9日、立命館大阪オフィス主催の「木津川 計/生活文化講座」第2回「<道楽>はなぜ貶められたのか-<道楽>が人生に根付いてこそ-」を受講しました。
「しゃかりきに働く」「足を洗う」「出世」「冗談」などは仏教語が日常化した。「増長」「伝法」「夜叉」「人」などは仏教語が逆な意味に使われるようになった。「道楽」は仏教語で、意味は「仏道修行によって得たさとりのたのしみ。法悦の境界」である。しかし、現在では「酒色・博打などの遊興にふけること。放蕩。遊蕩」の意味で使われることが多い。
なぜ意味の反転が起こったのか? それは、政治の指導原理が仏教から儒教(学)へ転換したからである。仏教は慈悲の心であるが、儒教的理念は身分制度をつくりあげた。士農工商、上士下士、身分制秩序、主従の道、女性差別などである。
明治時代に「脱亜入欧」を目指し、立身出世主義を鼓吹し、「道楽」を悪徳視した。福沢諭吉も「才力さえあれば、立身出世勝手次第」と述べている。あおげば尊し歌詞の二番に「身をたて、名をあげ、やよ はげめよ」とある。故郷の歌詩の三番は「故郷へ錦を飾る」プレッシャーとなり、村の鍛冶屋の歌詞の一番は勤労の美徳を賞賛している。
今こそ<道楽>復権を! 人間が「道楽」に生きる道には二通りがある。「道を楽しむ」生き方と「道を楽にする」生き方の二つである。勤労の美徳に慣らされてきた私たちに必要である。自己目的の「道を楽しむ」人たちが、他者目的の「道を楽にする」生き方にもかかわり、献身するという構図、もちろん逆の、「道を楽にする」生き方の人物が「道を楽しむ」名人であることがはるかに望ましい。
詳細は[こちら]をご覧下さい。
「しゃかりきに働く」「足を洗う」「出世」「冗談」などは仏教語が日常化した。「増長」「伝法」「夜叉」「人」などは仏教語が逆な意味に使われるようになった。「道楽」は仏教語で、意味は「仏道修行によって得たさとりのたのしみ。法悦の境界」である。しかし、現在では「酒色・博打などの遊興にふけること。放蕩。遊蕩」の意味で使われることが多い。
なぜ意味の反転が起こったのか? それは、政治の指導原理が仏教から儒教(学)へ転換したからである。仏教は慈悲の心であるが、儒教的理念は身分制度をつくりあげた。士農工商、上士下士、身分制秩序、主従の道、女性差別などである。
明治時代に「脱亜入欧」を目指し、立身出世主義を鼓吹し、「道楽」を悪徳視した。福沢諭吉も「才力さえあれば、立身出世勝手次第」と述べている。あおげば尊し歌詞の二番に「身をたて、名をあげ、やよ はげめよ」とある。故郷の歌詩の三番は「故郷へ錦を飾る」プレッシャーとなり、村の鍛冶屋の歌詞の一番は勤労の美徳を賞賛している。
今こそ<道楽>復権を! 人間が「道楽」に生きる道には二通りがある。「道を楽しむ」生き方と「道を楽にする」生き方の二つである。勤労の美徳に慣らされてきた私たちに必要である。自己目的の「道を楽しむ」人たちが、他者目的の「道を楽にする」生き方にもかかわり、献身するという構図、もちろん逆の、「道を楽にする」生き方の人物が「道を楽しむ」名人であることがはるかに望ましい。
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