goo blog サービス終了のお知らせ 

まい、ガーデン

しなしなと日々の暮らしを楽しんで・・・

最新刊まで一気呵成に読んだ全5冊 『神様のカルテ』シリーズ 夏川草介著

2019-07-10 08:53:31 | 

ほんと、久しぶりにどストレートに感動して胸が熱くなって、余韻にいつまでも浸る。
自分にそんな感性がまだ残っていたんだ、と見直したくなるくらいに。いい小説だったなあ、と。

私が手に取るのが遅すぎたのかもしれない。2010年の発行で、評判は当初からのようだったから。
地区センターの書棚に並んでいるシリーズ本を見て、何となく読んでみるかと。
何も知らないから0が最初なのだろうと「神様のカルテ0」から読み始めた。
違った、前日譚の短編集だったので改めて刊行順に「神様のカルテ」「神様のカルテ2」「神様のカルテ3」と
一気呵成に読み続けた。
それくらい力のある小説で、青臭く生真面目で端然とした登場人物たちが立場を超え考えの違いを超え、
おのれの信念のもとに医療にあたるさまが、心打ち胸熱くさせ考えさせられる。
誰もが決して声高に主張するわけでもない、誰が正しくて誰が悪いということではない。
24時間365日対応の地域医療センター本荘病院のあり方。
理不尽なことだらけの大学病院医局にも使命があり、それに向かって医師たちが邁進している。
多岐にわたる医師という仕事を、みな、それぞれの正義で立ち向かっている。

なにより登場人物すべての人たちが個性豊かに生き生きと、まるですぐそばで息をしているかのように描かれている。
シリーズ全作を通してこの小説には嫌な人が出てこない、違う、嫌な人はいるが悪い人は登場しない。
そのことがさらに物語を清々しくさせている。

御岳荘の住人。行きつけの居酒屋の亭主。
地域医療センター本荘病院で働く人たち、医師たち看護師たち患者たち。
信濃大学病院で働く同僚たち先輩の医師たち研修医看護師たち。
もちろん、一止の妻ハルさん、子供の小春ちゃんは、ときにいい人過ぎるんじゃないののというくらいに。

特に印象的な人たち。
「神様のカルテ」では、
夫を亡くし、寂しい思いばかりしてきて、孤独でそれだけの人生だったという安曇さんが、栗原一止医師と出会い、
最後の最後にこんな幸せな時間が待っていたなんて、本当に人生は分からないものです。と感謝して一止に手紙を残し旅立つ。

「神様のカルテ2」では、
大学で同級生だった辰也が本荘病院に、彼のあまりの変化に。
大狸先生と共に内科を支えていた先輩医師古狐先生との別れ。
重症患者留川トヨさんを看病していた夫の孫七さんが、
妻のために病室で歌う切々たる木曽節、孫七さんは後を追うようにその日に旅立つ。

「神様のカルテ3」では
本庄病院の新しい女性内科医の小幡医師。
命と真剣に向き合わないと感じる者に対しては、相手が医師であれ、患者であれ、非情なまでの態度を見せる
彼女が一止に言い放つ。
「ちょっとフットワークが軽くて、ちょっと内視鏡がうまいだけの、どこにでもいる偽善者タイプの医者じゃない」
きつい一言。それが一止に次のステップに進むきっかけになる。

そして、本荘病院や大学病院がある安曇野の豊かな四季の折々の風景が、
その時々の心情を映し出すかのようにカメラで写し取ったかのように描写されている。
わたしもその中に立って信州の風や音や色を味わってみたいと思うくらいに。 

全シリーズのあらましはこちらに→ https://www.shogakukan.co.jp/pr/karte/ 

新章 神様のカルテ 最新刊 2019年2月5日初版発行

信州にある「24時間365日対応」の本庄病院に勤務していた内科医の栗原一止は、より良い医師となるため信濃大学医学部に入局する。消化器内科医として勤務する傍ら、大学院生としての研究も進めなければならない日々も、早二年が過ぎた。矛盾だらけの大学病院という組織にもそれなりに順応しているつもりであったが、29歳の膵癌患者の治療方法をめぐり、局内の実権を掌握している准教授と激しく衝突してしまう。
舞台は、地域医療支援病院から大学病院へ。

新章 神様のカルテ」に寄せて
「神様のカルテ」を書き始めて、いつのまにか十年が過ぎた。私の歩んできた道を追いかけるように、栗原一止の物語も五冊目を数え、本作をもって舞台は大学病院へと移る。栗原は、私にいくらか似たところはあるが、私よりはるかに真面目で、忍耐強く、少しだけ優秀で、間違いなく勇敢である。そんな彼が、大学という巨大な組織の中で描きだす、ささやかな「希望」を、多くの人に届けたいと思う。
夏川草介 深夜2時半の医局にて

「新章 神様のカルテ」は、29歳で末期の膵癌を患っている7歳の女の子の母二木さん。
その治療に携わる一止医師。彼女の治療を中心に物語は展開していく。
患者は医師に命を委ねる。医師は患者によって成長する。

大学病院の医療とは、病気を治すとは、生きるとは、医師とは、携わるものとは患者とは患者の家族とは、
生死の瀬戸際に立つ一人の人間に対して視点は複層的に捉えられていて、読みながら熱くなってくる。
やはり、5作目の「新章 神様のカルテ」が10年を経たというだけあって素晴らしく、より厚みを増して読み応えがあった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四人の語り手による四人の画家のエピソード『ジヴェルニーの食卓』原田マハ

