歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その9中国9》

2018-07-21 17:37:20 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その9中国9》

10中国9 唐Ⅲ・五代
10中国9には唐の玄宗の天宝元年から五代周世宗の末年に至るまで218年間(742-959)の書蹟を収めている。

中国書道史9    神田喜一郎
唐王朝はその建国(618)以来、強大な国家をつくりあげ、華やかな文化を発達させてきたが、第7代目の皇帝玄宗の世に至って、安禄山の大乱(755-763)は、唐王朝の基礎を揺すぶり、唐王朝の歴史も黄金時代から没落時代に突入する。
もっともそうした徴候は、安禄山の大乱に先立って、玄宗が太平に酔うて政治に倦みだした天宝の初年(742)から、すでに萌していたと神田はみている。つまり安禄山の大乱はこれを皮相的にながめると、突如として起きたものではあるが、その起こるべき素因は、はやく黄金時代の末期に醞醸されていたとする。そう見てくると、唐王朝の没落時代はこれを天宝の初年にまで遡らせるのが妥当であると考え、この天宝の初年をもって、時代を画し、『書道全集』の巻を新たにしたと説明している。
この唐王朝の160余年に亙る没落時代は、唐王朝の滅亡とともに、そのまま直ちに五代(908-959)に連接し、約50余年続いた。
唐王朝の没落時代から五代の混乱時代に至る210余年は、中国の歴史の大きな転換期であった。政治、経済、社会、文化など、あらゆる方面において、中国が中世から近世へと大変革を遂げた時期である。六朝以来久しく政権を掌握してきた門閥貴族は、この時期の初めから勢力を失墜しはじめ、中央では宦官が横暴をきわめ、地方では藩鎮が跳梁をほしいままにし、唐王朝の政治構造が変わってしまった。
その結果、新たに社会的勢力として抬頭してきたのが新興地主層で、その子弟は文官登用試験制度の成立発展にしたがって、官僚として政治に参与することとなり、今までの貴族に代わって文化の担い手となった。この新しい文化の担い手は、古い貴族本位の文化にあきたらず、自らの趣味に合致した自由で清新な文化の創造に邁進した。
しかしその一方において、永い伝統をもつ貴族文化も、そう簡単には衰退せず、むしろ一般的には新興文化よりも、かえって広く深く根を張っていた。この新旧二つの文化が互いに交錯し、反撥しあっていたのがこの時期の大勢であった。
唐末の乾符2年(874)に起こった黄巣の叛乱が大きな打撃を与えて、続く五代の混乱時代は、文化の空白時代であったともいいうる。ただ蜀とか南唐とか、遠く中原から離れて戦乱の災禍を蒙ることの少なかった諸国には、古い文化の伝統が温存され、それがやがて宋王朝に引き継がれることになった。
中国の書法は王羲之父子をもって最高の権威とする。こうした信念ははやく王羲之の生存当時から形成されつつあったが、その後ますます確乎なものとなった。しかし唐の大儒韓愈(768-827)に至って、王羲之の書を罵って「俗書」と貶しつけた。それは彼の名篇「石鼓歌」に見える。
もっともこうした王羲之の書に対する反撥は、はやく六朝時代からあるにはあったようだ。
南斉の高帝に仕えた張融がその一人である。高帝が張融に向かって「お前の書は骨力があるが、惜しいことに王羲之・王献之の筆法がない」といったのに対し、「王羲之・王献之の書に、臣の筆法のないのこそ残念です」と答えたという。
張融は草書を善くし、平生みずから誇っていたと伝えられるが、この言葉から察して、二王の書に反撥を感じていたことが想像できる。しかし六朝から唐王朝の中頃までは、たまたま張融のような者が出ても、それは単独の個人的な感情にとどまり、多くの人々の間に共感となることはなかったと考えられる。それに対して、韓愈が王羲之の書を「俗書」と罵ったのは、必ずしも彼の独自の感情や識見から出たのではなくて、その時代には王羲之の書に対する反撥的な精神が汎く識者の間にみなぎっていて、当時の進歩的な識者の意見を韓愈が代弁したものと神田はみなしている。
それでは何がそうした王羲之の書に対する反撥的な精神を生長させたのであろうかという問いに答えている。韓愈は王羲之の書を「俗書」と罵った理由を、王羲之の書は「姿媚を
趁う」たからだと説明している。姿媚とはみずから容姿をかざることである。これを言い換えると貴族的な典雅ということになると神田は解釈している。王羲之の書を産み出した社会的基盤は、いうまでもなく中世の貴族社会であった。その貴族の没落した時代において、王羲之の書が喜ばれなくなったのは当然であると神田はみる。これはひとり書のみにとどまらず、かの六朝以来貴族政治の華やかであった時代に栄えた駢儷体の詩も、同じことであった。
そして杜甫は駢儷体の詩の改革を試み、韓愈は駢儷体の文の改革を試みた。書にも改革運動の起こらないはずはなく、実際の技法の上において、王羲之の典型を破ろうとする、一種の革新書派ともいうべきものが、駢儷体の詩文の改革などと一連の文化運動として既に早くから発生していたと神田は考えている。
その急先鋒となったのは、はやく玄宗の開元の末(740頃)に没した張旭であるが、その後をうけて、革新派の書を一応大成したのが名高い顔真卿である。
顔真卿は唐王朝に忠勤を擢んでた一代の名臣である。玄宗の天宝14載(755)、安禄山が叛乱をおこした時、当時平原の太守をしていた顔真卿は、義兵を挙げ、唐王朝の危機を救い、その頽勢を挽回したばかりでなく、その後、徳宗の建中2年(781)に李希烈が叛乱をおこした時にも、身を挺して敵中に臨み、ついに李希烈のために殺された。まことに正義感の強い、剛直な人物であった。
そうした彼の気質からいっても、王羲之の書のような貴族的な書は韓愈のいったように姿媚なものに映じたに相違ないと神田はみている。
顔真卿は貴族的な書に反撥して、強烈かつ厳粛に主体的なものの表現を指向した。
彼の書蹟として今日伝わるものには、次のようなものがある。
①「千福寺多宝塔碑」(図12-17)  天宝11載(752)
②「東方朔画賛碑」         天宝13載(754)
③「祭姪文稿」(図18-21)     乾元元年(758)
④「祭伯文稿」(図22, 23)     乾元元年(758)
⑤「争座位帖」(図24-31)     広徳2年(764)
⑥「郭氏家廟碑」(図34, 35)     広徳2年(764)
⑦「麻姑仙壇記」(図38-43)    大暦6年(771)
⑧「宋璟碑」(図48, 49)       大暦7年(772)
⑨「顔氏家廟碑」(図56-59)     建中元年(780)
その他、色々有名なものが多く、はやく宋代には顔真卿の書蹟ばかりを輯めた「忠義堂帖」が刻されたほどだが、大体上記のものが代表的な傑作である。この中で、祭姪・祭伯の二文稿と「争座位帖」とは極く率意の間に書かれた行書で、他のものが正々堂々と書かれた楷書であるのと著しい対照をなしている。
次にその書についての幾つかの批評を紹介しておく。例えば、古人の批評に、
「点は墜石(ついせき)のごとく、画は夏雲のごとく、鉤(こう)は屈金のごとく、戈(か)は発弩(はつど)のごとく、縦横、象(かたち)あり、低昻(ていごう)、態あり」という。
一点一画、ことごとく男性的な重みと剛気とが満ち溢れていて、しかもその中にどこか渾樸なところがあり、そこに独自の特色を発揮しているという。
しかしときに剛気が過ぎると、「荊卿、剣(つるぎ)を按じ、樊噲、盾(たて)を擁し、金剛、目を瞋(いか)らし、力士、拳を揮うがごとし」という酷評の出てくるほど、いかにも武張って風韻の乏しいものとなってくる。
これは彼が意識的に王羲之の雍容典雅な典型を極力破ろうとした結果で、したがって王羲之の典型を奉ずるものから見ると、顔真卿の書は全く鼻もちのならない、いわゆる剣抜弩張の態に映じるという。実際、南唐の後主李煜などは「書法は顔真卿が出て始めて壊れた」と慨嘆している。
それに反して、革新書派の流れを汲む宋の蘇軾は、「詩は杜子美に至り、文は韓退之に至り、書は顔魯公に至り、画は呉道子に至って、古今の変と天下の能事とが畢(つ)くされた」といっている。顔書に最上級の讃辞を惜しまない。詩文の改革を試みた杜甫や韓愈を讃美する蘇軾としては当然であるといえる。
