空海は、平安時代初期の仏教僧で真言宗の開祖といわれています。空海は、弘法大師の名で親しまれ、774年香川県に生れました。空海は、幼名を真魚(まお)といい、賢い子に育ち、幼くして経を誦し、粘土で仏像をつくり、自分でつくったお堂にこの仏像を祀って礼拝したといいます。こうして幼くして仏教に親しみ、18歳で大学に入り、儒教、仏教、道教を学びます。しかし、空海は一年ほどで大学生活をやめ、「求聞持法」の修行を始めます。苦行を積んで、室戸岬の洞窟でついに「求聞持法」の満願を見たといいます。室戸岬で空海の口の中に明星が飛び込んできたというのです。このとき空海は悟りを開いたと言われています。
こうして空海は、奇跡を顕す能力を手に入れ、たくさんの伝説を残しました。その中の一つを取り上げます。
四国伊予の国に非常に傲慢でとんでもない衛門三郎(えもんさぶろう)という漁師がいました。
地元四国に戻った空海が、托鉢の旅を続けている時に、この衛門三郎の家の門前で仏への喜捨を求めます。ところがあまりにみすぼらしい姿の空海に、衛門三郎はそれを断ってしまいました。空海はなんども衛門三郎の家を訪れますが、その度に衛門三郎は空海を追い返します。それが八度目になったとき、衛門三郎は空海の持っていた鉢を壊してしまい、茶碗は八つの破片に割れてしまいました。
すると空海が去った後、衛門三郎の八人いた息子たちがひとりずつ、次々と死んでしまった。衛門三郎は、息子たちの死は托鉢の僧に無礼なことをした罰に違いないと気づき、田畑を売り払い、妻とも離婚して、四国を一周しているという空海を追いかけて巡礼の旅に出ます。
衛門三郎は二十回巡礼の旅に出ますがなかなか空海に会えず、二十一回目の巡礼は逆周りに回ったところ、死ぬ直前になってようやく空海と巡り会えることができ、空海が衛門三郎の死を看取ることになります。
死の直前、空海に「最後の望みはなにかあるか」と問われた衛門三郎は、「領主の河野家に生まれ変わり、善政をしきたい」と答えました。
それを聞いた空海は石を拾い、その石に「再来」と書いて衛門三郎に握らせました。
すると翌年、衛門三郎の地元の河野家に、長男が生れます。しかし、その子の左手は生まれたときに堅く握られたままなかなか開かない。そこでお寺に行って祈ってもらうとその手が開き、掌中に石が握り締められていた。その石を調べてみると、衛門三郎の名が刻まれていたという話です。
これが四国八十八カ所巡礼の始まりの伝説なのです。
以上
こうして空海は、奇跡を顕す能力を手に入れ、たくさんの伝説を残しました。その中の一つを取り上げます。
四国伊予の国に非常に傲慢でとんでもない衛門三郎(えもんさぶろう)という漁師がいました。
地元四国に戻った空海が、托鉢の旅を続けている時に、この衛門三郎の家の門前で仏への喜捨を求めます。ところがあまりにみすぼらしい姿の空海に、衛門三郎はそれを断ってしまいました。空海はなんども衛門三郎の家を訪れますが、その度に衛門三郎は空海を追い返します。それが八度目になったとき、衛門三郎は空海の持っていた鉢を壊してしまい、茶碗は八つの破片に割れてしまいました。
すると空海が去った後、衛門三郎の八人いた息子たちがひとりずつ、次々と死んでしまった。衛門三郎は、息子たちの死は托鉢の僧に無礼なことをした罰に違いないと気づき、田畑を売り払い、妻とも離婚して、四国を一周しているという空海を追いかけて巡礼の旅に出ます。
衛門三郎は二十回巡礼の旅に出ますがなかなか空海に会えず、二十一回目の巡礼は逆周りに回ったところ、死ぬ直前になってようやく空海と巡り会えることができ、空海が衛門三郎の死を看取ることになります。
死の直前、空海に「最後の望みはなにかあるか」と問われた衛門三郎は、「領主の河野家に生まれ変わり、善政をしきたい」と答えました。
それを聞いた空海は石を拾い、その石に「再来」と書いて衛門三郎に握らせました。
すると翌年、衛門三郎の地元の河野家に、長男が生れます。しかし、その子の左手は生まれたときに堅く握られたままなかなか開かない。そこでお寺に行って祈ってもらうとその手が開き、掌中に石が握り締められていた。その石を調べてみると、衛門三郎の名が刻まれていたという話です。
これが四国八十八カ所巡礼の始まりの伝説なのです。
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