2019-06-22 09:01:26 | 

2019年上半期の直木賞候補作品はすべて女性作家というできごとに拍手喝采。
原田マハさんも候補者のひとり、4回目。
2012年『楽園のカンヴァス』2013年『ジヴェルニーの食卓』2016年『暗幕のゲルニカ』
そして今回2019年『美しき愚かものたちのタブロー』
まさか「今年度は受賞作なし」なんてことにならないでしょうね。今度こそ受賞してほしいの。

『ジヴェルニーの食卓』

短編小説だから受賞は無理だったかもしれない、なんて偉そうだけれど。
でも、私は読みやすくて面白く読んだ。モネ、マティス、ドガ、セザンヌ。アートストーリー四編。
どなたかが”読む美術館”と書いていらしたけれど言い得て妙。本当にぴったりの表現よ、読む美術館。

物語は、4人の語り手による4人の画家にまつわる絵と人生のエピソードが、周辺にいた彼女たちの視点で語られる。

「うつくしい墓」 アンリ・マティス 家政婦 インタビューに答えて
「エトワール」  ドガ       友人である画家のメアリー・カサット ドガのモデルになった少女について
「タンギー爺さん」ポール・セザンヌ 画商画材屋娘の手紙 セザンヌへの手紙 
「ジヴェルニーの食卓」 モネ モネの再婚相手の娘 モネの客をもてなす食卓について

内容紹介文から

マティスとピカソ、ライバルでありかけがえのない友人であった二人の天才画家の交流を描いた(うつくしい墓)
「この世に生を受けたすべてのものが放つ喜びを愛する人間。それが、アンリ・マティスという芸術家なのです」

新しい美を求め、周囲の無理解に立ち向かったドガの格闘の日々を刻んだ(エトワール)
「これを、次の印象派展に?」ドガは黙ってうなずいた。「闘いなんだよ。私の。――そして、あの子の」

セザンヌやゴッホら若い画家の才能を信じ、支え続けた画商の人生を巡る(タンギー爺さん)」
「ポール・セザンヌは誰にも似ていない。ほんとうに特別なんです。いつか必ず、世間が彼に追いつく日がくる」

不朽の名作「睡蓮」誕生に秘められた、モネとその家族や友人たちの苦悩と歓喜の日々が明かされる(ジヴェルニーの食卓)
「太陽が、この世界を照らし続ける限り。モネという画家は、描き続けるはずだ。呼吸し、命に満ちあふれる風景を」

原田さんの本領発揮で、フィクションでありながら確かな史実も織り交ぜてあり、どの作品も素晴らしい。
なかでも、画家ではないが「タンギー爺さん」がいちばん心に響きよかった。
無償で画家を支え続けるタンギー爺さんのあたたかい心根が、読後もずっと続いて気持ちがいい。
もっとも娘にしてみれば、絵の具代もキャンバス代も払わないセザンヌは非難すべき相手で、
催促の手紙は「親愛なるムッシュセザンヌ」からはじまり「タンギー親父の娘より」で毎回毎回締めくくられる。
自分たちの生活を脅かすから絵の具代を払ってください、いついつまでにカンヴァス代を送ってください、と
代金の請求文が手を変え品を変え書かれているから、切実とはいえ読む方はくすっと笑いたくなる。
動じないセザンヌ、ここにあり、ね。

ちなみにネットによればタンギー爺さんとは

ジュリアン・フランシス・タンギー(1825-1894)はパリで画材店を営んでおり、
ゴッホ初期の作品を扱った美術商でもあった。彼の陽気さと美術への情熱により、その店はパリで最も人気が高く、
画家達に「お父さん」と呼ばれて慕われていた。

若い画家たちに食料や金銭を援助し、絵具代として絵画を受け取っていたので、
モンマルトルにある彼の店は印象派の絵画で埋め尽くされ、さながら美術館のようであったという。

ゴッホは彼の希求する晴朗さを絵画的に表現するために、朗らかで思慮深いタンギーを描いたものと思われる。
(ゴッホはタンギー爺さんの肖像を3作品描いている)はたして、どちらがより深くご本人を表しているのやら。

2作品め                         3作品め

 

尚、この絵の背景にある浮世絵はタンギーの店の商品で、
ゴッホは浮世絵の主題や平坦で陰影のない色彩に求めていた晴朗さを見出していた。

(画像はすべてwebからお借りしました)

『ジヴェルニーの食卓』 
絵画の、特に印象派のとっかかりとして読んでも、別に絵画に興味がなくても新時代を切り拓いた人の物語は、
興味深く読むことができるのではないかと思う。

ちょうど今、国立西洋美術館では「松方コレクション展」が開催されている。
その西洋美術館とその礎となった「松方コレクション」の運命と奇跡を描いたという原田さんの候補作品
『美しき愚かものたちのタブロー』、機会を見つけて読んでみよう。



 

 

 



 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある歌舞伎役者の半生が語られる『国宝 上・下』吉田修一

2019-06-14 07:31:04 | 

 私、吉田修一さんの作品は『横道世之介』で2回も挫折しました。
1回目は読み始めてすぐ、2回目挑戦も半分くらいまで行くと「もういいかな」の気持ちになって脱落。
なにがもういいかなか分からないけれど、ともかく読み続ける気にならないわけよ。相性が悪いのかなと。

それが書棚に並んでいた『国宝上下』2冊。国宝といったっていろいろある。
なんの国宝かと手にとって紹介文を読んだら、歌舞伎役者三代目花井半二郎の半生、もちろん架空の人物。

