
金曜日は第23階聴き合い会でした。

プログラムをコピーして、ロビーで渡邊さんが持ってきてくれたミャクミャクドーナツを2人で食べていると、ギターの桶矢さんが来たので一緒に食べて、音楽室へ。

脇田陽子さんが来てくれました。

温かく素朴な音色でした。
古楽器ビウエラの斎藤さんはスビナチーノのリチェルカーレなどなど、

ギターの桶矢さんは「からたちの花」など日本の歌。
チェロの斉藤さんとピアノのKさんでマレのラ・フォリア。

ギターの河塚さんはバッハ、レゴンディ、ソル、武満徹。

から招きがあり、家族と一部の音楽家を引き連れドイツ東部の都市ドレスデンへ出向することが寺院から認められました。
水曜日に韓国から帰って来て、木曜日はさすがに疲れてぐだ〜っとしていました。
『プログラムを作らなくっちゃ。』と思ったものの放置。
ハープ6日間触れなかったから、少し練習して、フルートも少し練習して、夜になってようやく重い腰を上げました。
金曜日は午前中ギターの渡邊信行さんに牧野のうちに来てもらって合わせ練習。
仕事を休んで聴き合い会に参加してくれました。
レニャーニの「大二重奏協奏曲」を練習。
ギターの名手が作っただけに、ギターがなかなかに難しいです。
この前時間制限で演奏できなかった第二楽章も演奏するので打合せが必要てす。
5月10日20:00〜梅田のクラベリトで演奏するので、前哨戦も兼ねて聴き合い会で披露です。
練習も終わって牧野生涯学習センターに移動。

プログラムをコピーして、ロビーで渡邊さんが持ってきてくれたミャクミャクドーナツを2人で食べていると、ギターの桶矢さんが来たので一緒に食べて、音楽室へ。
今日はインディアンフルートの

脇田陽子さんが来てくれました。

温かく素朴な音色でした。

古楽器ビウエラの斎藤さんはスビナチーノのリチェルカーレなどなど、

ギターの桶矢さんは「からたちの花」など日本の歌。
奥田さんはテレマンのフルート二重奏。
本庄さん、早井さんのギターデュオでモリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」
クラリネットの小林由貴さんで、シュターミッツのクラリネット協奏曲、
金沢百合子さんはシチリアーナなど。
クラリネットの小林由貴さんで、シュターミッツのクラリネット協奏曲、
金沢百合子さんはシチリアーナなど。
ピアノの坂田さん

チェロの斉藤さんとピアノのKさんでマレのラ・フォリア。
フルートの角谷さん、チェロの斉藤さん、ピアノのKさんとロッティのトリオソナタも!

ギターの河塚さんはバッハ、レゴンディ、ソル、武満徹。
渡邊さんと久米のレニャーニももちろん演奏しました。
韓国のお菓子をみんなと分けて、今日も楽しい聴き合い会でした。
アントーニオ・ロッティ(Antonio Lotti, 1667- 1740年)ヴェネツィア生没
は、イタリア・ヴェネツィアにあるサン・マルコ寺院を中心に活動しました。バロック音楽の作曲家、オルガニスト。晩年は同寺院の楽長を務めました。
従来、アカペラの宗教合唱曲 「十字架に付けられ給いて」、歌曲 「美しい唇よ、お前は言ったのだ」 など少数の作品が知られていましたが、最近になってオペラ「テオファーネ」 の復活上演が行われ、また 「叡智のミサ曲」(ミサ・サピエンティアエ) や演奏に約50分を要する大作 「鎮魂ミサ曲」(レクイエム) など各種の録音が登場し、再評価されています。
傑出した教育者でもありました。ロッティ夫人は著名なソプラノ歌手のサンタ・ステッラ・スカラベッリ(1686年ごろ-1759年)。
ヴェネツィアの音楽家の家庭に生まれます。
父親のマッテーオ・ロッティは1665年から1679年までドイツ北部ハノーファー選帝侯の宮廷楽長を務めた人物で、母親のマリナ・ガスパリーニは漁師の娘でした。
その後ロッティは幼時をハノーファーで過ごし、10代になってヴェネツィアに戻りました。
5歳下の弟フランチェスコと6歳下の妹マリア・メルシーナがいました。
1683年、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院で、楽長のジョヴァンニ・レグレンツィ、テノール歌手のロドヴィコ・フーガに師事しました。
1687年11月25日、同寺院付属のサンタ・チェチーリア音楽家協会が設立された時、ドゥカーレ礼拝堂で臨時歌手として歌ったのがロッティの最初の音楽活動でした。
その後、次第にサン・マルコ寺院での地位を確立して行きます。
1689年には正式のカウンターテナーとして雇われ、100ドゥカート を支給されました。
1690年8月6日、第二オルガニストの助手となり、30ドゥカートの昇給。1692年5月31日に満場一致で第二オルガニストに選ばれました。
しかし依然として彼の俸給は安く、サン・マルコ寺院のためにミサ曲を作曲したり、モテット、合唱曲、オラトリオを作曲したりして生活の足しにしなければなりませんでした。
1697年から1707年までは精霊学院オスペダーレ(Scuola dello Spirito Santo)の楽長を併任し、病院・孤児院などを兼ねた施設(オスペダーレ)のために音楽を書いたり教えたりもしています。
1704年8月17日、前任者の死亡に伴ってサン・マルコの第一オルガニストを志望し、13対1の評決で第一オルガニストに任命されました。
一方、劇場向けの世俗音楽にも熱心で、1693年には最初のオペラ作品 「無実の勝利」 がサン・アンジェロ劇場で初演されました。
それから数年で、ロッティはベネツィアでも一番人気のオペラ作曲家の一人となり、1706年から1717年までの間に少なくとも16のオペラを書きあげ、上演されました。
この人気はドイツにも伝えられた。1717年にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(1670-1733年)

から招きがあり、家族と一部の音楽家を引き連れドイツ東部の都市ドレスデンへ出向することが寺院から認められました。
そのためロッティは2年間ドレスデンの宮廷歌劇場に出向し、選帝侯の婚礼を祝賀するオペラ 「アルゴのジョーヴェ」、「アスカーニオ」、「テオファーネ」 の三つ作り、上演にたずさわりました。娯楽音楽としては 「四大元素」 を作曲しています。
また1717年11月22日にロッティらが同地でミサ曲の演奏を行った記録があり、次のような報告が残っています。
「選帝侯がヴェネツィアからドレスデンへ招聘したイタリアの音楽家は、当地とはまったく異なる様式で教会を賛美した。・・・3時間を要する荘厳ミサは、かつてドレスデンでは聞いたことのない素晴らしく芸術的な技巧を伴った声楽・器楽で演奏された」
バッハやヘンデル、ゼレンカはロッティのミサ曲 「叡智のミサ曲」 の楽譜を写譜していた ことが知られています。
またバッハがライプツィヒの教会でこのミサを演奏した楽譜をベルリンの国立文書館が保存しています。
ロッティのフルートトリオ
ミャクミャク ドーナツなんていうパンが出ているんですね。(^^)
ミャクミャクドーナツ、渡邊さんによるとスーパーに行くとたくさん売られていたそうです。
甘かった〜!