ともかく顔書は、王羲之の書と対蹠的な関係に立つもので、そう見てくると、色々毀誉褒貶はあっても、顔真卿は中国書道史上、王羲之以来の大家と称して差支えないと神田はみなしている。
そして神田は次のような問いを発している。この顔真卿の書は根本的にはその人間としての気質にもとづいて出来たものであるにしても、すべての技法までが彼の独自の発明としてよいであろうかと。つまり顔真卿の書の技法の独自性について問題としている。
古来の伝説によると、彼は張旭について書法を学んだという。またそうしたことを彼みずから書きしるした「十二意筆法記」という一文も存在する。しかしこの文章は偽作であろうと神田はみている。
顔真卿と張旭との直接的な関係があったかどうかは不明であるし、それよりも彼の書法の源流としては、いわゆる北碑が考えられるのではあるまいかと神田は考えている。現に清朝の学者の中には、顔書の源流として楷書には東魏の武定5年(547)に建てられた穆子容の書という「太公呂望表」やさらに遡って北魏の神亀3年(520)の高植の墓誌を、行書には名高い北魏の張猛龍の碑の後にある行書を指摘する者もある。
また楊守敬は、隋の丁道護の書いた「啓法寺碑」(7巻図14-17)を顔書の祖としている。神田自身も、顔書には明らかに北魏から来たと思われる筆法が認められるとし、その気分にも何か共通したものが感じられるという。もともと顔氏は山東臨沂の出身で、晋の南渡とともに一時江南に移ったこともあったが、顔真卿の五世の祖である顔之推から北朝に仕えた名家で、顔真卿には北朝人の血が流れていたことは確かである。
現に顔真卿の三世の祖である顔師古の書いた「等慈寺碑」(7巻図82, 83)は唐初に書かれたものであるが、どちらかといえば北朝の風が濃く、顔真卿が北碑に学ぶところがあったと考えても、大過はないものと神田は考えている。
また玄宗時代の書壇の動きとして、漢代に行われた隷書や、さらに遡って古い時代の篆書を書こうとする人が出てきた。隷書は初唐の欧陽詢も好んで書いたらしいが、玄宗の時代になって俄然これが流行しはじめた。玄宗も隷書を喜び、多くの隷書の碑を書いている。唐代の隷書の名家というと、韓択木、蔡有鄰、李潮、史惟則の4人を挙げることになっているが、これらの4人はだいたい開元・天宝から、大暦あたりまで生存していた。その他にも、この時代には徐浩(図6, 7)のような隷書の名家が出ている。篆書については何といっても李陽冰(図1-3)を第一の大家とする。
ところでこうした篆隷書家の出現したのも、革新書派の誕生と一脈あい通じたところがあるといわれる。革新書派の精神には王羲之以前に還れ、といった者があったが、これはこの時代におこった文学の改革にしても、その標榜するところは復古主義であった。駢儷体の文章の打倒を大声疾呼した韓愈が、先秦への復古を旗印としたが、そうした精神から書において、古く篆隷にまでさかのぼろうとする者が出現しても、不思議ではないと神田はみている。
実際、当時の篆隷書家の多くは革新書派の陣営から出ているし、それが証拠に、李陽冰にしても、徐浩にしても、いずれも革新書派の顔真卿と意気投合した間柄であった。特に李陽冰は顔真卿と昵懇で、顔真卿の書いた碑には、多く李陽冰が篆額を書いている。そして二人とも革新書派の開祖張旭から筆法を受けたという伝説がある。
この点神田は真偽はしばらく措いて、ともかくそうした伝説が生まれたところに意味があるとする。また実際、顔真卿は李陽冰の影響をうけ、その楷書に篆法を用いたと思われるところがある。例えば、「顔氏家廟碑」などはその一例である。そして清の王澍は草書にも篆法が応用されていると説くだけでなく、顔真卿が「むしろ樸なるも華なることなく、むしろ拙なるも巧なることなき」は、彼が篆籒の正法を心得ていたからであると論じ、この点、顔真卿は秦の李斯、漢の曹喜いらいの第一人者であると賛めている。
ともかく、篆隷書家の出現と革新書派の誕生とは、あい離しては考えられないもので、この関係こそ、当時の新しい書法を理解する重要な関鍵であると神田は考えている。
唐の中葉、顔真卿によって華々しく展開されてきた革新書派の運動は、一時旧派を駆逐するかのように見えたが、その陣営に顔真卿に並ぶだけの大家もなく、後継者も振わず、萎靡沈滞してしまった。もっとも顔真卿の当時、彼と並び称せられた大家に、徐浩(図6-11)と懐素(図72-81)とがあった。徐浩はその書が「怒猊(どげい)の石を抉り、渇驥の泉に奔る」が如くであると評され、当時から有名であったが、実は名声ほどのこともないと神田はみなしている。というのは、革新書派に属しはしたものの、その書は旧派に近く、顔真卿の書に見るような堂々たる気魄に乏しいという。
また懐素は草書の専門家で、その「自叙帖」(図72-75)のような、自由奔放を極めたところは、いかにも革新書派の陣営中の人と首肯されるが、その書はもともと王羲之の法度に準拠したもので、顔真卿のように正面から王羲之に反撥したものではなかった。
このように徐浩にしても懐素にしても、その力量はともかくとして、いわば新旧両派の中間に位し、純然たる革新書派ではなかったと神田はみている。
顔真卿の後、その正統を承けたエピゴーネンとしてわずかに気を吐いたのは、名高い柳公権(図82-91)一人である。古来、顔真卿と併せて顔柳と称せられ、この二人の書の特徴を表わして、顔筋柳骨という言葉のあるのも当然である。その一代の傑作「玄秘塔碑」(図84-89)は、まことに顔真卿の諸碑と頡頏するに足るものであると神田は高く評価している。しかしこの柳公権に継ぐものは出なかった。
革新書派がこういう中途半端な姿で挫折してしまう一方、旧派の書は一般的には汎く行われた。しかし旧派にもこれというほどの大家は出ず、新派以上に振わなかった。その中でやや注目すべきものとして、張従申と沈伝師の2人を挙げることができる。
張従申は顔真卿と時代を同じくしたが、顔真卿とは違って王羲之の典型を墨守し、古来の伝統を維持した。「李玄静碑」(図4, 5)は代表作で、温潤極めて気品の高い書である。一方、沈伝師は韓愈の撰文になる「柳州羅池廟碑」(図104, 105)の書者として名を知られているが、その書は初唐の欧陽詢や虞世南の遺韻を具えている。なお旧派に属する書家として、呉通微(図96, 97)を挙げることができる。役所風の書で、当時から院体と評されたほど、芸術味に乏しい書をかいたが、一般にはその書は喜ばれた。
ともかく顔真卿の後、革新書派に柳公権が出たのを除くと、新旧両派ともに一代の巨匠というべきものが出ず、書法は唐末になるにしたがって衰微し、五代に至って、その極に達した。五代では楊凝式(図110, 111)が大家とされているが、その書は古来の伝統を無視した詭険はなはだしいものであったと神田は低くみている。
ただその破格のところに天真縦逸の妙があるとして、宋代になって喜ばれ、特に蘇軾、黄庭堅、米芾が推称し、中国の書法に与えた影響には看過できないものがあるという。
いわゆる禅僧の墨蹟のごとき、楊凝式が俑をなしたといえないこともないとしている。しかし五代の書道として、南唐とか蜀にはかえって古来の書法の伝統が温存され、また文墨趣味が流行した。
この蜀と南唐について、その地域的特色を次のように神田は略述している。つまり蜀はもともと重畳たる山嶽で囲まれた別天地でいつも戦乱の際には中原から避難者が聚ってきた。その中には文化人も多く、それに土地が肥沃で物産が豊かであったから、そうした文化人の蜀に定着する者が少なくなく、この地には中原の戦乱を余所に文学や芸術が発達した。
また南唐はその国主の李璟、李煜が風流人で、晋人の名蹟をあつめて「澄清堂帖」を刻したことは名高い事実である。宋代になって最初に書法の復興を見たのはたいていはこの南唐や蜀から帰服した文化人の手によったものであった。
このように神田は、唐の中葉五代にかけての中国書道史を概観して、唐王朝の書法は全く竜頭蛇尾に終わり、最初の華々しさにもかかわらず、最後は惨憺たるものであったと結論づけている。
これは結局その国力の盛衰と歩調を同じくしたもので、国力の衰えるところ、ひとり文化のみが繁栄するはずはない。それに中国の社会の根底から動揺したことは、書道の向かうべき方途を混迷に陥らせ、それがまた書道の発達を甚だしく阻害したという(神田、1頁~9頁)。