これ以上でもこれ以下でもないので、あらすじ2例紹介。

昭和39年の長崎であった侠客(きょうかく)同士の争いで父を亡くした主人公・喜久雄は、縁あって関西歌舞伎の名家の養子に。生来の美しい容姿で「女形」として頭角を現す彼を、やがて血筋をめぐる確執や醜聞が襲う。
栄光と絶望の落差にもがきながらも芸への愛を胸にはい上がる喜久雄の濃密な半生が、昭和の高度成長期から平成へと至る大阪や東京の空気とともにつづられる。

任俠の一門に生まれながら、この世ならざる美貌を持った喜久雄。上方歌舞伎の名門の嫡男として生まれ育った俊介。二人の若き才能は、一門の芸と血統を守り抜こうと舞台、映画、テレビと芸能界の転換期を駆け抜けていくが――。長崎から大阪、そして高度成長後の東京へ舞台を移しながら、血族との深い絆と軋み、スキャンダルと栄光、幾重もの信頼と裏切り、数多の歓喜と絶望が、役者たちの芸道に陰影を与え、二人の人生を思わぬ域にまで連れ出していく。

なんといっても特徴は文体にある。

たとえば、第3章大阪初段の最後「喜久雄はこの日から、すっかり鶴太夫直伝の義太夫節の虜となっていくのでありますが、
そろそろ今章のページも尽きますれば、その辺りのお話はまた、次章にてお付き合い願えればと存じまする。」
第5章スタア誕生の最後は「その辺りのの情けない事情につきましては、ぜひ次章にて本人からの言い訳を少しばかり
でも聞いていただければと、心よりお願いする次第にござりまする。」
と、まるでそばで誰かの口上を聞いているような気がして、するする次々ページをめくるわけ。

ときに、主人公が演じる歌舞伎演目についてあらすじの紹介や見どころといった部分が語られる。

また、新作の「源氏物語」光源氏と空蝉などの女たちを、喜久雄と俊介が日替わりで演じるという趣向の『源氏物語』
が大成功を収めて評判になるというくだりでは、今の海老蔵さんのおじいさんが演じた『源氏物語』が大当たりをとって
「海老さま」ブームを起こしたことなどが記憶の底から蘇る。

喜久雄が最後に挑戦した女形の大役『阿古屋』については、
琴、三味線、胡弓、3つの楽器を使い、歌右衛門が昭和の終わりに唯1人演じた「阿古屋」を、坂東玉三郎が演じた
というニュースを見たな、なんてことも浮かんでくる。

こういったエピソードが私の興味をさらに刺激して、この話この役者は誰のことかななんて想像したりして。

そして先にも言った「・・であります」「・・でございます」「・・でございましょう」と、
物語をするすると勧めていく語り口が、最後までその興味を引っ張って面白く読んでいくわけでして。
けれどその語り口に騙されて、そこについての喜久雄の心理をもっと深く追及してよ、と思うところでもすっと流され、
気がつけば奥行き浅く物足りなさも残る。

吉田修一さんもインタビューで、

今回は、毎回毎回そんな試行錯誤の連続で、どうすれば歌舞伎っぽくなるか、この作品らしさが出るかということを
考えながらやっていたので、逆にいうと登場人物とかストーリーというのはあんまり考えなかった気がします。

とおっしゃっているのだから、私の物足りなさなんてどうってことないのね。
しかし、なんのかんの言いながらもラストシーンは圧巻で、喜久雄のすべてがそこに集約されて物語は完結していくのかと。
まるでカメラで撮影しているかのように、目の前でその光景が展開されているのがはっきりと見えてくるようで圧倒された。

さらに、吉田修一さん インタビューから

「この役者の幕切れはこの演目で行こうと、筆が乗って描いている感じがしました。」とインタビューアー。

それはもう、間違いないですね。登場人物が出てきた瞬間に、この人が死ぬんだったら、こういう感じだろうというのが、ぼんやり浮かんでいたし、一番いい舞台で死んでほしいというのは、思っていました。喜久雄が最たるものなんですけど、師匠の白虎にしても、萬菊にしても、俊介にしても、最高の幕切れを用意したいと思った。でもそうしたら、誰が国宝になるのかという結末も、最初に想定していたのと変わったんですよ。

納得です。
かなり分厚い本でしたが、小説の面白さ満載で一気読みでした。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

座右の銘に加える『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』村上春樹著『すぐ死ぬんだから』内館牧子著

2019-04-16 08:46:10 | 

今朝も天気がいいのに・・・追いついていけないわ、変。
昨夜は珍しく枕に頭を落とすや否やパッと眠れて4時までぐっすり、トイレに起きて。
その後またもや珍しく5時半まで眠った。こんなこと1年に数回、たいていは睡眠時間4時間から4時間半なのに。
身体といまさらだけれど頭が変。珍しいこと続きがいけないのかしら、ね。
ま、そんな日もあるか。

『おおきなかぶ、むずかしいアボガド』

長編小説『1Q84』刊行後、雑誌「アンアン」に連載された人気エッセイ・シリーズ52編を収録する。
『おおきなかぶ、むずかしいアボカド―村上ラヂオ2―』改題。
1エッセイに付き4ページ、そのうち1頁は大橋歩さんのエッチングイラスト。素敵です。

村上さん、軟弱だわ、でもえらそうに物言うよりいいわ。と私が上から目線でえらそう。
それにしてもこじゃれたタイトル。
「おおきなかぶ」はなんとなく見当がつくけれど、「むずかしいアボガド」はちょっと。
あっ、でもまあそういうことなのね。
絵本、大きなかぶを抜いた後はどう処理されたかって?うーーーん、知りませんそんなこと。
ご本人もま、いっかとおっしゃっていることだし。

