ああ、無情
昨日の俳句、二句作って二句とも先生の評価をいただいた。
一句は「北勢中央公園の皇太子のご成婚記念の石碑」と「桜」を一物仕立てで取り合わせた。
目にしたことだけを書いただけであって感慨にふけった感情など何も書いていない。
ただ「花がふぶいている」とだけ書いた。花とは「桜」を示す季語。
もう一句は車に乗っていて目にした景。
遠くに見える山には山桜が満開。
派手さはないが、ポッとそこに明かりを灯したように明るく成ると感じた。
「山桜」は咲いて初めて、その存在が明らかになる花だと思った。
それを学識あるように書いてしまっては理屈っぽくなる。
俳句は、理屈っぽいのは最もNG、まして私なんかは特に嫌いな表現。
仮に上手く纏めたとしても川柳すれすれの際どいものとなる。
なので、「羊の群れのような」と「比喩」を用いた。
比喩はその点、成功すれば作者の思いを代弁してくれる手法なので有難い。
また、こうしてブログを書いていれば自ずと十七文字が出てくるときもある。
但し、そのどちらも目に見えた益を生み出しているものではない。
特に、父が存命中なら嘆くかも知れないことと。
それでも「人はパンのみによって生きているのではない」のだということをいつも感じている。
さて、北勢中央公園で一杯写真を撮って満足しての帰りにあるところに寄ってみた。
その前に、ここ一年前くらいから私はヘアーカットを自分でしてきたことを書いておこう。
それは20年以上のお付き合いのある私の専属の美容師の方が
お店を突然クローズされていたことに始まったことだった。
今更美容室を変えるにも勇気がいること。
だって、黙って座るだけでいつも好みにカットしてくださるし
「やっぱり切らなかった方が良かった」なんて一度も経験したことのないくらい
相性がとっても良い美容師さん。
私はいつもそのカットの仕方を観て観察してきたのだった。
留守番電話の声はいつも年配の女性の声だった。
それがあるとき、それもなくなって、ただただコールしているだけになった。
以前に、気になって美容室の前を通りかかったら2階には沢山の洗濯ものが。
ちょっと安心したけど、一体何が・・・。
で、もう一度寄ってみたのだった。
店舗兼自宅には2台の車が停めてあったのにそれも見当たらない。
1台は奥様のもの。
と言っても、亡き奥様のものだった。
それらのいきさつは20年以上のお付き合いともなれば自ずと話の中に出てくることであった。
お二人の馴れ初めからどこにハネムーンにいらしたか
子供さんがいつ生まれたのか、現在の場所に引っ越したいきさつ、
その他諸々の歴史を観てきた。
私の歴史も然りで、話の途中でとめどなく涙が出てきた時もそっとティッシュを差し出して
くださったこともある。
で、帰りに自ずとそこに足が向いたのだった。
やはり営業をしている気配は全くないのだった。
近くの畑で鍬をふるっている方がみえたので車を近づけると聞いてみた。
・・・。
帰りには涙で道が見えなくなって農道に車を停めた。
・・・
続きはまたこの次にします・・・。
今からお仕事に。
さ、また涙をシャワーで洗いながすとしましょう。