みなさま、楽しい連休を過し身心ともリフレッシュ、日常に戻られたことと思いますが、そんな気分に水を差す、堅苦しい話のつづきをしたいとおもいます。
釈尊が解脱した後、衆生の苦しみを救うために、お話されたことを弟子が書き留めたのが、いわゆる経典です。鉛筆も紙もない時代のことですので、幾多のお経ができたのもいたしかたないことです。
インドからシナ大陸にきた達磨はどんな経典を所依としていのかといいますと、いささか複雑ですが、整理しておきましょう。達磨から二祖を慧可、三祖とされる僧璨までは、「楞伽経(りょうかきょう)」を所依の経典とし、諸方を托鉢して遊行するインド伝来の修行方式だった。
しかし四祖道信(580-651)は五百余の学道者とともに雙峰山に住い、五祖の弘忍は千余の学道者とともに東憑茂山に住して修行する本山へと変わる。この二代は「金剛般若経」を所依の経典としていた。
弘忍の弟子の神秀は「華厳経」を所依とし、北部を活動の中心とした「北宗禅」で、一方、弘忍のもう一人のでし慧能は「涅槃経」を所依とし、南部で活躍したので「南宗禅」と呼ばれた。1)
禅宗は、「不立文字、教外別伝」「直指人心、見性成仏」で、経典に所依しないから邪教などというのは間違いで、経典が教えるところは当然のこと、その先を自ら考え生きよというのが達磨の教えと思われる。
次は具体的に、金剛般若経のエッセンスについてのべ、大乗教の核心へとすすむことにする。
参照
1)中国禅僧列伝、田中博美著、淡交社