「むずかしいアボガド」それは、アボガドの食べごろはむずかしいってこと。確かに。
でもハワイのフルーツスタンドのおばさんはアボガドの熟れ具合をほぼ完ぺきに言い当てて感動的ですって。
その二つの野菜をタイトルにしたのね。

村上さんにとっては「ちょうどいい」が人生のキーワードになっているそうな。
「このへんでちょうどいいかな」とゆるく思えるようなると、自分がおじさんかおばさんかどうかなんて
どうでもいいことになってくる。何歳だろうがそんなこと関係なく、ただの「ちょうどいい」人です。
年齢についてあれこれ感じるところのある方は、できるだけそう考えるといいと思います。ですって。

ここ数年年齢についてあれこれ考えすぎてどうにかなりそうな私には大きなプレゼント。
そうか「ちょうどいい」ね。
座右の銘、追加  『ちょうどいい』

『すぐ死ぬんだから』内館牧子さん

内館さんの作品、脚本のテレビドラマも含めて初めて読む。
いやあ、歯切れがいいのね、歯に衣着せぬとはこのことね、と思うくらい本音ビシバシ。

表紙装画が年なんだから「らくがいちばん」と言ってる方々 裏表紙が「外見が大事」と言ってるハナさん、と推察。

     

78歳の忍(おし)ハナは夫岩造と東京の麻布で営んでいた酒店を息子雪男に譲り、近所で隠居生活をしている。
年を取ることは退化であり、人間60代以上になったら実年齢に見られない努力をするべきだ、
という信条を持つハナは美しさと若さを保っており、岩造は「ハナと結婚してよかった」が口癖の穏やかな男だ。

ある日岩造が倒れたところから、思わぬ人生の変転が待ち受けていた。

そうなのです、岩造さんが亡くなったことで発覚した思わぬ事態。てんやわんや。
でも、さすが前向きのハナさん、その思わぬ事態を乗り越えて、78歳後の人生を生き生き過ごすであろうと
予感させるあたたかな結末。読後感、まことに爽やか。

その岩造さんが生前掛け軸にして、その前に座ってじっと長い時間眺めていた文言。
『平気で生きている』(正岡子規の悟りの言葉、ね)
長い間一人胸に秘めて家族に黙っていたのですものね、そうでも思わなきゃ生きていけない。
その秘密を知ったハナさん、何度も口から出た言葉。『すぐ死ぬんだから』

うーん、いい!私も付け加えよう座右の銘に。
○○でも  『平気で生きている』
『すぐ死ぬんだから』  ○○しておこう。

なかなかだ。私のそれは軽くて申し訳ないけれど、いいことにして付け加えさせてもらおう。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一気読みの2冊『東京會舘とわたし 上・下』『かがみの孤城』辻村深月

2019-03-17 09:00:14 | 

やっぱり感想は読み終わったすぐ後に書かなければ、ね。
感動は薄れるし内容は忘れる、いかん。
それでも、この2冊は辻村深月さんの作品として記憶に残っているので、たどたどしく思い出して備忘録として保存。

100年近い歴史ある建物を舞台にした小説『東京會舘とわたし(上・下)』

この本は地区センターの書棚で見ていて何回か手に取ったが、
縁遠い建物であり、タイトルからして面倒そうな内容と勝手に判断して躊躇していた。
それが、昨年12月に日生劇場に行く途中で、まだ工事中のテントが張ってある建物を見たことと、
情報源TV「ぶらぶら美術・博物館」で新装なった東京會舘を紹介していたのを観てがぜん興味を持ったわけ。

東京會舘とそこで働く人、お客様それぞれのエピソードが綴られている。
フィクションとノンフィクションがないまぜになって書かれているから、
私など、どこまでが本当の出来事かしら、なんて余計なことを邪推してしまって。
それでも物語の面白さはなんら損なわれなかった。

上巻下巻、各章ごとに個々のエピソードが綴られ、そこに登場する人はまたどの章かで登場する。
読み終わってみれば、東京會舘が主人公としてどんと存在している。

『東京會舘とわたし(上)』旧館

大正11年、丸の内に落成した国際社交場・東京會舘。
海外ヴァイオリニストのコンサート、灯火管制下の結婚式、未知のカクテルを編み出すバーテンダー……。
変わりゆく時代の中、“會舘の人々"が織り成すドラマが読者の心に灯をともす。

各章のタイトルで大雑把な内容が推察されると思うので記します。
(下巻はメモしてあったので私の言葉、上巻はwebからお借りしました)

第一章 クライスラーの演奏会 
第二章 最後のお客様 (大政翼賛会に東京會舘が接収される前日を舞台に、ベテラン従業員の心情とプロとしての働き)
第三章 灯火管制の下で(戦争が激しくなるなかでの結婚式、會舘の美容室で遠藤波津子さんが花嫁のお世話をする)
第四章 グッドモーニング、フィズ (将校たちが朝からこっそりとお酒を飲めるように、と工夫したバーテンダーの話)
第五章 しあわせな味の記憶(会館でのデザートのお菓子をお土産にできないかと願いからの完成までの困難) 

『東京會舘とわたし(下)』 新館

昭和46年、新館への建て替えを経た東京會舘。
緊張で肩を震わす舞台女優、東日本大震災の日、直木賞授賞を知らされた青年……
優しさと慈しみに満ちた物語は、ついに終章(フィナーレ)へ

第六章 金環のお祝い (亡き夫の想い出とひとりの金婚式)
第七章 星と虎の夕べ (越路吹雪さんと岩谷登紀子さんとボーイ)
第八章 あの日の一夜に寄せて (東日本大震災とクッキングスクールの生徒たちの一夜)
第九章 煉瓦の壁を背に (直木賞受賞エピソード)
第十章 また会う春まで (母娘3代の結婚式)

