宇宙人の独り言

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『ゴールデン・ブック』と日本人

2011年05月11日 | 日記
 『ゴールデン・ブック』という言葉は聞いたことがあるだろうか。『黄金の本』とも言われている。これには、シオニズム運動が興ってから、ユダヤ民族に貢献した人々を顕彰して、その名前が記されている。ユダヤ人に救いの手を差しのべた外国人の名前も載っている。
 『ゴールデン・ブック』は何処にあるかというと、エルサレムの中心部に楕円形をした三階建ての建物の中に展示されている。因みに、外壁にエルサレムに固有な薄茶色をした石が用いられているのは、エルサレムではすべての建物は、このエルサレムに特有な石を用いなければならないからだ。世界的に有名な゛嘆きの壁゛も、この石を積んで造られている。

 『ゴールデン・ブック』のなかに、二人の日本人の名が記されている。
 二人は、日本帝国陸軍軍人だ。樋口季一郎中将と、安江仙弘大佐である。
 この本に功績が刻まれるためには、複数のユダヤ人の推薦がいる。
 ユダヤ人にとって、『ゴールデン・ブック』に名が刻まれるほどの大きな名誉はなかった。
 まして、外国人である日本人が載るのはなお名誉なことであり、ユダヤ人のあいだではこの二人の日本人はよく知られているということである。

 では、どうして樋口と安江の二人の日本軍人が、『ゴールデン・ブック』に名を刻まれることになったのだろうか。以下に,ラビ・M・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』(徳間書店刊)の38~48ページを引用する。

【1938(昭和13)年2月のことだった。ナチス・ドイツの迫害から逃れた、大量のユダヤ人難民の第一陣が、ヨーロッパから広大なシベリアの原野を、シベリア鉄道に揺られて、満州国の北東の端の満州里駅のすぐソ連側にあるオトポールに到着した。
 ドイツから命からがら必死の思いで、ポーランドを経由して脱出してきたユダヤ人たちである。
 (中略)
 ユダヤ人難民がオトポールに、連日つぎつぎと到着して、ほどなくその数は2万人近くにまで脹れあがった。難民たちはオトポールの荒涼たる原野にテントをはったり、急造のバラックをこしらえて、耐乏生活をはじめた。なかに、多くの幼児もいた。
 難民のアジア的な哀調をおびた祈祷の声や、合唱の声が、凍てつく原野に流れた。
 三月に入ったといっても、シベリアでは気温が零下数十度にまで落ちる。ソ連がユダヤ人難民の受け入れを拒んだので、難民たちは満州国に入国することを、強く望んだ。
 そのために、満州にあったユダヤ人居留民組織であった、極東ハルビン・ユダヤ人協会の幹部たちが、ハルビンにあった関東軍の特務機関の機関長であった樋口季一郎少将(当時)と会って、オトポールのユダヤ難民を救うように、懇請した。
(中略)
 当時、ハルビン特務機関には将校や、下士官を始め一千人近い機関員がいた。満州は日本の国防の第一線だった。
(中略)
 それに日本人の大多数が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を、快く思っていなかった。満鉄調査部が『猶太問題時事報』を定期的に発行して、関係者に配布していたが、記事は一貫して、ユダヤ人に同情的なものだった。一例をあげれば、「独逸国民六千五百万ノ一割ニモ満タヌ在独逸猶太人六十五万人ガ、優秀民族トシテ内外共ニ許ス独逸民族ヲ、圧倒デキル筈ガナイデハナイカ」という、鋭い批判が行われている。
 このように書いた満鉄の社員は、ナチスを見事に嘲っていた。ドイツにおけるユダヤ人の人口は、百分の一にすぎなかった。
 樋口は1937(昭和12)年8月に、ハルビン特務機関長に任命されると、満州に住むユダヤ人を助けて、翌年1月にハルビンの商工クラブで第一回極東ユダヤ人大会を開かせた。
 この大会には、満州だけではなく、香港や天津、上海などの中国大陸の各地や、日本からも、ユダヤ人の代表が参集した。安江大佐は樋口と陸軍士官学校の同期生だったが、陸軍きってのユダや問題専門家だった。安江は樋口を機関長とする特務機関にあって、樋口の同志として、ユダヤ人を援けた。
 樋口はこの極東ユダヤ人大会に来賓として出席して祝辞を述べ、「ユダヤ民族の祖国を建設しようとする熱意を、よく理解することができる」といって、盛んな拍手を浴びた。・・・
 満州国を事実上、支配していた関東軍は、ユダヤ人難民の入境を拒むこともできた。しかし、樋口はオトポールのユダヤ人難民を救う、決断を行った。
 そして、樋口は軍人として当然のことだったが、新京(現在の長春)に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に、ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた。日本軍ではこのような案件は、軍司令部ではなく、参謀長が決済した。
 樋口は東條の同意を得て、満州国外交部(外務省)と折衝したうえで、ユダヤ人難民を入境させる措置をとった。
 この結果、満鉄――満州鉄道――が何本もの救援列車を、満州里駅まで派遣して、国境を歩いて渡った難民を収容した。】

 ラビ・M・トケイヤーは、さらに次のように書いている。
【・・・ドイツ外務省が日本政府に対して、大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことに対して、強硬な抗議を行った。この抗議は、東京から新京の関東軍司令部へ、すぐに伝えられた。すると、東條参謀長は難民を受け入れたのは、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として、一蹴した。
 この時、東條参謀長が樋口に許可を与えなかったとすれば、ユダヤ人難民が救われることはなかった。】

 極東軍事裁判でA級戦犯とされた東條英機は、ユダヤ人難民を救った知られざる人道主義者だった。

以上

ユダヤ製国家日本―日本・ユダヤ封印の近現代史
Rabbi Marvin Tokayer,加瀬 英明
徳間書店
コメント (1)
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