顔真卿の書学    青木正兒
顔真卿の血統は曽祖父勤礼以来、能書家ぞろいで、勤礼は篆籒(てんちゅう)の書に工みで最も訓詁に精しく、祖父昭甫も訓詁に明らかで篆籒草隷に工みであり、父惟貞も草隷を以て著名であったという。
伯父元孫は「干禄字書」の著者として有名であるが、彼もまた草隷を善くした。顔真卿は早く父を失ったので、この伯父および兄の允南から教育を受けた。允南も草隷の書に工みであったというから、顔真卿の書学はまずこの両人によって啓蒙されたといわれる(なお、ここに「隷」というのは楷書のことである)。
顔真卿は長じて官遊するに及び、30歳余りの頃、長安と洛陽とで草書の名人張旭について筆法を学んだ。この事に関して顔真卿自ら「述張長史筆法十二意」(「書苑菁華」巻19)を著して、その始末を詳述している。これによれば、顔真卿はまず長安において張旭に師事したが、彼はただ興に乗じて、草書を3枚なり5枚なり書いて見せるばかりで、筆法については何も言って聞かせなかった。その後京兆府醴泉県の尉の官を授けられ(天宝元年[742]、34歳)、やがてその職を罷めて閑地についたので、洛陽に滞在中の張旭を訪ね、1月余り逗留して、筆法を請うた。
すると遂にある日、次のような要訣を語って聞かせた。「余は筆法を母の従兄弟に当る陸彦遠(虞世南の甥陸柬之の子に当る)から伝授された。彦遠が曰うには、吾甞て筆法を褚遂良に問うに、褚が曰く、用筆は須らく『印モテ泥ニ印ス』(封印をする泥の上に印を押す)如くすべきであると。幾ら考えても其の意味が分らなかったが、後に江中の島に於て沙平らかに地浄らかなるを見て、字が書きたくなったので、鋭く尖った物の先で書いて見た。すると其の勁険の状は鋭いうちに優しさがあったので、是より用筆は『錐モテ沙ニ画ス』(キリで沙に書く)如くにして蔵鋒(穂先を中にかくす)せしむれば、画(かく)が沈着するものであると悟った。そして其の筆を用いるに当っては常に其れをして紙背に透過せしめるように心掛ける、是が成功の秘訣である。真書も草書も用筆は悉く此のようにすることが其の道の奥義である」と。
顔真卿は謝して退き、これより書道研究の妙を得て、此に5年であるが、真書も草書もきっと成果を得られるであろうと自信を以て記している。
さて、以上のような筆法の要訣は真草を通じてのことであるが、実技として顔真卿が張旭から学び取ったところは、主として草書の法であったであろうといわれている。もっとも顔真卿は張旭の真書についてもその優秀なることを称して、「懐素上人草書歌序」(文集12)に「楷法精詳、特に真正と為す」といっているが、張旭の楷法の現存している「郎官石記」を見ても、顔書への影響は顕著でないと青木はみている。
だから顔が張から学び取ったところは主として草書の法であり、真書においては「印印泥」「錐画(すいかく)沙」つまり「蔵鋒」の妙諦と、「透過紙背」の要訣とを教えられたので、これが他日顔書を大成する根底をなすものであったと青木は推測している。
ここで青木は顔真卿の書に対する評を紹介している。
例えば、宋の米芾は顔の早年の書を称して、「顔真卿は褚遂良を学んで後自ら一家を成したもので、醴泉の尉たりし時の石刻(「醴泉令徳政碑」をさす)及び麻姑山記は皆褚の法である」(「海岳題跋」)と評している。
醴泉の碑は今見られないが、宋代の「金石録」にも「筆法は魯公の他の書と類せず」といってあるし、天宝元年34歳の書で、張旭に筆法を授かる前のものらしいから、あるいは米芾が鑑識したように褚書を学んでいたかもしれないという。
さて降って、清の翁方綱は隋の「賀若誼碑」(7巻図9)は論じて「下顔書を開くもの」(「復初斎文集」21)と為している。
青木はこれに対して、顔の「千福寺多宝塔碑」(図12-17)は幾分これに似た所があるが、他の碑は似ていないという。
次に康有為は東魏の穆子容の「太公呂望碑」を以て顔書の本づく所と論じている(「広芸舟双楫」4)。青木はなるほどこれには類似するものが相当あるとしている。
・「多宝塔碑」(44歳書)、「東方朔画賛」(46歳書)、「謁金天王神祠題記」(50歳書)、「鮮于氏離堆記」(54歳書、図32, 33)、この10年間の書は似ているといえば、似ていると青木はいう。つまり勿論他人のそら似かもしれないし、そう簡単に顔書の本づく所と断ずるわけにもゆくまいが、この期間の顔書は一つの類型をなしているというのである。その書風は褚遂良でもなく張旭でもないが、顔真卿独得のものでもなかったであろうともいう。それで康有為が提唱する東魏の穆子容という説も出たのであろうが、東魏まで持って行くのは少し縁が遠いと青木はみなしている。
そこで青木なりに考え直してみると、張旭の「郎官石記」を肉太くして力を入れたら、「多宝塔碑」や「東方朔画賛」のような字になるのではあるまいかと想像し、その本づく所はやはり張旭であったかもしれないという。
さてこの一類の書風の次に来る顔書は何か。この点について、青木は顔書を列挙しつつ、その特色を述べている。
・次に来るのは、「郭敬之廟碑」(56歳書)、「顔勤礼神道碑」(図54, 55、58歳ないし60歳書)の一類である。その特色としては、横筆の力を抜いて軽く書き、竪筆との強弱の調子
が面白く取れて、顔書としては最も軽妙な筆法である。この一類は前期の力一杯の書風から漸く変ぜんとする、転換期にあるものと青木はみなしている。
・次に「臧懐恪碑」(62歳書?)、「八関斎会報徳記」(図52, 53、64歳書)、「宋璟碑」(図48, 49, 64歳書)、「元結墓碑」(64歳書?)が又一類となす。これは前期の筆法を持続しつつ、横筆と竪筆との強弱の調子をさほど付いていない。
・最後に「玄靖先生李含光碑」(69歳書)、「顔氏家廟碑」(図56-59, 72歳書)、「自書告身」(図60-65, 72歳書)の一類がある。老熟の極、生拙に至ったともいうべき書風で、おおむね筆は円く、力強い中に柔らかみを持っている。
このように顔真卿が張旭に法を問うてから後の真書は大体この4期に分けて類型を求めうると青木は考えている。①44~54歳、②56~60歳、③62~64歳、④69~72歳。ただ必ずしも時期と類型とは一致しないと断っている。
その著しきものは、例えば「大字麻姑仙壇記」(63歳書、図38-41)は、時期よりすれば「八関斎会報徳記」や「宋璟碑」より前で第3期に属するが、書風はこの期の他の碑と似ず、むしろ「顔氏家廟碑」に類して末期の類型に属する。
また「馬璘碑」(71歳書)は「顔氏家廟碑」より1年前で、末期に属するにもかかわらず、書風は「顔氏家廟碑」とは大分違って、むしろ第2期の「顔勤礼碑」と似たところがあるという。
この点に関して、おそらく書く時の意図や気分や、用いた所の筆の条件によるものであろうと青木は述べている。
次に青木は顔書の特色について考察している。その特色として、力強いことが指摘されるが、力強いにも色々ある。そこで唐の杜光庭の「字書優劣体意」(「書苑菁華」19)に「遒婉(しゅうえん)」二字で之を評してあるのは最も要を得ているという。遒とは健であり、勁である。婉とは順であり、美である。即ち力強いうちに柔和な美しさがあることである。つまり強いといっても、骨硬くないのである。
だから、これを欧陽詢に比較して「欧は勁を以て勝り、顔は円を以て勝る」(清の梁巘の評)と評され、「顔は其(王羲之)の筋を得、柳は其の骨を得たり」(南唐李後主の評)とも評されている。しかるにその具体的な筆法からみると、古法の革新であるといわれる。宋の蘇東坡は「顔魯公の書は雄秀独出し、古法を一変す」(「題唐代六家書後」)といい、また「書の美なるは顔魯公に如(し)く莫し、然れども書法の壊は魯公より始まる」(「漁隠叢話前集」巻3)という。
それならばその変化はどのような点にあるかというと、元の遠裒(ほう)は「顔太師に至り、一変して方整規矩と為る」(「佩文斎書譜」10)という。つまり字の右肩を揚げることなく、正方形に近き姿勢に書いたことである。
清の王澍はさらに詳しくこれを説明している。
「魏晋以来、書を作る者は多く秀勍(しゅうけい、しゃんとしたさま)を以て姿を取り、敧側(きそく、肩上りにかたむくこと)もて勢を取る。独り魯公に至りて、巧みを使わず、媚びを求めず、簡便に趨(おもむ)かず、重複を避けず、規縄規則して(型通りきちょうめんに書いて)、独り其の拙を守り、独り其の難きを為す」(「竹雲題跋」巻4)という。これは顔真卿の忠直古拙な性格によるのであろうが、しかしまた彼が企てた所は書体の復古にあったので、真書の中に隷書の法を雑えたからであると青木はいう。