ちなみにこの東京會舘は芥川賞と直木賞の受賞記者会見と授賞式が行われる。
読み終わったら、あまりに素敵なので喫茶室でいいから私も訪れたくなったわ。

長くなったので『かがみの孤城』はすっ飛ばします。

学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。
輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。
そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた――
なぜこの7人が、なぜこの場所に。すべてが明らかになるとき、驚きとともに大きな感動に包まれる。
生きづらさを感じているすべての人に贈る物語。一気読み必至の著者最高傑作。

中学生が主人公の小説もファンタジー要素が入っている小説も好みではないが、本屋大賞の小説ということで。
面白いです、小説を読む楽しさが充分味わえます。
かなり分厚い本ですが、引き込まれて内容紹介の通り一気に読むことができます。
辻村さんの平易な文章も心地よく読後感がとてもさわやか。
ダントツの得点で大賞獲得したことに充分納得しました。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上岡龍太郎『”隠居のススメ”好き勝手に生きる』日がな1日、「通販」の楽しみ 

2019-03-12 08:36:34 | 

「隠居」とはコトバ辞典で調べたら、

官を辞し、世間での立場を退き、または家督を譲って世の中から遠ざかって暮らすこと。
また、一般的に、家長が生存中に、自分の自由意志によって、その権利を相続人に譲ること。
江戸時代、公家または士分の者に科した刑の一つ。

世の中のわずらわしさを避けて山野など閑静な所に引きこもって暮らすこと。隠棲。閑居。楽隠居。
表舞台から去ること。身をかくすこと。

老人。老人を呼ぶ場合、また老人の自称としても用いる。

とあったけれど、私がすぐに浮かぶ「隠居」は下の3つかしら。 

上岡龍太郎『”隠居のススメ”好き勝手に生きる』
素晴らしいタイトルじゃないの、と読み始めたが、やっぱりいかん!
どうも男性が書くこの手のテーマは読んでいて怒りたくなる、もちろん偏見。
合わない、好きじゃない、気に入らん、鼻持ちならん、と散々。
ほっぽり投げようとすると、そうだそうだうーんそう来たかと同調したくなる中味が出てきたりして。
我ながら困ってしまい、結局最後まで付き合ったわ。

その「そうだそうだ、そのとおりよ」の最たる項目が、
第四章”暇つぶし”のの極意
『日がな1日、「通販」の楽しみ』 

ほんとうは全文書き写したいところだが、まさかそれはできないからね、ま、抜き書きです、しかも切れ切れです。
意味不明かもしれませんが、そこは深く考えずに適当にご判断ください。
通販に嵌っている人はおのれの心理分析をどうぞ。
通販なんてやらないと言う人は冷やかしでどうぞ。
そんなのめんどくさいの人はすっ飛ばしてください。
いやいやあらゆる場面で、ぴったり当てはまる人の顔が浮かんでくるのです。そして含み笑いが。

長くなります。

通販で物を買うには、豊富な経験が必要だ。
やっぱり通販で買った○○はダメだ、と言い立てる輩は不見識もはなはだしい。
そんな素人考えで通販をやってはイケナイ。

そうだ。私は絶対そう思うものね。2度と買うまいと決心して通販やってないもんね。素人だ、どうだエライもんだ。

通販でモノを買い始めると、たちまち押入れがいっぱいになり、ただちに脳みそは空になる。
カタログを広げた途端、アタマは買うことだけで満たされてしまう。
何か買いたいものがあるとか、買わなければいけない必要なものがあるから、
それをカタログから探して買うのではない。
買いたいなぁ・・・何か買いたいなァ・・・何かないかなァとカタログをめくり始め、めくり続ける。
これが物を買うことの原点だ。

そうそう、あの人の姿がまたもや浮かぶ、そのとおりよ。

買うという行動は、買ったモノをどのように使うかを考えるというような不純な動機から
始まってはならない。欲しいから買うのでも、必要だから買うのでもない。
買いたいから買う。買うことのために買う。一本ピシーッと筋が通っている。
そんなもの買ってどうするの、という声が耳元で聞こえたら、通販道を極めたと言ってよい。
世間のそしりや家族の冷たい視線を受け止めながら、カタログをめくる恍惚感。

理解できるようなできないような、何ともおかしくて。
知っている知っているの、そういう人がいることを。
別に必要じゃないんじゃないの、持ってるじゃんと突っ込みたくなる輩が。
そうか、その人は通販道を邁進しているのか。

通販の楽しみは、カタログを見ながらゆったり1日を過ごすことにある。
買う前に十分すぎるほどの喜びを得ているというのに、通販はさらに凄い楽しみをもたらしてくれる。
通販で買った商品は、すぐに手に入らない。これがヨロシイ。
通販が趣味として最高位に位置するのは、待つことが行為の中に含まれているからだ。
忘れた頃にやってくる絶妙の間もまた通信販売の妙味である。

私なんか待つことが嫌でたまらないのにね。通販道ってそういうことか、じゃあ極めなくていいわ。


受け取ってしばらく、梱包された品物を膝に置き、買った時のカタログの内容を思い返す。
ひと通り思い返すことができたら、満足して押し入れの中へ片づける。
私の中の通販はとうの昔に終わっている。カタログを手にして、眺めて、考えて、注文したとき、
喜びは燃焼し尽くしている。待っている間の余韻も消えた。品物が届くのは余分のことだ。

