醸している。

ドイツは第1次世界大戦(1914~18年)の敗北に伴って帝政が崩壊し、当時の欧州の中で最も進歩的な民主政体とされるワイマール共和国が成立した。

その進んだワイマール憲法下で実施された選挙で、ヒトラー率いるナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)が第一党の座を獲得し、独裁体制へ突き進むわけだが、麻生氏が言うような「ナチス憲法」といったものは存在しなかった。

ナチス政権の下でも、ワイマール憲法は形骸化しながらも残っていたのであって、「ナチス憲法」に取って代わられたわけではない。

-どうしてヒトラーはそんな民主的な憲法の下で、独裁体制を構築できたのだろうか。

1933年1月のヒトラー内閣成立直後の3月、国会で「全権委任法」が可決された。これは政府に立法権を委ねる法律で、ヒトラーはこれによってワイマール憲法を無視し、大統領の承認や国会の制約も受けずに国を支配することが可能になった。

当初は時限立法だったが、更新が繰り返され、ナチス独裁に正当性を与える法的根拠となった。

全権委任法は、国会議席の3分の2以上の賛成がなければ成立できない法律だったが、ヒトラーの政治工作によって圧倒的賛成多数で可決された。

-ナチスはユダヤ人迫害も法律にのっとって実行していったのか。

全権委任法成立後、ナチスはユダヤ人迫害のための法律を次々に施行した。同法成立直後の4月には、非アーリア系(ユダヤ人)の公務員らを強制的に退職させる法律も制定された。

ユダヤ人の社会権・生存権を否定する立法・政令は枚挙にいとまがないほどだ。反ユダヤ立法の最たるものは35年のニュルンベルク法で、ドイツ人との結婚を禁じるなどユダヤ人からあらゆる権利を剥奪した。

-全権委任法がヒトラーの暴走を許したわけだが、戦後のドイツはこの教訓をどう生かしているのだろうか。

ワイマール憲法は実質的に、全権委任法の成立を可能にしていたと同時に、危機に際して国家元首の権限を拡大する緊急命令発布権を認めていた。これらがナチス独裁に道を開いたワイマール憲法の大きな弱点だった。

その反省から、戦後のドイツ基本法(憲法)は為政者への全権委任を認めていない。また、改憲は連邦議会の3分の2以上の賛成で可能と規定されているが、基本的人権や三権分立の保障を定めた条文の改正は決して認められていない。


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