このことは早くから宋代の『宣和書譜』(巻3)に、「篆籒分隷よりして下を兼括して同じく一律と為す」と説破している。このような傾向は「大字麻姑」(63歳書)、「八関斎」(64歳書)あたりから顕著となり、末期の「玄靖碑」(69歳書)、「顔氏家廟」(72歳書)などに至って、最も露骨であると青木は解説している。
次に顔書筆法の特色として、「蚕頭燕尾」という成語が有名であるが、この点について説明している。この成語は米芾の『海岳名言』や『宣和書譜』にみえる。「蚕頭」とは竪筆の頭が稜角をなさずして、円く蚕の頭のようになっていることである。
米芾が評して「顔書の頭は蒸餅(饅頭)の如く、大いに醜悪にして厭う可し」(「清河書画舫」の顔真卿の条)と誹っているのも、これをさすようである。
そして「燕尾」とは捺(なつ、八の字の右のハネのような筆法)の筆先が燕の尾のように二つに分れていることである。この筆法は「大字麻姑」以後、「顔氏家廟」などの書に最も多く現れている。
蚕頭は筆の穂先を中に隠してしまうから団子のようになるので、これも「蔵鋒」の結果であり、燕尾は筆を一度強く押さえ止めてから軽く跳ねるから二つに分れるので、「透過紙背」の余勢である。
次に草書は張旭の法を学んで別に一機軸を出したものである。もとより顔書の本領は真書にあり、真書の筆力をもって草書を作ったところにその妙味があるといわれる。顔真卿は晩年草書の名人たる僧懐素と洛陽で逢い、その草書を称賛して「懐素上人草書歌序」(「文集」12)を作り、懐素が直接張旭に師事しえなかったことを惜しんでいる。時に顔真卿は70歳ばかり、懐素は40数歳であったようだ。
懐素は張旭の弟子鄔彤(おとう)の弟子で、顔真卿と同門の後輩なのである。この時懐素は顔真卿に逢って法を聞いたことをその「蔵真帖」(図80)に記して、「斯(こ)の法を聞いて得る所有るが若(ごと)し」といっている。
この折、両人が語り合った草書の秘訣は、「竪牽(じゅけん)」(立に引く棒)の筆法についての説であって、懐素はその師鄔彤から授けられた説として「古釵脚」(古かんざしの足)のようにすべきであると告げた。
顔真卿はこれに対して「屋漏痕」(壁につたわる雨漏のあと)のようにしたらどうだと、いったので、懐素はひれ伏して感嘆したという。これは当時茶人陸羽の話した懐素伝に出ている有名な話である。この屋漏痕をしのばせる筆法は、顔真卿の「裴将軍詩」(図70, 71)の「軍」の字や、「瀛洲帖」の「耳」の字などの竪牽において見出される。
概して顔書には純粋の草書は少なく、草書の間に真書行書を雑え、骨力を加えて妙趣をなしているものが多い。
「修書帖」「文殊帖」「守政帖」「広平帖」などは皆これであるが、その最も奇なるは「裴将軍詩」のように、草書中に隷書を雑えたものもある。
しかし何といっても、顔書の本領は楷書にあり、草書には余り自信が持てなかったようだ。だからその「草篆帖」に自ら嘆じて、かつて張旭の伝授は受けたけれども、「分無くして遂に佳なる能わざるを自ら恨むのみ」といっている。それで真書と草書との中間、すなわち行書がむしろその性に合った体であったように見受けられる。評者はいう「魯公の書、真は草に及ばず、草は稿に及ばず」(「虚舟題跋」家廟碑の条)と。「稿」とは「祭伯文稿」(図22, 23)、「祭姪文稿」(図18-21)、「与郭僕射書(争座位帖)」(図24-31)の三稿をさすものとされている。これらは文章の草稿であるから、工みに書こうとする意志無くして、自然の妙趣の出ているところが尊く、全文ほとんど行書で書かれている。それは顔真卿にとってこれが最も手馴れた書き良い書体であったからであろうと青木はいう。
その他、「与蔡明遠帖」(図66, 67)、「送劉太沖序」(図68, 69)は意識的に工みを用いた書であるが、これもまた独得の筆法をもって奇を出した行書の妙蹟であると青木は評している。よって顔書において草は行に及ばずといいうるとし、その行書を評価している(青木、10頁~15頁)。

懐素の書とその影響 中田勇次郎
今日、伝わっている懐素の書には、次のようなものがある。
1.「自叙帖」(図72-75)
2.「聖母帖」(図76, 77)
3.「草書千字文」(図78, 79)
4.「蔵真帖」(図80)
5.「律公帖」(図81)
6.「苦筍帖」(挿31)
7.「食魚帖」(挿32)
その他、法帖に刻されたものなどがあって、その数は乏しくないが、その中には真蹟かどうか疑わしいものが多いといわれる。懐素の書が実際どのようなものであったかは必ずしも明確にされているとはいえない。そこで懐素の書について述べられたなるべく古い、確かな文献にもとづいて、その書風を推定してみることによって、その真相を明らかにすることが、中田の本稿の目的である。
懐素は唐代において、張旭についで草書の工みなことによって名を知られていた。張旭の草書が詩人杜甫によって詠じられているように、懐素の草書も当時の多くの人々によって歌詩に作られ、現在伝えられているものがある。すなわち王邕、竇冀(とうき)、魯收、朱逵、戴叔倫、任華などにはいずれも「懐素上人草書歌」と題する作がある。
「自叙帖」には張謂、盧象、許瑶の詩句、李舟の文の断章が載せられている。これ以外にも銭起の「送外甥懐素上人」、蘇渙の「懐素上人草書歌、兼送謁徐広州」があり、また敦煌文書にも「懐素上人草書歌」の書かれたものがある。また李白の作と伝えるが実は五代の斉己一派の偽作とされている「懐素上人草書歌」がある。これも懐素の書を観賞した実録に準じて参考することができる。宋の王象之の「輿地紀勝」巻56によると、その当時39人名士たちが彼の草書を詩に詠じて称賛したという。
これらの詩のうち、王邕、竇冀、魯收、朱逵、戴叔倫の五首は懐素の郷里、永州零陵県において、ほぼ同じ頃に作られたようである。時に王邕は永州の太守であり、竇冀と戴叔倫は御史の官であった。
ある日、太守の出席した宴会の満座の中で懐素が得意の草書を揮毫し、観賞した名士たちはその巧妙さに感嘆して詩を賦したのがこれであるといわれている。朱逵の詩句には「今、年が若くてもこのように草書が工である」とあり、この時懐素はまだ年少であったことがわかる。このことがあったのは前後の事情から推察すると、およそ8世紀の中頃だという。また李白の詩にも、「少年上人は懐素と号す。草書は天下において独歩と称した」とあるが、これも彼が年若くして草書をよくした事実があったから、このように歌われたのであろう。
陸羽の「唐僧懐素伝」によると、懐素は故郷に住んでいた時、家が貧しくて字をかく紙がなかったので、芭蕉を万株余り植えて紙の代りとした。それでも足りなくなると、漆器の盤にかき、また漆器の四角い板にかいたが、余りしばしばかいたので、盤も板もみなすりへって穴があくほどになったという。
また李肇の「唐国史補」によると、懐素は草書を好んで草書三昧を得、使い古した筆が山のように積もったので、それを山の麓に埋めて筆冢と名づけたという。また懐素が貧困と苦闘の中で30年間、書に精進してはじめて一家をなしたという説もある(「山谷題跋」巻2)。これらの記録から想像すると、懐素は年少の頃からよほど草書に苦心したものと思われる。
そして「唐僧懐素伝」によると、懐素は従兄弟の鄔彤から王羲之の悪溪、小王、騒労の三帖を授かり、張旭の古釵股の法を教えられた。晩年、顔真卿に逢い、草書の法は師から授けられる以外にみずから体得しなければならないことをさとされ、屋漏痕の法を聞いて感服した。
そこで彼は自分の体得したところを告げて、「わたくしは夏の雲の奇峯の多いのを見ていつもそれを手本としています。夏の雲は風によって変化し一定の勢がなく、また壁拆(へきたく)の路に遭うて一々自然です」といったので、顔真卿はまたこれに敬服したという。
中田は、この説には伝説的なにおいがないでもないが、懐素の書が魏晋の伝統的な書法を盲目的に守るものではなく、みずから新しい書風を開拓していったものであることを認めている。懐素が夏雲の変化する自然らしさを学んだことは有名な逸事となり、彼の書法はのちに「壁拆の法」と呼ばれるようになった。
懐素は酒を愛し、酔うと好んで草書をかいた。酒は一日に九酔するという大酒ぶりであり、酔っぱらうと、寺の壁、里の牆、衣裳、器皿など手当たり次第に書をかいた。竇冀の詩句に、「気分が湧き、興に乗ってくると、数十間の長廊の白壁に、多くの観衆の中で酒に半ば酔ったかと思うと、忽ち三声五声かけごえをかけて、壁一面に縦横に幾字となく揮毫した」という。
銭起の詩句に「狂い来って世界を軽んじ、酔裏に真如を得た」というように、陶酔の境に入ってはじめて書くことができた。許瑶の詩句に「酒に酔うてくると二行三行とかくが、醒めてしまうともう書けなかった」というから、酒がなくては字が書けなかったようである。
懐素が酒を愛し、草書を好み、酔中に狂書した状態は、張旭と全く趣を一にしている。「自叙帖」に李舟の言葉をあげて「むかし張旭が字をかくと、当時の人々はこれを張顚といった。今、懐素が字をかくと、これを狂僧という。狂をもって顚につぐのであるから、誰も異存はないであろう」という。後に懐素は張旭とあわせて「張顚素狂」と呼ばれる。
唐の中頃から魏晋の書風が衰微して新しい書風が起こってきた。張旭は楷書においては正統な書風を守っているが、草書においては奇怪狂逸な新書風をつくり出したと伝えられる。懐素は張旭の草書の狂逸さを受けついだといわれる。
魯收の詩句に懐素の言葉を引いて、「転腕して拘わることなく、大いに王羲之の筆陣図を笑う」というが、これは晋人の古法を嘲笑し、しりぞけた言葉である。
竇冀の詩句に「狂僧が翰を揮うときは狂であり且つ逸であり、独り天機に任せて格律を摧く」という。これも意のままに筆を揮って古い技法を破ったことを述べたものである。
戴叔倫の詩句に「古法をことごとくよくし、新しい書法にも十分余裕がある」といい、許瑶の詩句に「志は新奇にあって定まった法則はない」という。要するに懐素は魏晋の古い書法をよく学んだ上、そこから脱却し、酔中の率意の書によって古法に拘束されない新書風をうちたてたものであろうとする。
懐素の書風は当時の詩人たちによってもっとも美しく表現された。「自叙帖」の中にかかげられた張謂の「奔蛇走虺、勢が座に入り、驟雨旋風、声が堂に満つ」、王邕の「寒猿が水を飲んで枯藤を撼(ゆる)がし、壮士が山を抜いて勁鉄を伸ばす」は、よく懐素の草書の形似を表わしている。魯收の詩に「ときに興が湧き起ると、筆を執って縦横にかきなぐる。手を動かすとともにうなりを立てて風が吹き起り、壁の上には龍蛇がほとばしり飛びまわる。つづけさまに数行かいても筆勢はなおつづいたままで、藤の蔓が宙にかかったままでちぢまって珍しい節ができたかと思うと、またさらりと切り放たれて雲が湧きおこり涛がたちさわぎ、またときにはくじけて毫髪を縈(めぐ)らす」という。
戴叔倫の詩に、
「はじめは破体から風姿を変えてゆき、一つ一つが花をさかせてのどかな春の景色をひろげるが、忽ちにして壮麗なすがたが枯渋になり、龍がおどり蛇がとぐろをまき、獣が屹立する。馬がかけるように筆を走らせ字をかいてゆく。満座の人々は固唾をのんで筆のあとも追いつけないほどである。心と手とがたがいによく呼吸をあわせて、いやがうえにも筆勢がおもしろくなり、その変ったふしぎな形状がかえって、おもむきがあるように見える。人々がこの書のおもしろさはどこにあるのかとたずねると、懐素は自分にははじめからわからないと答えた」という。
これらの詩の言葉から、中田は懐素の書風の特色を、次のように想像している。つまり連綿体の草書がかかれ、文字の形は大小長短斜正さまざまであり、その速度はきわめて早く、筆の渇れたところはとくに美しい趣を生じ、全体からみて、自然のままに、古い技法にとらわれないで、しかもいささかのすきまもなく、ただひたすらにはげんだ多年の修練によって、いわゆる草書三昧の妙境に至ったと中田はみている。現存する懐素の書の中では、「自叙帖」が比較的これらの条件にかなうものといってよいとする。
ただし懐素の書については、古来痩肥の二説がある。宋の李之儀の言葉によると、懐素の書は肉が多く、その当時において憨肥和尚というあざながあり、細い文字は彼の本色ではないという。
ところが黄庭堅は懐素の草書は痩せたところが工であり、張旭は肥えたところが工であるという。先に引用した詩において、多く懐素の枯渋さを賞美しているところから考えると、中田は痩せている方が本当のように考えている。
ところで、大暦12年(777)、懐素は洛陽において、ときに刑部尚書であった顔真卿に逢い、尚書司勲郎の盧象、小宗伯の張謂が懐素の草書を詠じた詩を示し、序を請うた。顔は懐素のために「懐素上人草書歌序」をかいた。顔は懐素の草書を見て、むかし張旭と近くに住居したとき筆法を教えられたことを思い出し、もし張旭がまだ生きていて、懐素を紹介することができたならば、きっと入室の弟子になったにちがいないと歎服した。
この頃、京華において懐素の草書を見て詩を詠じたものも少なくなく、その一つに任華の大作がある。
「朝には王公大人の馬にのり、暮には王公大人の家に宿る。人々はわれがちに素地の屏風をつくり、白壁を塗りなおす。白い壁は日の光にかがやき、素地の屏風が夜の霜をうけて、今か今かと師が揮洒するのを待ち受けている。やがて駿馬が師を迎えて表座敷に師が座ると、黄金の盆(はち)にかぐわしい酒が盛られる。十盃、五盃、だんだん意識が朦朧としてくる。百盃からのちになるとはじめて顚狂になり、一顚一狂、意気があがり、大きく数声叫ぶと、臂をまくりあげて、忽にして千万字を揮毫する。ときには一字二字の長さが一丈二尺にも及ぶ」という。
懐素が郷里において、書いたときと同じように、この時の状況は手に取るように歌われている。この詩のおわりに、
「狂僧よ、狂僧よ、君はいかにすぐれた芸能をもっていても、それを紹介する人がなければならない。君の名は礼部の張公(謂)が君を引っぱってこなければ、どうしてこんなに博まることができたであろうか」といって結んでいる。張謂が懐素を紹介したことによって、その名声があがったことがこれによってわかるという。
懐素が没してからのち、唐末五代においても懐素の草書を詠じた詩人は少なくなかった。今残っているものに、貫休の「懐素上人草書歌」があり、韓偓に「草書屏風詩」がある。
懐素の郷里には彼を記念するためにその遺蹟が保存された。晩唐の裴説に「懐素台歌」がある。それには、「わたくしは古人の名を呼ぶ。鬼神よ、耳をそばだてて聴けよ。杜甫、李白、懐素よ。文星、酒星、草書星よ。永州の東郭には奇怪がある。筆塚、墨池の遺蹟が残っている」と歌う。
懐素台、一に懐素塔ともいう、ここは懐素が草書をかいたところ、筆塚と墨池があり、彼の遺蹟として後世の地志にみな記されている。
懐素の生存した頃から唐末にかけて、僧侶の中に草書をよくするものが多く現れた。高閑はその一人で、古文家として名高い韓愈が「送高閑上人序」を作り、その草書の妙を評論したことはよく知られている。その他、跫光、貫休、亞棲も草書をよくした。
宋の劉涇が「書詁」(『宣和書譜』巻19)にこの5人の僧侶の草書を批評して、
「懐素は玉のごとく、跫光は珠のごとく、高閑は金のごとく、貫休は玻璃のごとく、亞棲は水晶のごとくである」という。
懐素の書は玉のごとしというからには、さだめし温潤なものであったであろうと中田は想像している。
五代におけるもっともすぐれた書家とされている楊凝式は、今日ではその信ずべき筆蹟が乏しいけれども、米芾の言葉によると、その書は天真爛漫で縦逸な点においては、顔真卿の「争座位帖」(図24-31)に似ているというから、やはり懐素と同じ系統の書風であったとみられる。
かつて楊守敬は、楊凝式の「神仙起居法」(図111)を批評して懐素から脱胎したといったのは、懐素の影響を認めたからであろうと中田はみている。
宋代になると、欧陽脩およびそれをめぐる人々の間に、文芸における磊落さを尊ぶ傾向が著しくなってきた。文人の中に酒を愛し、率意の草書を好むものが現れた。蘇舜欽は最も懐素を好んだ一人であり、酒に酔うと草書をかき、人々は争ってその筆蹟を伝えたといわれる。今、彼の「南浦帖」を見ると、やはり懐素を学んだことがよく認められる。その家には「自叙帖」の真蹟を蔵し、その巻首の六行を補書したのも蘇舜欽である。
また、蘇軾は李邕、顔真卿から出て個性的色彩の強い書風を作り出したが、その行雲流水の情意は懐素と一味通ずるものがあり、酒興に乗じてかいたもの、例えば「西棲帖」の梅花絶句のようなものは、よく懐素の風格を得ているといわれる。
黄庭堅は晩年になって蘇舜欽の書を見て古人の筆意を悟り、張旭、懐素、高閑によって草書を学んだ。黄庭堅の一跋に、余と永州の酔僧(懐素)のみがよく草書の妙を知っているといい、彼がもっとも傾倒したのは懐素であったと中田はみている。その作の中では「李太白憶旧遊詩巻」(15巻図62-68)が懐素を学んだ好例であるとみなしている。また姜夔の『続書譜』の説によると、黄庭堅は蔵真(懐素)の草書三昧を得たといわれるが、彼の時から古意が失われて書風が一変したといっている。
南宋と元代においては、懐素を学んで名を知られたものはほとんど見られず、ただ金の章宗朝の士大夫の間に懐素の書を習う者がいたようである。
明人の多くは晋唐と宋とを併せ学んで、その上に自己の個性を完成するのが通例である。彼らが概して草書を愛したのも、草書がもっともよく個性を表現するからであろう。董其昌の言葉によると、この時代において懐素の書を学んだもので、本格的な趣を得ているものはきわめて稀である。徐有貞、祝允明、張弼、莫是龍たちはそれぞれ懐素を手に入れているし、豊坊もその一斑を得ているが、しかし狂怪怒張のすがたとなって、その本旨を失っている。
張旭に対して懐素があるのは、ちょうど絵画において董源に対して巨然があるようなもので、衣鉢相承け余恨がなく、みな平淡天真をもって本旨としている。
懐素の書が狂逸であることは、すでに唐代の人が認めている通りであるが、明代の文人の草書は懐素が狂逸でありながら、古意を失っていないのに比べると、全く無軌道の個性的な書をかいたものが多かったと中田はいう。
その中にあって董其昌の平淡天真の説は、懐素の夏雲奇峯の自然さから生れでた草書三昧の境地をもっともよい意味において理解した言葉であろうとする。董其昌の「行草書巻」の巻末の狂草はまさに「自叙帖」に倣って揮毫したものとされる。
明末清初における傅山、王鐸などの草書は、無軌道ぶりをさらに徹底したもので、懐素の書風とは一層変化したものになっている。それから清代を通じて、懐素のような狂草をかく人はほとんど跡を絶ったとみている。
要するに懐素の書は各代各人により多少の変遷はあるが、文人の率意の草書の規範として、後世にながく影響を及ぼしたと中田は考えている。
最後に日本において懐素がいつ頃から学ばれたかについて述べているが、実はそれは明らかでないという。平安時代の初期において、入唐の僧空海が草書をよくし、その当時狂逸と批評されたが、まだ懐素の書風を承けているとは中田には思えないという。
醍醐天皇の「白楽天詩句」(12巻図2, 3)は懐素を学んだという説があるが(内藤湖南の説)、この書巻の酒字の筆法はいわゆる折釵股と呼ばれているものではないかと疑われるもので、日本における張顚素狂の書風を得ているものの無類の逸品であろうという。
「賀歌切」(12巻図61-63)、「綾地切」「絹地切」(12巻図64)に見られる草書には、唐に流行していた草書の風が背景をなす点もあるが、懐素の影響を直接受けているものではないと中田はみなしている。
何よりも日本においてもっとも懐素の影響を受けたものとして特筆すべきは、江戸の僧侶良寛であろうという。良寛は「自叙帖」を学び、また「草書千字文」を学んだといわれる。その書は董其昌のいわゆる平淡天真の趣を得た点においては明人を凌ぐほどのものがあるといえ、今なお日本の多くの人々の崇尚を集めている。懐素の書風は良寛和尚を通じて日本の好事者に浸潤し、その生命を保っていると中田は述べている(中田、16頁~22頁)。

浮図と経幢     塚本善隆
浮図あるいは浮屠、仏図は普通には仏陀と同じ梵語Buddhaの音訳とされている。ところが、亀茲の鳩摩羅什が405年に長安で訳した「智度論」などには、これを塔の意味に用いている。少なくとも華北では、5世紀からすでに塔を浮図と呼んでいた。塔はStupaの音を略して移したもので、元来仏陀の遺骨あるいは髪爪などをおさめた特殊な建造物で敬慕礼拝の対象となったものである。
仏教教義の発達、仏像の製作普及に伴って塔にも著しい変化発達があった。とくに中国伝来の仏教の主流となった大乗経では不滅の仏が永住する荘厳華麗な高層宮殿としての塔が盛んに説かれた。
諸仏典は塔の造営や供養の功徳を強調している。仏の遺骨遺品をもたぬ中央アジアや中国に仏像をもった仏教が興隆する時、ことに聖人賢者をまつる廟をもった中国で、仏像をまつる廟としての塔(塔廟という)が建立されるのはむしろ当然であった。
このような仏像をまつった塔廟をとくに浮図というようになったものか、あるいはインドでは仏の塔のほかに、阿羅漢の塔や居士の塔もあったので、とくにBuddha-Stupaという合成語が行われ、その西北インドや中央アジアの俗語が浮図と音訳されたものかもしれないと塚本は推測している。
さて塚本が本稿でとりあげた浮図は、中国の金石学者が注意した一類の石造浮図である。仏寺の中心的建物として造られた数百尺の大塔ではない。こんな大建築は莫大な費用と工人とを要し、士庶の手にあうものではない。一方、造塔の功徳を信ずる士庶の仏徒は造像と同様にその力に応ずる石の浮図、塔の第一層に仏像をまつり、その外壁に石浮図造立の銘記を刻んだ高さ10尺内外の塔廟をつくって仏に捧げるようになった。金石書の著録によると、大体において石浮図の建造は造像が盛んになってきた北魏にはじまり、唐に盛んとなり、その玄宗時代まで続くが、この後にはほとんど見られない。
次に金石書にのせた石浮図を抄録しているが、中でも房山雲居寺にある石浮図を現地について調査したという。
 唐 王激石浮図銘     景雲2年(711)    
 唐 田義起造七級石浮図頌 太極元年(712)
それらは7層あるいは9層の塔の最下第1層が板石で囲んだ仏室をなして内に釈迦あるいは阿弥陀の三尊像がつくられ、その対面が入口をなして二王を配し、また一面外部に造浮図の銘記がほられている。
次に経幢は、ほぼ則天武后の時代から現われ、開元・天宝時代に石浮図とともに多く造られたが、石浮図が姿を消す中唐以後、宋元時代まで引き続いて、造立されて中国の仏教石刻界をにぎやかすものである。造像や石浮図と同様に華北に多いが、その普及度は頗る高い。多くは八角の柱の各面に経ならびに建立の縁由を刻んだもので、その柱はふつう蓮華台上に建てられ、頭に蓋をもつ。経は、般若心経、金剛経、弥勒上生経、父母恩重経などがあるが、咒(陀羅尼、真言)が多く、とくに仏陀波利が伝訳した仏頂尊勝陀羅尼経が圧倒的に多く(図108)、これを尊勝幢子とも称している。
そもそも仏典の幢は梵語のDhvajaを訳したもので、幢幡とも熟字する。仏・菩薩などの側にその威徳を示すために建てられた柱である。
さて、各面に経を刻した石幢が多数造られたのは中国仏教界の特異の現象であるが、塚本はなぜこのような経幢が則天武后時代頃から盛んに造られ出したのであろうかという問いに対して、次の3点の回答を述べている。
①第1には、幢のことをしきりに述べている華厳経も観無量寿経も、唐の初頭から盛んに行われ則天武后時代にとくに普及した点を挙げている。華厳経による華厳宗は則天武后時代に大成し、観無量寿経を中心とする浄土教は高宗時代の善導によって大成し盛行された。仏の周辺を荘厳しあるいはその威徳を顕彰するために幢が捧げられることを説いている経によって信仰が盛んに鼓吹された時代に幢の製作がおこるのは不思議でないと塚本は考えている。
②第2には、隋唐に入って経を石碑に刻して保存する事業が盛んに行われたことを指摘している。経を碑に刻むことが流行していた時代に現れた幢に刻経が結びつくのも、文字を神聖視する中国では自然な進みであろうとする。
③第3に、唐代は五台山信仰が盛んな時であったことと関連するという。中国仏教界第一の霊地五台山の霊験に結びついた伝訳縁由をもって尊勝陀羅尼が盛んに流布された。この尊勝陀羅尼経は、次のような霊験説話を伴って弘まったようだ。つまり五台山に現に在住するという文殊菩薩を拝もうとはるばる印度から来た仏陀波利は、山で一老人から、今の衆生の罪を救うのは仏頂尊勝陀羅尼のみであり、この経を将来して漢土に弘めて衆生を利し幽冥を済ってこそ、文殊菩薩にもあえるとさとされたという。その尊勝陀羅尼経は、「この陀羅尼を書写して高幢上に安ずれば、遥かにこの幢を見る者、近づいて幢影を身にうけるもの、風に吹かれた幢上の塵を身にうける者、すべて罪業を消滅して苦界に落ちることを免れる」と説いている。
石幢は比較的容易に造り得るものであるから、経幢とくに尊勝幢子の出現盛行が中国仏教界に起こったのであると塚本は解説している。
このように唐の経幢は石浮屠と同様に聖地や仏寺に建てて仏に捧げ、一切衆生の救済を期するものが多かったが、次第に個人の墳墓に建てる墳幢が造られ、とくに宋元時代には僧の墓標として建てられる経幢が多くなってきているという。
また本書に掲げられた顔真卿の「八関斎記」(図52, 53)を刻した八角柱も経幢の類というべきものであると塚本は説明している。この「八関斎会報徳記」(大暦7年[772])は、高さ1丈1尺を越える八角柱、すなわち幢の各面に行28字5行に、顔真卿の撰文正書を刻んでいるものである。そもそも八関斎会とは、在家の仏教信者が一日一夜を限って八戒を受持し、仏事に専念する特別修道会であると塚本はその図版解説で記している(塚本、23頁~26頁、162頁)。

唐代の用筆法    中田勇次郎
唐代は書法のもっとも発達した時代であり、それに関する著述も少なくない。例えば、唐の韋続の「墨藪」、宋の朱長文の「墨池編」、陳思の「書苑菁華」にその大部分がまとめられている。
この時代の初期から中ごろまでには魏晋以来の書風が盛んに行われたが、張旭、顔真卿が出るようになって書風が一変した。この時代におけるこの種の著述のほとんどすべては、魏晋以来の伝統的書法の伝授口訣のたぐいで、中ごろ以後に起った新書風について述べたものは、ほとんどないといってもよい。
これらの著述の作者には、例えば唐太宗、虞世南、欧陽詢などのような名家の名が充てられているが、実際においてはこれらの人々が自分で著わしたかどうかは疑わしい。おそらく多くは後人が名家の説を祖述して、一家の流儀を立てるための秘伝書としてつくりあげたものと中田はみている。
これらの著述を内容の上から大別すると、書法を述べるにあたって、その精神的修養の面を併せて論じたものと、技術的な面だけを解いたものとがある。技術的な面を解いたものは、執筆法、運筆法、筆勢、点画、間架結構など多方面にわたっている。
中田は、以下、その概要を述べている。
唐太宗には論書、筆法、指意、筆意(墨池編)と筆法訣(菁華)があり、虞世南には、筆髄(墨藪、墨池編)がある。唐太宗の筆法(虞世南の筆髄、契妙の条の一部分と同文)に字を書くときには目をそらさず耳を傾けず、無念無想になって、すなおな心と和らいだ気象をもってすればよい字がかける。心が正しくなければ字はゆがむし、気象が和らいでいなければ字はひっくりかえるといい、書道は深奥なもので、心に悟るところがあってはじめて書けるもので、技術だけで書けるものではないと述べている。
唐太宗の筆意には宋の王僧虔の筆意賛と同文の部分があるが、書を学ぶことの難しさは、神彩(精神のあらわれ)を第一とし、形質(技巧の生みだしたもの)を第二とし、これを兼ねたものが古人に及ぶことができるといい、心をして筆を忘れ、手をして書を忘れしめる境地を説いている。
孫過庭の「書譜」は、唐代の書道の概論としてもっとも信頼することができ、またもっともすぐれたものである。これにも魏晋の書道の本義を説き、心と手、精神と技巧が両つながら、すぐれたものをよいとし、高い精神が熟した技巧をともなって、入神の妙境に到達することを説いている。
唐代の書道の根本精神は、斉梁の書論の伝統を承けていると思われるもので、唐太宗、虞世南および孫過庭の三家の説のひとしく説いているところは心手合一の境地である。
欧陽詢には伝授訣、用筆論(墨池編)、八法(菁華)、三十六法(書法鉤玄)がある。伝授訣に、はじめて字を書くときに大切なことは、筆が円正であり、気力を重んずることにある。文字は形がよく調い、長短疎密が中和し、遅速肥痩がかたよらず、自然なすがたを備えているのをよいとするという。
やや時代は下るが、徐浩に「書法論」がある。それには初学においては筋骨を第一としなければならない。筋骨がなければ肉のつくところがない。筆を用うるには蔵鋒でなければならない。筆鋒が蔵されていなければ字に欠点が生ずる。欠点がなくならなければ字にならない。字形は疎密大小いずれに片寄ってもよくない。筆勢は徐捷平側いずれに偏してもよくないという。
両説ともにやはり魏晋の古法を守っているものと解されるもので、書法における自然中和の道を説いている点は同様である。
また李華の「論書(菁華)」に、大抵、字は拙でもよくないし、巧でもよくない、現代風でもよくないし古風でもよくない、華実が相半するのがよいのであるという。これも自然中和の道と類似した考え方から出たものであろうと中田はみている。
以上、唐代における書法の一特色として、調和された美しさを完成することが一つの規範となっていたと中田は考えている。
さて技術の面においては、唐太宗、虞世南いずれにも虚掌実指の説をあげているのが注目される。これは指に力を充実し、掌中に鶏卵1個ほどの空間をおく(盧雋の臨池妙訣)法であって、唐代において尊ばれているのみならず、後世にも書法の要訣として重んじられている。
もう一つ、徐浩の書法論にも述べられている蔵鋒の法(出鋒に対して用いられる言葉で、筆鋒を露出させないようにかく法)は、この時代においてよく説かれるところである。晋の王羲之の書法の一つとして、虚掌実指についで重要なものとされている。後世では清の王澍がこれについて詳細に論じた説があり、翁方綱が晋法といって尊んだのも、この法である。
技術に関してもっともまとまった説を立てているのは張懐瓘である。彼には玉堂禁経、用筆法、書訣(墨池編)があり、また用筆十法(菁華)があり、著者不明の翰林密論二十四条用筆法(菁華)も彼の説に基づいている。
玉堂禁経によると、字をかくには第一に用筆、第二に筆勢、第三に結法を学ぶ。この三つを兼備してはじめて字が書けるようになるとした。
用筆の法としては、「永字八法」をあげている。この法は側勒弩趯策略啄磔(弩は努、略は掠とかくものもある)の八つの書法を示したもので、もとは隷書から起り、後漢の崔瑗(子玉)から鐘繇、王羲之以下ずっと伝授されてきたもので、これによれば、あらゆる文字がかけるという。
筆勢としては、鉤裹勢などの五勢をあげ、用筆として頓筆など九用をあげ、偏傍筆画における筆勢の相違を、烈火、散水など十一条についてのべ、結裹法として十種の結体の法を説いている。
以上の中、「永字八法」はその伝承についてのいろいろな説があり、またその解釈についても諸家の相異なった見方があって、楷書の書法の根本原則として後世にもっとも重んじられるところとなった。
李陽冰に筆法(墨池編)があり、点画方円の法を要説しているのは張懐瓘の筆勢の説とほぼ近いものである。また李陽冰の著書とされている「翰林禁経」には九生法(菁華)がある。これは筆紙硯水墨手神目景の九つのものにおいてみな生新であることを尊ぶ説で、孫過庭の「書譜」の五合五乖の説とともに、用いる材料や書くときの心理環境との関連において説かれている点がおもしろいと中田はいう。
顔真卿には述張長史筆法十二意(墨藪、墨池編)がある。顔真卿が張旭から十二の筆意すなわち平直均密鋒力軽決補損巧称を授かったことを述べたものであるが、これは張彦遠の「法書要録」に載せられている梁武帝の「観鐘繇書法十二意」と同じもので、張旭がこれを手に入れて顔真卿に伝えたということになっている。
唐の後半になると、精神的修養の面を説いたものは、柳公権の心正しければ筆正しというような言葉も伝わってはいるが、概して少なくなり、主として執筆法に関する秘伝が多くあらわれてきている。韓方明の授筆要説は筆管を把る五つの方法について述べたもので、日本の空海の書訣に執筆法および使筆法を説いているのはこれに基づいたものであるとされている。
張旭、顔真卿が出た頃から魏晋の書風が次第に衰微して、また別に新しい書風が起こってきた。魏晋の書風は典型を尊んだので伝授口訣を必要としたが、新しい書風は師授のほかにみずから体得することを尊んだので、従来の伝授口訣の形式によって相伝することはほとんど行われなくなったと見えて、そういうものは稀である。
顔真卿は褚遂良から伝えられた錐もて沙に画し、印もて泥に印する蔵鋒の法を陸彦遠に学んだといわれるが、彼の蔵鋒はいわゆる古法のそれとは異なり、さらにその上に高い忠誠の気象を盛り上げて新しい書風を作り出した。顔真卿には屋漏痕の法があったといわれ、その作の中では極めて特殊なものに属する「裴将軍詩」(図70, 71)が例としてあげられるのが普通であるが、この法は宋の姜夔の説によると起筆と止筆の痕跡がないように書く法であり、これを清の康有為の説のようにまた蔵鋒と解するならば、彼の他の作にも通ずる全般的な特性として見ることもできるであろうと中田は述べている。
張旭と懐素は酔中の率意の草書によって新しい書風を作りだした。張旭には折釵股、懐素には壁拆の法があったといわれる。折釵股は張旭の草書帖、例えば長尾雨山旧蔵の真蹟巻の道字、観字、耳字に見られるような釵脚の形をした筆法を指すものであろうが、姜夔の説によると、屈折するとき円にして力のあるようにする法であり、釵股というのは李陽冰の篆書を批評するときに用いられているように、篆書の法を意味するものであるところから考えると、張旭の草書に篆書の法が応用されていたことを示すものと中田は解している。
また懐素の壁拆は屋漏痕に対して壁の裂目を意味するものであろうが、同じく姜夔の説においては、布置の技巧の見えないようにする法という。これはおそらく懐素の連綿遊絲の草書における筆路の自然さを示したものであろうとする。
屋漏痕、折釵股、壁拆いずれも物象によって特有の技法を示したのであろうが、同時にそれぞれの作者の用筆全般における特殊な性格を表わしたものと中田は解している。
唐代における書の技術は、伝統的書風と革新的書風の流潮に伴ない、互いに相違しているが、伝授口訣の形式によって伝えられた伝統的書風に関する記録が大部分を占め、新しい書風に関するものは大体この程度のもので、それも唐代においてよりもむしろ次の宋代において多く論じられることになる(中田、27頁~29頁)。

五代の文化と書   那波利貞
大唐290年間が終わると、五代十国の時代の群雄割拠の時代が続く。短くみて54年間(907-960)、長くみて約80年間(907-979)諸国が興亡し、主権の所在からみると乱世であるが、必ずしも年々随所で戦いがあり、四民が流離狼狽していたわけでない。長年平和の存続した国々では、72年間平和の呉越、61年間平和の南漢、39年間平和の南唐などである。
所々地域的に無戦状態が連続し、国庫が充実し、平和な国々が出現したので、地方的に文化地帯が発生し、これら諸君主中に風流文雅な人々が輩出した。例えば、南唐は烈祖李昪(りべん)、中主李璟(りけい)、後主李煜(りいく)3代39年の国であるが、その根拠地が六朝文化の栄えた金陵(南京)で、山川風物の美と君主の好尚の風流優雅と相まって、隋唐文化の継承地、宋元文化の先駆地たる観を示した。
李璟・李煜ともに詞の作家として傑出していた。そして後主李煜の妻昭恵皇后周娥皇は29歳で若死し、これを哀惜した後主が皇后愛用の琵琶と合葬したといわれるが、非常な才女で学者であり、書史に通じ、歌舞をよくし、琵琶の名人で南唐第一流の音楽家であった。
また南唐は五代列国中最も多数の画家の出た国であった。北宋の山水画家の李成、范寛と並べて三大山水画家とされる巨匠董源もその前半生は南唐人であった。
南唐で絵画が栄えたのは、その天然の風土山川景物の優雅な沢国水雲郷の地の利がそうさせたこともあるが、同時に君主の保護奨励に負う所が多大で、後主李煜は早くも画院という絵画奨励の政府機構を設置して、北宋代に有名な宣和画院設置の先鞭を付した。
南唐宮中は書籍美術工芸品の襲蔵に富み、これらには印影を押捺し、書道に巧みな宮中女官保儀の黄氏という女性が保管整理に任じ、同時にこの教養ある宮女は後主の風流文雅の話相手でもあった。
後主は多趣味でかつ凝り性の人で、宮中所属の製紙工に命じ、桑皮を材料として優秀な紙を造らせた。これが有名な澄心堂紙である。これは単に良質の紙というよりか、むしろ美術工芸品というべきもので、中国として空前絶後古今第一等のもので、烈祖(李昪)の書斎の雅名から命名された。北宋版の書籍にはこれを使用したものがあることを明の王世貞はいっているが、宋の欧陽脩の『新五代史』、宋の『淳化閣帖』の印刷にもこれが用いられた。
また大唐末の製墨の名人奚鼐(だい)の子の奚超は、その子奚廷珪と中原の兵乱を避けて金陵に移住したが、南唐宮廷に仕え、李氏の姓を賜りて、李廷珪と称し、その兄弟とともに、製墨法に中国空前の新法をはじめた。耿氏、盛氏とともに製墨家として知られ、この三家の精製による南唐の墨は空前の名声を伝えている。
このような紙や墨の優品の製出と相表裏して書道も能筆家が多いといわれる。殊に中主、後主の側近者はこれに秀でた。中主李璟は晋の羊欣の筆法を学んで楷書を巧にし、その筆致は積学の致す所で遇合の規矩に非ずといわれ、呉越国主銭鏐(りゅう)、後梁太祖の臣の薛貽矩(せついく)、後唐の豆盧革、王仁裕、後漢の楊邠と伍して五代の楷書の第一流である。
後主もまた書道の名人で、大唐の柳公権の筆意を慕いて堂に入る技力があり、筆や紙帛にかかわりなく意の如く揮毫し、当時「撮襟書」といわれ、また喜んで顫(せん)掣の勢すなわち顫筆の書を作るのでその形状より「金錯刀」という世評を得、「書述」1巻の著書がある。
楷書も巧であるが、特に行書に勝れ、痩硬の筆を揮うて名人であるが、字に窮谷の道人、酸寒の書生の気を帯びて富貴の味がなかったともいわれる。
北宋宮中にもその行書の春草賦、浩歌行など24種の傑作が伝えられて珍重されたという。
ところで大唐末から梁、唐、晋、漢、周に歴仕し、北宋の欧陽脩が評して五代の間独りこの第一流の人ありといった楊凝式は、晋の王羲之、王献之の書を究めて遂にこれを超逸し、その草書は大唐の顔真卿の行書と比肩するにたるといわれ、後主に仕えた潘佑と相並んでともに五代第一流の書家である。楊凝式の草書の「古意帖」、楷書の「韭花帖」、行書の「乞花帖」は宋代にも有名である。
さて南唐の宮中には魏の鐘繇、晋の王羲之以来の墨蹟を多数に蒐蔵して、前述の宮女黄氏が保管係に任じられたが、中主の保大7年(949)の吏部尚書徐鉉に命じて、これらの収蔵多数名人の墨蹟を編して模勒上石して「昇元帖」という法帖を刊行したが、これが北宋の『淳化閣帖』に先立つ集帖の最初のものといわれる。また後主の時代に大唐の賀知章の臨写した晋の王羲之の「十七帖」を模勒上石して「澄心堂帖」と名づくる単帖の法帖を刊行した。
単一個人の墨蹟のみを法帖とする単帖は五代以前の好尚で、多数人の墨蹟を編する集帖は北宋以後の好尚であるから、この南唐の両帖の刊行は隋唐中世風の好みにより、宋元近世風の好みに移行する過渡期の現象であると那波はみている。
次に南唐の南に鄰した呉越国は、太祖銭鏐、世宗銭元瓘、成宗銭弘倧、忠遜王銭弘倧、忠懿王銭弘俶の五主の国であるが、その首都銭塘(杭州)も文化の一中心地で、山川景物の優美和暢は金陵に伯仲し、太祖武肅王銭鏐は書道を愛し、吟詠を好み、文武の教養高く、子孫に詩賦を諷誦させ、あるいは自作自書の詩を将吏に与え、前述したように楷書に秀でていた。詩人で書家である餘杭生まれの羅隠と文墨の交厚く、また胡琴の名手で単に一武弁の徒ではない。羅隠は行書を巧にして大唐人の典型であり、学殖あるため、唐末乱世の浅陋な気風に影響されなかった。
そして忠懿王銭弘俶はもっとも翰墨を喜び、書は顚草すなわち大唐の書家張旭の風の狂い書きの草書を善くして、斡旋盤結の妙を得た。宋に帰順するや、宋の太宗皇帝は使者を遣わして求めさせたところ、王は絹本の旧筆蹟を贈ったので、太宗は大いに悦び、玉製の硯、黄金の手箱、象牙管の筆、蜀の良紙を賞賜してこれに酬いたという。
五代の間、今日の湖北省荊州府、湖南省長沙府、浙江省杭州府、福建省福州府、広東省広州府などにそれぞれ荊南、楚、呉越、閩および殷、南漢の国々が割拠して、政教の地方的中心を並存したことは、宋特に南宋以後の華南地方開発の素地を培ったのである。
要するに五代は必ずしも乱世暗黒の時代ではなく、各地に文物が栄えて、隋唐文化の余芳を継承して、残燈掉尾の光明を放つと共に、宋元文化の先駆黎明の曙光を兆し、また華北の文化を華南地方に伝播する機ともなり、中世期より近世期へと推移変化する中国文化の接続聯絡時代として重要な意義があったと那波は考えている(那波、30頁~36頁)。

別刷附録 顔真卿 争坐位稿



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