何を迷ったか、開けてしまうこともある。
ニッコリ笑って、「そうやろねぇ、やっぱりこんなもんやろねぇ」「ちょっとちゃっちいなぁ」と苦笑する。
使ってみると、全然思っていたモノと違うこともある。
あれだけカタログを睨みつけたのだから、考えていたものとは違うとは口が裂けても言えない。
ただただ自分の鑑識眼のなさを恥じるのみだ。通販のものを使うヤツの気がしれない。

どうよ、身近なあの友の顔が浮かんでは消え浮かんでは消え、あなたのやっていることとぴったりね。
とニヤニヤするのである。
ああ、これが暇つぶしの極意。ツアーカタログ眺める暇つぶしと同じなのね。

おすすめの1冊か、はたまた高みの見物的隠居の戯言ととみなすか、難しいわ。
いややっぱり難しくないな、そうに決まっているわ。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説と映画で 『まく子』西加奈子作

2019-02-27 07:54:26 | 

若手女性作家では贔屓の西加奈子さん。

「まく子」は「サラバ」で第152回直木賞を受賞後、一作目として描き下ろした小説で、
児童小説では異例の累計55,000部の売上を記録した超人気作品だそう。

私はそうと知らずに読んだが後で児童書と分かってそういえばと納得。
西さんの本を福音館が発行とは珍しい、とちょっと不思議だったがそういうことなのね。

    文庫版

西さんの本のタイトルは本当に強烈なインパクトがある。
そして、ご本人のイラスト装画も強烈。この本を手に取って読んでみてと本が訴えかけてくる。

「まく子」とは。
まさか主人公の名前ではないとは思いつつ、西さんのことだからそれもありかな、なんて。
「撒く」子
石でも水でも枯葉でも紙の花でもなんでも手に取って撒く。
撒けば必ず落ちる、「落ちる」のが面白い楽しいそれだからいいと言って撒く。
だから、「まく子」。

登場人物、皆が素敵。あたたかい。
「大人になりたくない」といった思春期の複雑な感情を持つ、慧(サトシ)少年の感性がみずみずしい、
君は素敵な大人になるだろうな、と思わせてくれる。

それにしても、西さんの作品は突飛だ、まさか最後がああなるとは。
うーん、ふさわしいようなそうでもないような。

少女の秘密が、ぼくの世界を塗り替えた。信じること、与えること、受け入れること、そして変わっていくこと…。
大人になりたくない僕が 恋をした不思議な少女 彼女がまく奇跡に 世界は美しく輝きだす。
忘れていた“大切なもの”を思い出し涙するー 今を生きる大人たちへ贈る、再生と感動の物語。

私がごちゃごちゃ言っているよりも、こちらを読んでいただいた方が早いです。はい。 

「まく子」公式ホームページはこちら

 

映画『まく子』予告【3/15(金)テアトル新宿ほか全国公開】
300館越えの映画があるというのに、上映館は今のところ全国でわずか60館強。これでも増えたとか。
ここ横浜でも、ブルグ横浜13、1館のみの上映。

鶴岡慧子監督、 この摩訶不思議な小説のどこをどうとって映画化しようと思われたのかちょこっと疑問だったが、
ある方から勧められて原作を読み、トライしたくなったとおっしゃっている。
自分もサトシの目線でコズエに出逢い、とても面白く多面性のある魅力的な少女であることに心惹かれたそうな。
脚本書くのに2年間を要したそうだが、さもありなん。

主人公のどうしようのない父親役が草彅剛さん。
キャスティングに名前が挙がって当たって砕けろでオファーしたそうな。まさかのokで企画は動きだしたと。 

結局、ツヨシクンに行きつくのか。
これが役者草彅剛のファンの心得。封切りされたら観に行くのである、もう今から決めている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本の顔 装画 「この世の春 上下」「桜風堂ものがたり」「ビブリア古書堂の事件手帖7」

2019-02-20 08:51:10 | 

1月に読んだ4冊。
偶然にも表紙装画がイラスト仕様。読み終わって並べてみて気がついた。
ほんとに表紙を飾る装画って大事ね。装丁もか。
手に取るか取らないかを左右するもの。

私が書店員で平積みコーナーを任されていたら、宮部さんのこの本をどのように並べるかしら。
好みじゃない装画も「この世の春」というタイトルも、
お気に入りの新潮社装幀室が装丁を手がけているのになんだかなあ、とぶつぶつ。

装画:こより
装幀:新潮社装幀室
おまけに人物相関図もイラスト付き ごめん、じゃま。

贔屓の宮部さんだから1週間くらいは目立つところに並べて積んでおくけれど、
その後は横に移動させてしまうかもしれないわ。

低空飛行の期間に読んだからどうも辛口になってしまっていることは自覚しているの、はい。
あくまでも私の独断と偏見で。(ちなみに宮部さんご自身はとても気に入っている)

 

それは亡者たちの声? それとも心の扉が軋む音? 
正体不明の悪意が怪しい囁きと化して、かけがえのない人々を蝕み始めていた。
目鼻を持たぬ仮面に怯え続ける青年は、恐怖の果てにひとりの少年をつくった。
悪が幾重にも憑依した一族の救世主に、この少年はなりうるのか――。
21世紀最強のサイコ&ミステリー、ここに降臨!

決して面白くないわけじゃない。
いやそれどころか、宮部さんの紡ぐ物語にのせられて気持ちよく読み進んでいくのよ。
それなのに読み終わった後、何となく物足りなさを感じるわけ。

前菜からデザートまでおいしいコース料理を食べて、満腹なお腹さすってああうまかったとなるのに。
それなのに。あれ?どの料理が美味しかったんだっけ?という曖昧な感じになる。
ちょっといまいちな皿もあったけれど、あのスープだけは美味しかったわね、
といった強く印象に残るものがないの、ガツンと響く何かが足りないの。贅沢。

これも宮部さんに期待し、宮部さんの時代小説でしみじみしたかった私の勝手な
思いが強すぎただけなのかもしれないわね、きっと。

 

  装画 げみ 装丁 岡本歌織

この装画イラストはとても好き、装丁も好み。
ピンクの温かい雰囲気がこの本の何もかもにぴったりで。
人々の善意に満ち溢れたお話で、私がもっともっと若かったら、深く感動しそうだ。
20代の若者にピッタリな1冊。  

万引き事件がきっかけで、長年勤めた書店を辞めることになった青年。
しかしある町で訪れた書店で、彼に思いがけない出会いが…。
田舎町の書店の心温まる奇跡。

 イラスト 越島 はぐ 

ビブリア古書堂の事件手帖7~栞子さんと果てない舞台~

栞子さんイラストとビブリア古書堂の事件手帖はもうおなじみで、読者ときっかり定着しているので
出る幕がない。ま、あまり好みじゃないと言うだけでして。
途中、5,6が抜けたけれど古書にまつわるミステリー、楽しませてもらいました。ほんと。

ビブリア古書堂に迫る影。太宰治自家用の『晩年』をめぐり、取り引きに訪れた老獪な道具商の男。
彼はある一冊の古書を残していく―。
奇妙な縁に導かれ、対峙することになった劇作家ウィリアム・シェイクスピアの古書と謎多き仕掛け。
青年店員と美しき女店主は、彼女の祖父によって張り巡らされていた巧妙な罠へと嵌っていくのだった…。
人から人へと受け継がれる古書と、脈々と続く家族の縁。
その物語に幕引きのときがおとずれる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いっしょにに古書の知識を 『ビブリア古書堂の事件手帖』 三上延著

2019-01-21 09:22:56 | 

 「ツバキ文具店」の感想を書いたときだったと思う。
北鎌倉を舞台にした「ビブリア古書堂の事件手帖」はいかが、と勧められて。
すぐに図書館の書棚を思い浮かべたのよ、そうだわ確かカタカナ名前の本がずらっと並んでいた。大丈夫。
はい、読んでみます、なんて返事したのはいいけれど、よくよく見ればそれは「神様のカルテ」だったのよね。
カタカナに弱い私には、よくあること、恥ずかしい。
それから気を付けて探しては見るもののないの。
それが昨年暮れ。
地区センター新刊本紹介のコーナーに最新刊が置いてあって。
ああ最初から文庫本だったのか、とようやく気付いたわけ。ハードカバーだとばかり思っていたのよ。

最初に読んだのがシリーズ最新刊『ビブリア古書堂の事件手帖~扉子と不思議な客人たち』

うーん、古い本にまつわる話をまだ幼い子供に聞かせて分かる内容か、とちと疑問持って脱落しそうになったが。
ままま、第1巻を読んでから止めても遅くないわと思い直して読み始めたわけ。

    はい、面白かったです、とても。

三上さん、
主人公の女店主篠川栞子さんの胸の豊かさや長い黒髪のことはそんなに描写しなくてもいいんじゃない、と
僻んだけれど。
ひょんなことから店員になった五浦大輔くんといっしょに、栞子さんの古書に関する知識披露の場にはいたかったわ。

手帖1、2と読み進めて、家を出て行った栞子さんの母智恵子さんの影がちらつき始めた3からがぜん面白くなって。
物語に厚みが増してきたように思えたのよ。智恵子さんそのものが、古書にまつわる大きな秘密を抱えていたからね。
手帖4、江戸川乱歩作品を取り巻く人間関係の謎解きはまさにどきどきものだった。

いやあ面白い。ライトミステリーとはよく言ったものだ、殺人事件なんぞなんにもない。
引っくり返って時間を忘れて楽しめる。1話ごとに切りよいところで本を置ける、続きはまた後で、という具合。
それにしても、三上さん、古書店、古本とそれを取り巻く人々の話なんて着眼点が凄いわ。
私は物語で取り扱っている古書はどれも読んでいない、自慢にならないか。

事件手帖5を借りようとしたら5、6は貸し出し中。やむなく7を借りてきた。
まだ手を付けていない。
栞子さんと五浦大輔くんははたして事件手帖7の中で結婚にこぎ着けているのかしら、興味津々。

鎌倉の片隅でひっそりと営業をしている古本屋 「ビブリア古書堂」。
そこの店主は古本屋のイメージに合わない、若くきれいな女性だ。だが、初対面の人間とは口もきけない人見知り。
接客業を営む者として心配になる女性だった。
だが、古書の知識は並大抵ではない。人に対してと真逆に、本には人一倍の情熱を燃やす彼女のもとには、
いわくつきの古書が持ち込まれることも。
彼女は古書にまつわる謎と秘密を、まるで見てきたかのように解き明かしていく。
これは栞子と奇妙な客人が織りなす、“古書と秘密”の物語である。

ビブリア古書堂の舞台地図

こちら

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身につまされる 『あと千回の晩飯』 山田風太郎著

2019-01-09 08:52:37 | 

いやあ、年の初めにふさわしい1冊を読んだのかもしれない。
『あと千回の晩飯』1997年  

山田風太郎さん、私は勝手に昭和の時代に活躍し昭和の時代に亡くなったとばかり思っていたのよ。
それくらい古い作家さんだと思い込んでいた。
おまけに書かれる作品は、忍法帖シリーズ エログロナンセンスものだの奇想小説だのと、
全く興味が湧かない作品ばかりだから、いくら評価されようが関心なんて1ミリもなかったの。

それが年末、地区センターの書棚から「あと千回の晩飯」の文字が飛び出して見えたわけ。
こういうことってたまにあるのよね。「どうぞ私を連れてってください」というやつ。
そうか、そういうことならと躊躇なく持ち帰った。

もう今の私にぴったり。年齢もぴったり追いついて。いい時期に手に取ったものだと思う。
もっと若くても年をとっても、そういうものかな、で終わっていたような気がする。今なら
「山田さんあなたのように酸いも甘いも分かってらっしゃる方でもそんなふうに思われるんだ」
としみじみ共感し、ほんとうにそうよねとそういうことよね、と身につまされる。

老いの繰り言といえば身も蓋もないが、どこか俯瞰的にご自分を見ていて、かなり深刻な事態なのに
まるで他人事のようで飄々としている。つい笑いたくなってしまう描写がなんとも面白い。

エッセイ1回目の冒頭の文章

いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う。
といって、別にいまこれといった致命的な病気の宣告を受けたわけではない。
72歳になる私が、漠然とそう感じているだけである。病徴というより老徴というべきか。

もうこの文章を読んだだけで、我が身に置き換えてなんだか胸が詰まる。

とくに興味を惹いた項の文章抜き書き(途中省略部分多々)

60歳を少し越えたころ、「私の死ぬ話」と題して、当時私の気にかかっていた身体の故障、
あるいは私の将来死にそうな病気について随筆を書いたことがある。
そのときの私のならべた故障ないし病気は、脂漏性湿疹、脳溢血、歯、肺がん、心筋梗塞、胃潰瘍、
肝硬変、ぎっくり腰、尿路結石、便秘、足のイボ。10年後白内障、書字困難症、前立腺肥大が加わる。

他の病気は分かる、誰でも年をとれば罹りそうな病気だ。そこに「脂漏性湿疹」が入っているのがおかしくて。
私も今のところおさまっているけれど、一時苦しめられた病気なの。
山田さんも罹っていたのかしら、痒みで頭掻きむしっていたのかしら。親近感がわくわ。

蓼科の山小屋。2階が書斎兼寝室、トイレがない。
階下に降りるたび階段がギーコギーコなるから、客を起こすと思い数年前から夜シビンを使うようになった。
朝までにちょうど一杯になる。
満杯になったものを眺めると、黄金色のきらめきといい、泡のたちかたといい、ビールそっくりだ。
感心なことに把手までついている。それを握って高くかかげると思わず「カンパーイ!」と叫びたくなる。

もう笑ったのなんの。そこで私も思い出した。
父が入院していたとき同室になった男性が、そちらに管を挿入して尿の袋をぶら下げていた。
そして言ったことがだいたいこういう意味のこと。
「おれの家の便所が遠いんだっちゃ。夜便所へ行きとうなっても行くのが大変だけど、これぶら下げてれば
行かんでもいい。そのまましてもいいから便利だ」究極のポジティブ思考に笑うやら感心するやら。忘れられないわ。

ところがそんな呑気なことを言ってられたのもそこまで。
自分の書いた文字さえ読みかねるありさまに辟易して、いよいよ白内障の手術を受けるために眼科へ。
眼科医が憮然として投げつけた言葉。
「遠くない将来、君は死ぬか失明するかだ・・・・ここまで来ては回復しない」
なんと白内障とおまけに末期の糖尿病だと診断されてしまう。さらにパーキンソン病まで加わってしまう。

山田さん、人類65歳引退説の持論。
その持論に照らしても、七十歳を過ぎてまだ無病息災などという事態は許されることではない、とまできっぱり。

それでも七十を越えると、意外に思ったことはある。
それは老境に至って、案外寂寥とか焦燥を感じないことだ。
ってそうなのかしら。焦燥は感じないけれど、凡人の私は寂寥は常に感じているわ。
入院生活は「アッケラカン」ですって。アッケラカン、か。

エッセイの書きはじめは平成6年秋。
余命はまあ、あと千日くらいかなと見当つけて、その間の献立表を作ってみようかと発心した。

食事は関心を持っているのに、前夜に何を食ったか、あくる日忘却しているのである。
思い出そうと首をひねっても、なんとしても思い出せない。

あと千回くらいしか晩飯が食えないなら、その千回を事前にみずから予定したものにしたい
と思い立ったにすぎない。

それで奥様と昭和63年の記録を基に献立を立てはじめる。
はじめたはいいが、そんなものは食いたくないとか食えんとかで挫折してしまうのよ。
「そもそも食い物を予定表によって食う、などということがまちがってるのかも知れん。
こんなことはよそう」
そうですよ、それは無意味です、とそこは恐れ多い大先輩の山田さんにでもひとこと言いたくなるわ。

後半のエッセイになると可笑しみだけではない凄みを感じてくる。

糖尿病パーキンソン病の症状はあるが、日常はアッケラカンと暮らしているが、これはひとえに
疼痛や苦痛がないということだけで、七百回の晩飯もあやしいという事態に刻々と迫りつつあるのは確かだ。

尾形乾山の辞世に心惹かれるようになった。私には風の中に尾形乾山の歌声が聞こえる。
「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」
しかし、そんな歌声をききながらあと千回の晩飯を食って終わるのは、あまりに寂しい気がする。

いろいろと死に方を考えてみたが、どうもうまくいきそうもない。
私としては滑稽な死に方が望ましいのだが、そうは問屋がおろしそうもない。
あるいは死ぬこと自体、人間最大の滑稽事かもしれない。

山田風太郎さん 1922年(大正11年)~2001年(平成13年)没 79歳

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする