歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その11中国11》

2018-07-21 18:00:50 | 書道の歴史

《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その11中国11》

16中国11 宋Ⅱ
この篇には南宋高宗の建炎元年(1127)から、帝昞の祥興2年(1279)に至る153年間の書蹟を収めている。なお、金人の書蹟および宋代禅僧の墨蹟もこの篇に収めてある。

中国書道史11    神田喜一郎
宋王朝は第9代の欽宗の靖康元年(1126)にいたり、金の侵略をうけ、首都の汴京(河南省開封)を放棄し、その翌年(1127)、皇帝の欽宗、上皇の徽宗などが捕虜となって、金の本拠地に拉致された。これを靖康の難とよぶ。
この大事件の結果、宋王朝では幸いにも捕虜とならなかった欽宗の弟の康王、すなわち高宗を帝位につかせ、首都を臨安(浙江省杭州)に遷して、金の圧迫を避けた。9帝が帝位につき、1279年に元に亡ぼされるまで、152年間、南宋が存続した。
さて南宋152年間は、大勢からいうと、国運が衰え、転落の一途をたどった。それでも高宗、孝宗の二代の間は、いくらかは気力を存していた。とくに孝宗の治世においては、人材輩出、文化も興隆し、南宋の最盛期であった。
ただ南宋の文化は北宋の文化に見る気魄と剛健とを失い、爛熟したというよりも、むしろ軽佻繊弱なものに変貌しつつあったと神田はみている。これは南宋が風光明媚な臨安に安住して、いたずらに江南半壁の地に桃源の夢をむさぼっていた自然のなりゆきであろうという。
南宋一代の書道は、初代の天子高宗によって開かれたといって差支えない。もっとも高宗は国家存亡の危機に直面しながら、その再建に努力しなかったので、古来とかく悪評のある天子である。当時金に対して主戦和平の両論の対立した際において、高宗は和平論者の意見に従い、退嬰的な消極政策をとった。
秦檜を用いて岳飛を斥けたことは、中国歴史上有名な事実である。高宗は生れつき気が弱かったに相違ないが、半面さすがに徽宗の血をうけているだけあって、洗練された芸術趣味をもち、戦乱多事の際にも自ら愛好する古書画を蒐集したり、また書画の制作につとめたという。
とくに書道は高宗のもっともたしなんだところである。その筆蹟のすぐれていたことは、南北両宋の歴代の天子の中で第一と称せられている。高宗の書論である「翰墨志」には、彼自ら50年間、いまだかつて一日として筆墨を離したことがないと告白している。このことによっても、いかに高宗が書道に精励したかが窺われる。高宗は最初は黄庭堅の書を学び、ついで中年には米芾におもむき、最後には王羲之、王献之に専心したという。
高宗の筆蹟は今日これを徴すべき資料が割合に多く現存している。例えば、紹興3年(1133)に書かれた「仏頂光明塔碑」(図1-3)、紹興5年(1135)、紹興6年(1136)に書かれた「賜梁汝嘉勅書」(図4, 5)である。これらは高宗のまだ30歳に達しない時代の筆にかかり、いかにも黄庭堅の体格そのままである。
これに反して、紹興24年(1154)の書と推定される「徽宗文集序」(図20-25)は全く二王の筆法によっていて、その間の変化が著しい。この点について、宋の楼鑰(ろうやく)は次にように伝えている。すなわち、高宗が黄庭堅を学んでいたころ、宋から金に寝返りをうって斉国皇帝という傀儡政権を建てていた劉豫も黄庭堅の書を推称し、部下にこれを習わしていたところから、近臣の鄒億年というものが、もしか斉国で高宗の偽筆をつくりでもしてはという配慮から高宗に黄庭堅を学ぶことを止めしめ、高宗もまた米芾に向い、紹興の初めになって、また改めて二王を法とするに至ったのであるという。
劉豫が斉帝に封ぜられたのは高宗の建炎4年(1130)であるから、その頃まで黄庭堅を学んでいたものと神田は考えている。そして米芾の書を習ったのは数年に過ぎず、間もなく二王に転向したものと見えて、紹興の初め、既に王羲之の「楽毅論」を臨書している事実も伝えられており、紹興7年(1137)には王羲之の「蘭亭序」を臨書した事実も伝えられている。そして中年以後にはこれを全く自得したようだ。ともかく高宗が黄庭堅、米芾、二王という学書過程を経たことは確かな事実で、この三つの典型こそはすなわち南宋の書道を決定したところのものであると神田はみている。
二王の典型は何といっても中国書道の正統である。その強固な根底を揺さぶることはできても、これを打倒することは困難である。唐の顔真卿以来、その打倒につとめたものに五代の楊凝式、宋の黄庭堅など有力な書家が出ている。しかし絶対的な勝利はついに勝ち得なかった。二王の伝統は常に脈々としてその生命を持続しつづけたのである。
南宋になっても、第一に高宗が中年以後二王を信奉した。高宗の子孝宗も書法を善くしたが、家庭の法度を失わなかったといわれている。今、京都の東福寺に伝わる「宋拓御書碑」(図39, 40)や、その真蹟「法書賛」(図41-44)を見るならば、孝宗もその二王に私淑したものであることは明らかである。
寧宗、理宗、度宗の南宋の各帝も、また書名があるが、いずれも高宗の筆法を学んだといわれていて、二王の範囲を逸脱するものではなかったようだ。こうした帝王の好尚は一般に大きな感化を与えた。二王の書法の教科書ともいうべき『淳化閣帖』は、南宋になっても各地で多少の改編を加えて飜刻された。紹興11年(1141)に高宗の勅命をもって臨安の国子監で刻された「紹興国子監帖」、咸淳年間(1265-1274)に名高い賈似道が門客廖瑩中をして刻せしめた「世綵堂帖」はとくに著名なものである。
また王羲之の「蘭亭序」については、南宋時代には士大夫の家でこれを石に刻しないものはなかったといわれるくらい流行した。したがって、『淳化閣帖』や「蘭亭序」を専門に研究することが盛んになり、例えば姜夔(きょうき)の「絳帖平」、曹士冕の「法帖譜系」、桑世昌の「蘭亭考」が現れた。これらは北宋時代の黄伯志の「法帖刊誤」や劉次荘の「法帖釈文」の系列につながる書で、必ずしも南宋に至って新しく起った研究ではないが、北宋時代よりも一層盛んになった。
こうした気運の生んだ書家としては、虞允文、呉説(ごえつ)(図33-36)が知られている。虞允文の書は「停雲館帖」に尺牘が一通見えているが、そう名人とも思えないと神田は評している。呉説は唐の孫過庭を学んだともいわれていて、いくらか姿媚に過ぎるが、虞允文よりも遥かに勝っており、南宋時代に二王の典型を習ったものとしては、高宗につぐ大家であろうという。その「遊絲書」(図33, 34)というものは、彼の創意に出た一種の連綿体であるが、もとより正格のものではないようだ。
次には米芾の典型である。高宗がこれを喜んだことは、紹興11年(1141)に米芾の書ばかりを輯めて10巻の法帖を刻していることによっても知られる。その頃高宗は、もう二王の書法に転向していたと思われるにもかかわらず、米書を刻しているのは興味深いと神田はいう。
それに高宗の身辺には、米芾の子の米友仁(図26-32)がいた。米友仁は高宗に仕えて、その古書画の蒐集を助けた人物であるが、父の風格をそっくり伝えた風流な文人で、自ら書画を制作することにも卓越した技倆をもっていた。しかし何といっても父には及ばなかったらしい。
この米友仁よりも一層すぐれて、米芾の典型を伝えたのは呉琚(ごきょ)(図61, 62)である。その米書の真髄をえていることは明の董其昌も絶讃している。大体、南宋の初めには米書が流行し、おそらく寧宗の時代あたりまでは米書は一般に愛好されたようだ。そうして宋末になって、張即之を出すことになった。
最後に黄庭堅の典型であるが、これまた南宋の初めに流行したもので、その中とくに傑出していたのが范成大(図45-56)である。宮内庁書陵部に蔵する宋拓の「贈仏照禅師詩碑」(図45-48)は、その書蹟を窺うにもっとも重要な資料であるが、これを見ると、黄庭堅に米芾を加味している。当時范成大と相並んで書名の高かった張孝祥や、范成大と親しかった姜夔も、ほぼ同じ傾向であったようだ。これらの諸家を黄庭堅の典型を奉じた右派と神田は称している。
それに対して、左派ともいうべき一派は、黄庭堅から進んで唐の懐素や張旭の書法を学んだ人々をさすとする。王升(図37, 38)とか陸游(図59, 60)とかがその代表である。陸游は南宋第一の詩人と称される放翁で、自ら「草書は張顚を学び、行書は楊風を学ぶ」といっていた。張顚は張旭、楊風は五代の楊凝式である。陸游の理想としたところを推察することができよう。
以上、二王、米芾、黄庭堅の三つの典型について、それぞれの信奉者を神田は挙げている。南宋の書家はその範囲をでることができなかったのみならず、とくに卓出した斯道の大家ともいうべきものも出なかった。そうしていよいよ萎靡してしまおうとした時に、生れ出て、わずかに掉尾の勇を振うたのが張即之であったという。
南宋の最後の書壇を飾った張即之は、中国では古来毀誉褒貶まちまちで、これほど評価の定まらない書家も稀らしい。これには多少の理由がある。
張即之は緇流の人ではなかったが、平生から禅僧と深い関係をもち、その一人に無文道璨がいた。その道璨には「無文印」という詩集があり、その中に見える「贈開図書翁生序」と題する文章の中に、「書学は鐘繇、衛夫人に厄せられ、大いに王氏父子に壊(やぶ)れ、弊を褚(遂良)・薛(稷)・欧(陽詢)・虞(世南)に極む」とある。これは実に、王羲之、王献之の父子をもって書法の聖と仰ぐ正統派にとっては爆弾宣言ともいうべき過激きわまる言葉である。この言葉はもちろん道璨の言ったことになっているが、道璨は30年の久しきに亘って書法を張即之に学んだというから、おそらく張即之の平生の教示をそのまま述べたのであろうと神田は推測している。
そうすると、張即之が書道に対して、どういう意見を抱いていたかがよくわかるのであって、正統派から見るならば極端な異端者であったわけである。これは張即之の深い禅的教養からきていると神田は考えている。つまり禅では一切の権威を認めず、直に自己を見性するだけであり、張即之の書もまたこの根本思想から発足しているとみている。
それだけ正統派には邪悪醜陋なものに映ったに相違ないが、その反面これまでの書法には全然見られなかったところの著しい個性の躍動を認めないわけにはゆかないという。ここにいろいろ毀誉褒貶の分れた所以があると神田は考えている。そういう意味において、張即之は中国書道史上特異な書家といわれる。
張即之の書蹟は、当時金王朝でも喜ばれたというが、日本でも鎌倉時代に禅僧によって多くもたらされた。その中には名品が少なくなく、京都の智積院に蔵する「金剛経」(図81-86)はその例である。また中国から舶載され、京都の藤井有鄰館が所蔵する「李伯嘉墓誌銘」(図75-80)がとくにすぐれている。
張即之の書はいったいに峭抜な中にも姿態に一種の風趣を具え、その点が一部の人から喜ばれるのであるが、何となく軽佻の嫌いを免れず、全く南宋文化の特質を象徴している感があると神田は評している。
さて金代の書は、その真蹟の今日に伝わるものがはなはだ少なく、したがって論ずることは難しいようだ。金の遺民として名高い元好問の「遺山先生文集」を見ると、その巻38に「跋国朝名公書」と題した文章があり、金代の書家について、面白い短評を試みている。そこに特に賞められているのは、任詢、趙渢、王庭筠、趙秉文(ちょうへいぶん)の諸家がある。この中でもっとも傑出していたのは、おそらく王庭筠であると神田はみている。王庭筠(図92-94)は米芾を学び、その堂奥に入っていたという。その他、趙渢、趙秉文の二人は蘇軾を師としたらしく、一方任詢はいくらか書風を異にし、流麗遒勁で、二王を奉じたようで、異例であった。
金代の書は、わずかに伝わる真蹟によると、一般には北宋の蘇・黄・米の三家の模倣の範囲を出なかったと神田は考えている。章宗は北宋の徽宗を模倣して「痩金書」(図89-91)をかいたが、金王朝は上下を挙げて北宋を模範に仰いだことがわかる。
神田は南宋と金との書道史を総括して、必ずしも隆盛の運にあったとはいえないという。というのは、北宋の蘇・黄・米・蔡に匹敵しうるような大家は一人も出ていないし、むしろ衰微の時代といった方があたっているからである。
ただこの時代において、注意すべきことは、書道の研究の勃興したことである。宋人は理屈が多く、政治においても学問においても、いわば議論倒れに終わった感がある。例えば、文学においても詩話という一種の文学批評書が盛んに作られたが、書道もこれと趨向を同じくしたといえないこともないという。
古今の書論を蒐輯編纂したものとして、陳思の「書苑菁華」があり、また自己の書論を披瀝したものとしては、高宗の「翰墨志」、姜夔の「続書譜」のような名著もある。宋人は何の方面においても理窟をいうのが好きであったと神田は結んでいる(神田、1頁~8頁)。

南宋の文人、学者とその書 鈴木虎雄
琴棋書画は昔から士大夫の表芸として重んじられている。琴棋は特別の人がたしなみ、書画は大概の人がこれに趣味をもっていてかつ巧みである。書の進歩したのは何といっても晋代(4世紀)で、王羲之、王献之が出たのをはじめとして、庾亮でも謝安でも、逆賊と呼ばれた桓温でも、いずれも能書であり、また彼らは書を珍重した。
降って唐宋以後の時代は書の珍重の仕方は晋代ほどではなくとも、大抵似たものであろう。中国人は何でも古代ほど善くて、時代が降るほど悪いと見るのが通例であるが、各時代にはそれぞれの特色があるもので、一概に後代のものは劣っているというわけではないと鈴木は断っている。
ところで、開国の人主の好尚が、その国に与える影響は少なくない。高宗(図1-25)は宋の南渡以後の初代の君として江南に臨んだ人である。彼は徽宗の子として北宋文化の爛熟した後を承け、しかも材、文武を兼ね、文学にも書にも深い興味を有した人である。陸游が史弥遠から聞いたという話によると、「高宗は嘗て羲之の蘭亭に臨して、之を寿王に賜い、その帖の後に、汝は此に依って五百本を臨すべし、と記してあった」という。また臨安の大学に石経を刻させたことも、高宗の奨学の意の発露である。このような君主の下に、学問文化が衰えぬのは当然のことであると鈴木はいう。
さて、北宋では、蔡襄、蔡京、蔡卞、蘇舜元、舜欽兄弟、みな能書といわれるが、何といっても蘇軾(東坡)、黄庭堅(山谷)、米芾(元章)の3人を推さねばなるまい。
東坡は二王はもとより、顔真卿を学び、また徐浩を学んだといわれる。これについて彼の第三子蘇過は、「父は少年の頃には二王の書を学び、晩には顔平原(真卿)をこのんだ、だから二家の風気がある。世俗は之を知らず、徐浩を学んだといっているのは陋だ」といっている。
明の陳継儒はまた「東坡は王僧虔を学んだものだ、歴代の評者がかれが徐浩を学んだといっているのは、浩が僧虔の衣鉢を伝えているものであることを知らぬからだ」といっている。
王僧虔は梁の武帝時代の人で、その家には王羲之の書を非常に多くもっていたものである。名蹟を学ぶことは必要なことであるが、ただそれだけではだめである。東坡はその弟轍に与えた手紙で、「わしは書は上手ではないが、書がわかる点ではわしにまさる者はあるまい。わたしは書の心もちがわかりさえすれば必ずしも学ばなくともよいと考えている」と述べている。
東坡はおそらく名蹟を見てそれを学んだのであろうが、その形態を模しただけでなく、その書の精神を察してそれを取り入れ、それに東坡の性格が加わって東坡の書となったと鈴木は考えている。
蘇過が、「わが父は自己を書家だとはしていない。しかしその至大至剛の気が胸中より発し、手をもってこれに応じた。だから刻画嫵媚の態は見えずして、端然として冠をつけたような犯すべからざる色があるのだ」といっている。名蹟の形態を模するに止まらず、その精神を理会するということはすべての能書家についていいうることであろうとする。書品の上下、書技の巧拙は本人の性格と、名蹟の精神の理会の深浅とに基づくものと鈴木は考えている。
さて南宋の書でまず思い浮かぶのは、鎮江(南京西北)の甘露寺にあった呉琚(図61, 62)の大字である。董其昌が「呉琚の書は米元章に似て、峻峭は之に過ぐ。今京口(鎮江)北固(甘露寺のある山)の天下第一江山の六大字の額はすなわち琚が書なり」といっているのはこれである。書は日本の大正年間の初めにはなお存在していて丈壁の大字であった。琚は孝宗の皇后の侄にあたり、格別学問があったものではないが、書はすぐれている。
南宋では名臣、政事家、武人などにもすぐれた書家は多いが、ここでは文人、学者を主として鈴木は取り上げている。
詩人方面でいうと、韓駒がいる。この人は北宋から南宋へかけての人で、黄山谷の後を承けて江西派の詩風を流行させるに力のあった人である。彼の書は顔の「座位帖」から出ており、「羣玉堂法帖」に見えているといわれる。
次に南宋の詩人では、尤、楊、范、陸の4人が挙げられる。すなわち尤袤(ゆうぼう)、楊万里、范成大(図45-56)、陸游(図59, 60)である。
朱子は尤袤が筆法を論ずることの正しいことをひどく褒めているから、よほど書眼のすぐれた人であったとみえる。楊万里は米芾の帖を見て感心し、「李密が始めて唐の太宗を見たようだ」といっている。それで彼がいかに米芾に傾倒したかがわかる。
范成大は黄庭堅、米芾を宗とし、遒勁観るべしといわれている。陸游はみずから、草書は張旭を学び、行書は楊凝式を学んだという。陸游の作詩の中には酔うて草書を壁になぐり書きにしたことを述べているので、草書は得意であったようだ。朱子は「務観(陸游)、筆札精妙、意致高遠」と称している。陸游の筆札は今日見ることができる。
南宋の散文家は浙江省に多い。王十朋、楼鑰、葉適、薛季宣、陳傅良、みなそれである。王は帖があるとのことだが、書風はわからない。葉は蔡襄の風ありといわれ、楼は大字を善くし、高宗の時、勅を奉じて太学の扁額を書いた。薛は行草を書かずに正書ばかり書いた。陳は字画遒媚であったという。
次に塡詞(詩余)家には、張孝祥、姜夔などがいる。
張孝祥は張孝伯の兄で、高宗は彼の書を遒勁で顔真卿だとほめた。彼の状元及第のおりの策文、詩、書はひどく高宗に喜ばれ、秦檜はこれを三絶だといい、「君の詩や書は何に本づくや」と問うたら、彼は「杜詩を本とし、顔字を法とする」と答えたという。彼の侄に張即之があって、この人は大字が得意で、好んで杜甫の古柏行を書し、その書はきわめて金朝の人々に愛重されたという。
姜夔は学問あり、詩余を善くしたが、音律に精通し、彼には楽曲に合わすべく作られた歌曲がある。「白石詩説」という詩話があって詩眼の高かったことが窺われ、書では『続書譜』があって書法に詳しい。彼は「議論は精到、用志は刻苦にして、筆法は能品に入る」といわれ、趙孟堅は彼を「書家の申韓(申不害、韓非、ともに法律家)である」といっており、書眼の厳精なことを指した。彼の書は幸いに今日見ることができる。
最後に宋代特別に発達した性理学(道学)の学者について鈴木は瞥見している。北宋の二程子すなわち程顥、程頤兄弟は謹厳な書風をなし、道士陳摶は「字体雄偉、古人の法度あり」といわれ、その書の石刻は今なお華山に遺されている。
南宋の理学者には能書の人は少なくない。理学者では朱熹すなわち朱子(図63-68)はもっとも名高く、彼の書は多くの人が賞讃している。あるいは「かつて朱子の簡牘数枚を見るに、けだし魯公(顔真卿)の座位帖を法とす。行辺の傍注も復た宛然として意致蒼鬱、沈深古雅、骨あり筋あり韻あり、しかるに書をもって名あらざるは学之を掩うをもってなり」といい、あるいは「晦翁(朱子)の書は榜額のほか多く見ず、端州の友石台記は鐘太傅(魏の鐘繇)の法に近く、また分隷の意あり」といわれている。
彼の天光雲影、光風霽月などの諸大字は皆当時存したという。彼の行書では故長尾雨山翁の所蔵であった「論語集註」の残巻、草稿の一部分は鈴木は見たことがあるそうだ。
朱子の薦めた楊簡は、翰墨においてもっとも謹厳をきわめ、四方に酬答する書簡には一字も行体がなかったという、その厳正な性格の現われである。その書風ははなはだ文正公(北宋の范仲淹)に類して、清勁はこれに過ぐといわれる。朱子の学敵には陸九淵があったが、その兄陸九齢は能書で謹厳であったといわれる。それから朱子の学統である魏了翁は篆隷に工であったといわれ、真徳秀は「その書は草々に作ったように見えるが、草々に作ったものでなく、晋人の筆法を用いずして法の外に出ずるものがあるのは、その胸次が高落であるため筆がおのずから他と同じくないのである」といわれる。
その他、忠臣では岳飛、奸臣には秦檜、史弥遠、史家には李心伝がおり、みな、それぞれ書の見るべきものがあったという。岳飛の「出師表」は日本の薩摩藩に伝えられ、西郷南洲(隆盛)はこれを学んだという。岳飛は詩文をも能くし、その奏疏稿の筆蹟は今に伝えられている。秦、史二人は人物において非難を受けているが、その書風には観るべきものがあったという。
このように見てくれば、南宋においては文人、学者をはじめ社会の上流に位するものはほとんどみな書風に意を用いざる者はなく、その中傑出せるものは、他の時代のものに比して遜色なく、否、別に特色あるものを産出していることが知られるであろう。古人が「書は心の画なり」といっているのは道理である辞であると鈴木は述べている(鈴木、9頁~13頁)。

朱子とその書    宮崎市定
朱熹、あざなは元晦または仲晦、号には考亭などいろいろある。文公はそのおくりなであり、学者は尊称して朱子という。
朱子の本籍は徽州婺源県万年郷松巌里にあり、徽州は別名を新安郡というので、朱子は自ら新安の人と名乗る。祖先いらい、土着の農家であったらしいが、朱子の父朱松がはじめて北宋末に太学に上り、卒業して福建地方の官についた。間もなく北宋が亡び、天下が大乱に陥ったので故郷に帰って親を侍養したが、南宋の高宗が臨安に都を定めて、東南を確保したので、朱松は召されて中央の官職につき、47歳で卒した。
時に朱子は14歳の年少であったから、父の友人である劉子羽に依り、建州の崇安県、建陽県を転々として、その指導の下に受験勉強をした。19歳で進士となり、泉州同安県の主簿に任じられて官吏生活の第一歩を踏み出した。このように朱子は福建地方と縁が深いので、彼の学を閩学ともいう。
しかしながら朱子の官界における履歴は決して華やかなものではなかった。彼が実際に官吏として働いたのは、地方官として9年、中央政府で40日と称される。地方官としての朱子は余りに正義感が強すぎ、地方政治の弊害を見ると坐視するに忍びず、非違を弾劾し、民利を興建するに熱心で、その性急なことは王安石以上であったらしい。剛直で、圭角があり、中央の大官と衝突しても、自己の意志を押し通そうとしたので、彼の地方官としての地位は永続きしなかった。
朱子は地方官は単なる行政官であるばかりでなく、同時に教育者でなければならぬと考えた。だから、政務の暇に、学徒を集めては経書を講じた。彼が南康軍の知事となった時、管内の盧山にある白鹿洞書院が荒廃していることを聞き、これを復興した講学の所としたのは有名な話である。地方官として思うように手腕を振うことの出来なかった朱子は、学問、教育を通じての社会の再建に志した。それは官学の教授になることではなく、私学を振興することであった。私学とは建物のことではなく、学徒の講学のことである。幸いに当時、祠禄という制度があって、実際に責任ある官吏の地位につかなくても、国立の道教廟観の管理をするという名目で、休職手当を貰うことができた。朱子は官吏資格を得てから50年間、ほとんど休職手当の貰い通しであった。その手当は豊かなものではなかったので、貧乏をしながら、同じ貧乏な学生を集めて講義をし、著述を行った。
朱子一派の私学が次第に盛大になると、これが道学と称され、あるいはこれを偽学として排斥する者をも生じた。たまたま天子光宗は暗愚で、その皇后に制肘を受け、失徳があったので、宗室の趙汝愚が太皇太后の甥の韓侂冑(かんたくちゅう)と計り、光宗を上皇にまつりあげ、位を子の寧宗に譲らせた。
趙汝愚は宰相となると、朱子を抜擢して侍講に任じ、大いに道学者を登用しようとしたが、間もなく韓侂冑の陥るところとなり、朱子は40日で政府を退き、趙汝愚は流されて配所で卒した。ついで道学を指して偽学となし、偽学の禁が発せられ、趙汝愚以下59人を偽党と名付け、籍を造って、その登用を禁じた。これがいわゆる慶元の党禁である。こうして朱子はいよいよ失意の中に、慶元6年(1200)、世を去った。
その後、理宗の時代になると、道学は朝野を風靡して、儒教の正統と認められるようになり、朱子は太師、徽国公を贈られ、孔子の廟に従祀されるにいたった。
朱子は中国における近世的哲学である宋学の大成者であると同時に、いわゆる東洋道徳の樹立者でもある。おそらく今日でも、日本、中国、朝鮮を通じて、意識下にある道徳思想の地盤を求めたなら、それは朱子学であろうと宮崎はみている。その「朱子家礼」が冠婚葬祭の儀式を定め、中国や朝鮮で襲用されてきたところを見ると、朱子学は一種の宗教ともいえるとする。
名士の書を論ずるのは、書家の書を論ずるよりも難しいと宮崎はいう。大学者であるからといって、それに比例して書がよいとは限らない。朱子のような大物になると、いよいよその取扱いが難しくなる。朱子は単に大学者であるというばかりでなく、孔子の塁を摩するほどの聖者であるから、その書を余り良く見すぎてもいけないが、さりとて低く見過ぎてその徳を傷つけてもいけないと宮崎はいう。
朱子の書は王安石の書に似ていると、古くからいわれているようだ。これはいろいろ理由のあることである。彼の父朱松は王安石の書を好み、その真筆を秘蔵して臨摹したことは事実である。その友人の言葉を借りると、「朱松は道を河洛(程明道・程伊川)に学び、文を元祐(蘇東坡)に学び、書を荊舒(王安石)に学んだのは解し難いことだ」という。
こういう父の書風に感化されて、朱子の書が王安石に似てきたことは十分にあり得ることである。
ところが、王安石の書であるが、今日その真筆と伝えられるものには確かなものが少ないので、本当のことは分らないと宮崎はいっている。
何でも極端に性急な字で、日の短い秋の暮に収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だと形容される。おそらくこれは書簡や文稿についていったものと宮崎は推測している。そしてこれも理由のあることであると考えている。つまり文章をつくる時に妙思が一時に湧くと、急いでそれを書きとめなければ忽ち消えてしまうから、まごまごしておれず、着想が速く、詞藻が豊富なほど、字は忙しくなると想像している。宮崎は王安石の書をきっとそういう字であったであろうと推測している。
しかし朱子の意見によると、本来文字はゆっくり書かねばならぬものだ、というから、ここで少し戸惑いを覚えるという。北宋の名臣韓琦の欧陽脩に与えた書帖に、朱子が跋を作って、次のようにいっている。
「張敬夫がかつて言った言葉に、王安石の書は大忙中に写し来ったものだ、いったい王安石はどうしてこんなに忙しいことがあったのだろう、とある。これは戯言であるが、確かに痛い所をついている。いまこの韓琦の書帖を見、また以前に見たかれの筆蹟と照し合せて考えると、かれの書簡はたとえ親戚の目下の者に与えるものでも、常に端厳謹重、ほぼこの帖と同じく未だかつて一筆も行草の勢を雑えない。思うに韓琦は胸中が安静詳密、雍容和豫であるから頃刻も忙時なく、繊芥も忙意がない。王安石の躁擾急迫なると全く正反対である。書札は細事であるが、そこに人の徳性がそのまま現われるものであって、恐ろしく緊密なつながりがあるものなのだ。実は自分もこれについては大いに反省させられる」(『朱子大全』巻84、跋韓魏公与欧陽文忠公帖)
この跋文は甚だ面白いと宮崎はいう。朱子は王安石を借りて来て、自分の書が矢張り性急で駄目だといって謙遜しながら、韓琦の書の端厳なのを賞めているのである。これによって朱子は文字は人格をあらわすものだから、落ち付いてゆっくり書くべきだと思いながら、実は大ぶん忙しい字を書いていたことが判明する。
確かに朱子の文稿を見ると、実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字があると宮崎はいう。「論語集註残稿」(図65, 66)はそのよい例であるとする。ただし稿本の字の忙しいのは、一方からいえば、筆の動きよりも頭の働きの方が速いことを示すもので、決して学者の恥にはならないと付言している。
朱子は学問上の立場から、しばしば王安石の悪口をいうが、実際は両人の性格には多くの共通点があったようだ。政治上の意見ではほとんど違った所がない。もし朱子が王安石のように廟堂に立つ機会を与えられたなら、きっと王安石と同じようなことをやったに相違ないと宮崎はみている。そして王安石の書に対する批評はほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合があるのは決して偶然ではないとみる。
しかし以上は小字の稿本について言ったもので、大字の清書したものになると、話は異なってくると断っている。朱子の説を綜合すると、次のようになる。
「書は唐代が一番盛んであった。しかし、唐代になると各人がそれぞれ自己の個性を示そうとするようになって、漢魏の楷法が廃れてしまった。それでもまだ古来の典則というものが残っていて、宋代に続き、蔡襄まではその典則を守っていた。その後、米元章(芾)、黄魯直(庭堅)らが出て、欹傾側媚、狂怪怒張の勢を極めるようになった。なるほど確かに良い所もあるが、要するに世態の衰えたことを示すもので、人物もまた昔に及ばない」
これによると朱子は、黄・米の奔放痛快な、斜めにゆがんだ書の長所を十分に認めながらも、結局それは変態の書だと貶している。
それなら、朱子自身はどんな字を書いたかといえば、「宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑」(図63, 64)の刻文が一番確かな書だとしている。これは朱子の父の友人であり、また自己の恩人である劉子羽の石碑で、淳熙6年(1179)に、その子劉珙が建てたもので、碑文は朱子が撰しかつ書し、篆額は張栻の筆である。
朱子のこの書に対して、宮崎は少しく艶態を含んでいるが、それにも増して骨があり、シンが通っていると評している。やはり、この書に朱子の性格が現われているとみる。実際に朱子は「筆力到れば、字みな好し」と記している。
もう一つ、朱子の行体の大字について宮崎は言及している。清末、光緒19年(1893)に、呉大澂が朱子の墨蹟を得て、湖南の嶽麓書院に碑を建てて刻したものがある。「与張栻詩」がそれである。これは朱子がその友人張栻に贈った離別の詩二首で、この詩は「朱子文集」巻5に載せられている。
しかし当時の流行のように斜に傾いていず、ただ少しうますぎるようにも思えるが、呉大澂の鑑識眼に敬意を表して採用することにしたと宮崎は言い添えている(宮崎、14頁~18頁)。

宋代禅僧の墨蹟   神田喜一郎
日本では、特に禅僧の書を「墨蹟」と称して、これを珍重する風習がある。いつごろから起った風習であるかは明らかでないが、おそらく鎌倉時代に入宋した禅僧たちが、その中国留学中に鉗鎚(かんつい)をうけた諸師の書をもたらし帰り、これを珍重したのが、最初ではないかと神田は考えている。
そして禅から茶道が生まれるに及んで、その風習が茶道にうけつがれ、ますます盛んになってきた。その「墨蹟」という言葉を用いるのは特に深い意味があるわけではなく、この言葉はもともと書蹟とか筆蹟とかいう言葉と同義語で、一般に書を意味する。ただこの言葉は、古く『宋書』の范曄の伝に見えているから、すでに六朝時代に存在していたことは確かであるが、多く使用されるようになったのは宋代からのようだ。
『宋史』の真宗本紀に、「太宗の墨蹟を天下の名山に賜う」とあり、同じく職官志に「古画墨蹟」とある。南宋の末に出た禅僧無文道璨の詩文を輯録した「無文印」には「皎如晦の墨蹟に跋す」と題した文章もある。
日本の入宋僧は、当時のそうした普通の用法に従って、その日本にもたらし帰った禅僧の書を何某の墨蹟と称していたのであるが、日本ではそれがもっぱら禅僧の書を指して、墨蹟と呼ぶようになったと神田は考えている。
日本では「仏日庵公物目録」の中に出るのが古い用例であるという。この目録は北条時宗の開いた鎌倉円覚寺の塔頭仏日庵に蔵した書画を著録したもので、元応2年(1320)の編纂である。その頃からすでに日本における「墨蹟」という言葉の特殊な用法が発生していた。
ところで、神田は次のような問題を提起している。そのいわゆる墨蹟なるものは、その書者が禅僧であるという以外に、書として本質的に他人の書と区別せられねばならぬ何ものかをもつものであろうかと。それが第一に究明を要する問題であるとする。
宋代の禅僧の墨蹟として、現在日本に存する最古のものは、名高い道潜の尺牘である。道潜は宋の哲宗から妙聡老師と崇められたほどの高僧で、蘇東坡をはじめ、当時の多くの学者や文人と親交を結び、詩人としても優に専門家の域に達していた。その詩をあつめた「参寥子集」12巻は『四庫全書』や『四部叢刊』に収められている。この道潜の書は、肉筆の尺牘の外、宮内庁書陵部に蔵する「宋拓本景徳寺転輪蔵記」(15巻図111-114)によっても、つぶさに窺うことができるが、道潜は書法においても、その詩と同じく優に専門家の域に達していたようである。
尺牘は筆力遒勁、王羲之の風格をそなえているし、「景徳寺転輪蔵記」はまたそれとは別に、顔真卿から来たと思われる一種の骨力があって、蘇東坡の中年の書に似ている。これは書かれた年代が違っているためであろうが、いずれにしても道潜の書法のすぐれていたことは、この二つの遺品によって証明できる。
ところが、宋代の禅僧の墨蹟として、これまで日本で特に珍重されてきたのは、そういった本格的な書ではなく、もっと中国の古い書道の伝統とは離れたところの、いわば思いきった破格の書であると神田はいう。日本で特に珍重されている禅僧の墨蹟は、名高い仏果圜悟(えんご)禅師(図97, 98)の系統に属する龍象のものに限られている。圜悟は名を克勤(こくごん)といい、北宋の仁宗の嘉祐8年(1063)に生まれ、南宋の高宗の紹興5年(1135)に73歳で示寂した高僧である。
その頃、中国の禅宗は、曹洞、法眼、雲門、潙仰(いぎょう)、臨済と5つの系統に分れ、その臨済がまた楊岐、黄龍と2つの派に分かれていた。これを禅宗では五家七宗と称している。圜悟は臨済宗の楊岐派の系統に属した。日本の臨済宗は、京都の建仁寺を開創した栄西禅師が黄龍派を伝えているのを除くと、すべて楊岐派に属する。
したがって禅僧の墨蹟といっても、日本で珍重しているのは、圜悟の系統、すなわち楊岐派の系統に属する禅僧のものに大体限られている。
さて、圜悟の高足の弟子に、大慧宗杲(図99, 100)と、虚丘紹隆がいる。圜悟が名高い「碧巌録」の著者であることは周知のことであるが、大慧が圜悟の弟子でありながら、その師の一代の名著といわれる「碧巌録」を焼きすてて、その滅失をはかったことも、有名な話である。
ともかく師も弟子も、禅林の巨匠であった。しかしこの大慧の法系には今日墨蹟を遺しているものは少ない。墨蹟を多く遺しているのは、虚丘紹隆の孫弟子にあたる密菴咸傑(みったんかんけつ)(図101, 102)の門下である。この門下には松源、破菴(はあん)、曹源、すなわち密菴下の三傑と称される大徳が出たが、この法系から多くの墨蹟の名僧を生んだ。
ところで、それらの禅僧の墨蹟を見てみると、多くは中国の古い書道の伝統から離れた破格の書である。中国のように、あらゆる文化について古くから根強い伝統のある国では、その伝統に反するものはこれを異端として拒否する傾向が強い。したがって禅僧の墨蹟などというものは、少しも珍重されないという。
そして中国では、何時のほどにか佚亡してしまい、この点は日本と全然違う。ここに神田は日中の国民性の相違を認めている。
日本には中国のような根強い文化の伝統がないので、どんなものでも容易に受けいれる。現に日本には古来の書の伝統を全く無視したいわゆる前衛派の書が流行しているが、中国では前衛派の書というものも起こっていないし、仮に起こってもそう簡単には流行しないであろうと神田は考えている。
禅僧の墨蹟というものは、中国の古い書道の伝統からいうと、いわば今日の前衛派の書のようなものであるとみなしている。それが過去の中国において珍重されなかったのは、中国人の国民性から見て当然のことであるという。
このようにいわゆる墨蹟は、中国の古い書道の伝統から全く離れた破格の書であると神田は考えている。中国の古い書道の伝統を承けた書と区別されるのは、大いに意味のあることである。ただ中国では、これを書道の範疇には入らないものとして、全くその存在を認めないのに対して、日本では書道の一派をなすものとして、その価値を認めるのが異なっている。
ここで神田は第二に究明を要する問題を提起している。すなわち、あらゆる文化について、特に伝統を重んずるところの中国において、どうして禅僧の墨蹟のような破格の書が生まれたのであろうかという問題である。
まず、神田は禅の教えの内容について解説し、そこからこの問いに対する答えを見いだそうとしている。そもそも禅宗では、「直指人心。見性成仏」という。仏陀の境界も、畢竟われわれの5尺の身体の中に伏在している心の外にはないのであって、この心こそは絶対大であり、無限大であるが、これを徹見し体得すること、すなわち覚りが大切である、というのが、禅の教えの根本である。したがって、他の宗派のように所依の経典というものを立てず、いわゆる不立文字、教外別伝を標榜し、冷暖自知を説き、ここに禅宗の特色があるという。
そうした禅宗では、一切の権威とか伝統とかは、もちろん認めず、仏を罵り祖を呵すというようなことさえ起こってくる。こうした一切を否定する精神は、書法においても、これまで絶対的な権威と仰がれてきた王羲之の典型を否定し、古人の成法を拒否するのである。
蘇東坡の言葉に、「わが書は、はなはだしく佳というほどではないが、しかしみずから新意を出して、古人のやった跡を践んでいないのが、自分には何よりも愉快なことである」という意味のことを述べたものがある。これは全く禅の精神から来ていると神田はみている。
もともと蘇東坡は当時の名僧であった東林常総や仏印了元らに参禅したことがある。蘇東坡が禅学に造詣が深かったことは、「渓声は便(すなわ)ち是れ広長舌。山色豈に清浄の身ならざらんや」という名高い一偈によっても、よく窺われる。そうした教養がなくては、このような言葉はとうてい出てこない。
また蘇東坡の親友であった黄山谷は、蘇東坡にもまさって一層深く禅の修行を積んだ文人であったが、これまた「自分の書には、がんらい法がない」といっていた。黄山谷は古人の成法などに全く眼中になかった。
もっとも蘇東坡にしても黄山谷にしても、中国の古い文化の伝統を担った第一流の知識人であった。孔子が「述べて作らず」といった言葉は、当然その信条であったはずである。それが一旦禅学の修行を積むと、こういう態度に変わってくるという。
いわんや、最初から禅の修行を積んだ禅僧においては、書をかくのに、それこそ王羲之も顔真卿も何もあったものではなく、ただ自己の個性を天真爛漫に発揮するだけであると、神田は理解している。
したがって禅僧の墨蹟は各人の個性とか機根とかによって、いわば千差万別であり、そしてそこには共通する何ものもない。共通するのは、古人の成法に拘らないという、ただその一点にのみ存する。ここに禅僧の墨蹟の創造的価値があり、また特殊の面白味がある。そうした特殊な面白味を除いては、古来の伝統的な書道の上からは、禅僧の墨蹟に価値を認めることはおそらく困難であろうと神田は考えている。
そして神田は第3の問題を提起している。それにしても宋代、特に南宋において、多くの禅僧がなぜ喜んで書をかくようになったのであろうかという問題である。前述したように、禅は不立文字を標榜する。本来の禅の立場からいえば、詩文を作ったり、書画を試みたりすることはこれは邪道である。
しかしその禅を修行する禅僧の間に、かえって詩文を作ったり、書画を試みたりするものが多く出てきた。これは禅と芸術とは、いずれも言句をもって説くことのできない妙境があり、その極致に至っては、全く冥合するものがあるところから、宋代になると、禅僧は詩文や書画によって、禅の妙境を示そうとし、文人はまた禅によって芸術の妙境に徹しようとし、ここに禅と芸術との接近が行われた結果にほかならないと神田は考えている。
こうした接近は、すでに唐代あたりから多少現われていて、最初はまず文学的作品から始まったという。「寒山詩」などは、その著しいものの一つで、「証道歌」とか「宝鏡三昧」とかも、その例に属する。宋代になって、雪竇(せっちょう)禅師の頌古・拈古など一連の禅文学の作品が現われた。こういう禅と芸術との接近は、おいおい書画にも及んでいき、例えば絵画においては、名高い牧谿(もっけい)を生んだ。牧谿は名を法常といった禅僧で、南宋の末に蜀に生まれ、西湖の六通寺に長らく住んでいた。また牧谿に先立って出た梁楷なども、南宋の画院の待詔となった俗人ではあったが、禅の精神によって絵画を制作した人であった。宋代には梁楷から牧谿につながる一派の絵画があったが、そうした絵画に対応するもののように、書の方面に現われたのが、すなわち禅僧の墨蹟であると神田は捉えている。したがってその支柱となっているのは、どこまでも禅の精神であるという。
今日梁楷や牧谿の絵画は実にすばらしい声価をよび、ほとんど東洋画の極致とさえも絶讃されている。しかしこれは日本や西洋においてのことであって、中国では古来あまり尊重せず、むしろ悪評さえあるくらいである。
中国の古い文化の伝統は、禅の精神によって支えられている芸術を喜ばないのである。禅僧の墨蹟も全くこれと同じことで、その中国において珍重されない理由も、これを考えるならば、おのずから理解できると神田はみている。
そして日本でも面白いことに、古来禅僧の墨蹟を特に珍重してきたのは、中国の古い文化の伝統を身につけることの薄かった茶人であって、中国渡来のものならば何でも珍重した漢学者や文人の間には、かえって無視されてきたという珍現象を示していると神田は付言している。
近来中国の古い文化に関する日本人の教養が稀薄になるにつれて、禅僧の墨蹟の声価はいよいよ昻る傾向にある。それだけ日本人が何ものにもとらわれずに、自由に活眼を開いて新しい価値を発見し得るようになったともいう(神田、19頁~24頁)。

賈似道について   外山軍治
この外山軍治「賈似道について」は、その著『中国の書と人』(創元社、1971年、139頁~148頁)に再録されている。
南宋の賈似道は北宋の蔡京とともに姦臣とされ、『宋史』には姦臣伝に入れられている。姦臣伝には十数名を列載しているが、この2人は多くの類似点をもっていると外山は考えている。
①第1に、この2人はともに皇帝の寵任をうけ、長期にわたって宰相の地位にあり、権勢をふるった人物である。
②第2に、蔡京は北宋末に、女真族の金軍に国都を攻められ国難を招いた責任者として処罰されたのに対し、賈似道は南宋末に、蒙古族の元軍の強襲を防ぎえなかったために、非難を浴びて罪せられた。つまりいずれも外禍のために身を滅ぼした人物である。その外禍は不可抗力に近いものであったが、とにかく長期間皇帝の寵任をうけて権力をふるっていたこの2人にその責任がおおいかぶさったわけである。
③第3に、2人とも宰相として国家を安泰の地位におくことには失敗した人物でありながら、文化人としては卓越した才能をもっていて、その時代の文化に大きな貢献をした。
蔡京は4度宰相となり、16年近く政権を担当し、徽宗皇帝のよい相手となって北宋末の文化に大きな寄与をした。徽宗時代の文化の特徴は、書画や古美術品に対する批判精神の昻揚ということにあったが、この点で蔡京の果した役割は大きい。
北宋は徽宗とその子の欽宗が金軍の捕虜になったことによって覆滅したが、徽宗時代の文化は欽宗の弟の高宗が江南において復興した南宋の文化の方向を決定した。南宋末の賈似道が文化史上にしめた功績というのも、同じ道においてであった。
賈似道は、あざなを師憲といい、台州(浙江)を本貫とした。のちに淮東制置使となった賈渉(かしょう)の子として、嘉定6年(1213)に生まれた。
父の蔭と、理宗皇帝の後宮に入って貴妃に立てられた姉の縁とによって早くから出世したが、彼を権力の座におしあげたのは、十数年にわたる国境線防備ののち、開慶元年(1259)、忽必烈を将として鄂州(湖北)を攻めた蒙古軍を撃退した殊功である(これについては、蒙古軍を撃退したというのは嘘で、割地と歳幣とを約して和を請うたとする説もある)
とにかく、鄂州の戦勝を認められた賈似道は、理宗の絶大な信頼を博し、都の臨安へ帰って、左丞相として首班に列した。その後、理宗、度宗、恭帝の三朝にわたり、連続16年間、権力の座をはなれることがなかった。
そして度宗の咸淳元年(1265)太師を加え、魏国公に封じられ、咸淳3年には平章軍国重事に任じられ、私第を西湖の北の葛嶺に賜わっている。その集芳園中に半閑亭をたて、一切の政務をここでとり、役人は文書をかかえて彼の私第へきて決裁を仰ぎ、大小の朝政は館客廖瑩中(りょうえいちゅう)が決し、朝廷の宰執はただ文書の末尾に名を署し、印をおすだけだったといわれる。
この間、賈似道は軍閥、官僚、宦官、外戚の勢力を抑え、政策を断行し、宋の財政を立て直そうと努力し、凡庸の材でないことを示したが、一方文化人としてさらにすぐれた才能を発揮した。つまり賈似道は『淳化閣帖』の原拓を手に入れ、館客廖瑩中と婺州(浙江)の碑工王用和とに命じて、摹刻させたこと、また王用和をつかって、「定武蘭亭」を飜刻させたり、さらに廖瑩中の手によって、燈影を利用してこれを縮小し、霊璧(れいへき)石に刻させ、いわゆる「玉板蘭亭」(あるいは玉枕蘭亭)をつくったことは有名である。
その後、この蘭亭の原石をアラビア人出身の提挙市舶使蒲寿庚が入手して、海路福建へ持ち帰ろうとし、途中風にあってこれを海中におとしたという話もある。その在否は定かでないが、賈似道のすぐれた好みを表した所業として外山は面白いという。
彼の館客廖瑩中はよほどのめききであり、賈似道はこの人物を相手に、古銅器、法書、名画、金玉、珍宝の類を集めた。これを私第の集芳園内の多宝閣に蔵した。
元の湯垕(とうこう)の「画論」には賈似道所蔵の書が真偽相半ばする事実をあげ、彼の眼力を疑うようなことをいっているところがあるが、財力の上に権力を兼ねた賈似道の所へはおびただしい量の書画や古美術品が集まった結果、中には偽物も多かったであろうし、また偽物と知って受け取ったこともあるであろうと外山は想像している。「画論」の記事だけで賈似道の鑑識眼を疑うことは当を失するという。
さて、書画や古器物を蒐集したといって、これを一般に公開しようなどと考えたわけではなく、自己の蒐集欲を満足させただけのことであったであろう。とにかく天下の名品を手許に集め、これを大切に保存するということは、意義のあることであるが、賈似道の場合、さらにとくに注目すべきことがあると外山はいう。それは異民族の手におちた名品を、賈似道の力によって中国にとりかえし、その散佚を防ぎえたことである。外山はその功績として挙げている。つまり北宋覆滅の靖康の変に、宋都に攻め入った金軍はおびただしい数の書画や美術工芸品を内府をはじめ重臣の邸宅から押収して帰った。また南宋に入ってからも、宗室から金室への贈り物として、また榷場(かくじょう、官設の貿易場)を通じて宋から金へ流れたものも多かった。とにかく、金の章宗時代の内府には逸品が多く蔵せられていた。賈似道の蒐集は、宋から金へ流れていたこれらの名品に及び、その散佚を防いだ点を外山は高く評価している。
賈似道の鑑蔵印としてよく見うけるのは、いわゆる「長」字印、「秋壑(しゅうがく)図書」「秋壑」、それに「悦生」葫蘆印である。秋壑は賈似道の別号であり、悦生は彼の室名である。書画の著録や法帖をはじめ写真によって見うる真蹟などについて、賈似道の鑑蔵印が多く見られる。その中に、金の章宗の鑑蔵印である「秘府」葫蘆印、「明昌」「明昌宝玩」「御府宝絵」「羣玉中秘」「明昌御覧」などの印とともに押されているものが枚挙にいとまがないほど多い。
このことは賈似道が金の章宗の内府に蔵されていた数多くの逸品をとりかえしたことを意味すると外山は解説している。
また、比較的少ない例であるが、賈似道、金章宗の鑑蔵印のほかに、南宋の「紹興」の印が押されているものがある。これらの印が真物であるとすれば、これらの作品は靖康の変当時に持ち帰られたものではなく、南宋初めには宋の内府に蔵されていたものが、その後宋室から金室へ贈られたものか、または民間の手に落ちてから金に流れたものか、とにかく、南宋になってから金へ渡ったと解釈できるとする。そしてこれを賈似道がとりかえしたということになる。
その例として、「石渠宝笈」巻10、晋王羲之快雪時晴帖、「大観録」巻1、王右軍古千字文、「大観録」巻11、尉遅乙僧天王像、「江邨銷夏録」巻3、唐懐素草書自敍帖、英国博物館蔵の女史箴図巻がそれである。
金の内府の蒐蔵品が民間に落ちたのは、金の滅亡前、金の宣宗が蒙古軍の強襲を避けて、中都(今の北京)から開封へ遷都した1214年の頃が一番多かったようで、この時から賈似道の全盛時代までに約50年、金国滅亡から数えると約30年の余裕がある。幸いに華北に侵入した蒙古軍はまだ書画蒐集などに興味をもたず、賈似道はよい時機に生まれあわせたものといってよいと外山はいう。賈似道がおびただしい蒐収を遂げるには随分悪い手をつかったことであろうが、とにかく彼のようなその道の達人にしてはじめて成功した仕事であったであろう。
「庚子銷夏記」巻1にのせた「米元章大字天馬賦墨蹟」の解説の中に「上に蔡姓珍蔵印あり。すなわち蔡京なり。また賈似道小印および秋壑図書あり。明にあってはまた厳相の家に入り、籍没せられて内に入る。かくのごとき名蹟にしてしきりに権奸の手に辱めらる。まことに歎くべしとなす」
といっている。権奸なればこそこの名蹟を手に入れ、そして保護しえたのであるともいえる外山は解説している。姦臣といわれるにはそれだけのことはあるが、それだからといってその功労まで無視してかかるのは酷だともいう(外山、25頁~27頁)。

金人と書      外山軍治
この外山軍治の「金人と書」については、その著『中国の書と人』(創元社、1971年、149頁~178頁)に再録されている。
金は12世紀初頭に北満の一角からおこった女真族の国である。金は宋を攻めて、その上皇と皇帝とを捕虜にし、淮水以北の経略をほぼ完了した。国力発展のはやかった金は、文化の点でもその発達のめざましい国であった。それはもっぱら中国文化への同化という形をとってあらわれる。
金は遼を経略するにつれて、その国に移植されて栄えていた中国文化をうけつぎ、そして遼の治下から契丹人、奚(けい)人、渤海人その他の諸部族や、今日の北京や大同を中心にした、いわゆる燕雲地方の漢人をその支配下に入れていった(燕雲地方で遼の統治をうけてきた漢人をとくに燕人と呼ぶ)。
これらの遼の遺民たちの中には、読書人として相当に高い教養をもったものが多かった。建国後間もない金では、これら教養のある新しい帰順者を任用して、内政にも、宋との外交にも、その才能を発揮させた。女真人はこれらの新帰順者を通じて、読書人の教養を尊重すべきことを知り、彼らの仲介によって、中国文化受容の素地が築かれていった。
まず金初において活躍したのは渤海人である。彼らは10世紀の初頭に、遼のためにその国を滅ぼされ、遼陽をはじめ遼東地方に移住させられて遼の統治に服してきたが、その中には教養の高い者が多かった。金室では国初、遼陽の渤海人の豪族の女で姿徳のある者を宗室諸王の側室(そばめ)とした。これは渤海人に対する懐柔の目的から出たものであったが、また渤海人のもつ教養を重視したところもあったであろう。金室に入った遼陽渤海人の女は、その教養をもってその周囲を化して、金室は中国文化への同化を始めた。書を学び、書を鑑賞することも、読書人の教養の一環として彼らによって金室に伝えられたと考えられるが、女真人がこの風習をもつまでには時間がかかった。
金室を中心にした女真人が、中国文化に心酔して、自ら読書人として教養を身につけたいという気分をおこすようになったのは、北宋を滅ぼしてからであると外山はみている。
宋と金とは、遼を夾攻することで同盟を結び、ともに燕雲地方を攻撃したが、宋は金に対して背信行為をくりかえしたので、金軍は宋の都開封を攻め落とした(1126年)。
開封は中国文化の中心地である。ことに中国歴代中でも比類をみない文化人、徽宗皇帝の治世をへて、その文化は爛熟期に達していた。女真人将兵は、その文化に驚嘆し、徽宗が生涯をかけて蒐集したおびただしい書画や美術工芸品を押収した。その押収にあたって、女真の将軍に示唆を与えたのは、金軍に随行した燕人の読書人である。
その時、女真人が指定して探し求めたのは、蘇東坡、黄山谷の文章や書蹟と、司馬光の『資治通鑑』であって、王安石の書いたのはどうしたものか捨てて、とらなかったという(『三朝北盟会編』巻73)。
この嗜好がどこから来ているのか、その由来するところを記したものを外山は知らないというが、とにかく、この時の燕人の読書人の嗜好をそのまま反映したものであることは明らかであるという。
既に遼代から、漢人の間に蘇・黄や司馬光を尊敬する気持ちが強かったであろうと外山はみている。開封の宮殿から石鼓を運び出し、燕京(今の北京)まで持ち帰ったのも、おそらく燕人の指導によるものであろう。ただし、眼識をもたない金軍のことだから、金銀玉帛に重きをおいて徽宗の集めた文化財のうち、名品といわれるものを見のがしているのではないかともみる。
というのは、王明清の「揮麈録(きしゅろく)」に、「定武蘭亭」の石刻を金虜が知らなかったので、幸いにそのまま残されたことを伝えているからである。あるいは名品といわれるものは、金軍の入城に先立ってどこかへ持ち出されていたかもしれないとも想像される。しかしとにかく金軍がおびただしい押収品を運び帰ったことは確かである。運び帰った文化財の数々は金室を中心とした女真人に、中国文化を憧憬する気分をおこさせるのに十分であった。また捕虜にして帰った宋の徽宗、欽宗、后妃、皇族の教養は金室の人々の心をひきつけずにはいなかった。
金において、読書人の教養を尊重するという気運は、史上靖康の変と呼ばれる宋室のこの悲劇を契機として急速に盛んになった。それまでは、どちらかといえば、遼の遺民たちの教養を利用するという立場からぬけきらなかった女真人は、これから後は自らが読書人の教養を身につけようという意欲をもつに至ったと外山は考えている。
金室において最初に読書人の教養をもったのは、第3代の熙宗である。彼は初代皇帝太祖の嫡孫にあたり、第2代太宗の儲君にえらばれたが、その頃から燕人韓昉(かんぽう、1082-1149)らの読書人の教導をうけて、すっかり読書人としての教養を身につけた。
『三朝北盟会編』(巻166、所引金虜節要)には、このことについて具体的な記事をのせている。「能く明経博古ならずといえども、やや詩を賦するを解し、翰墨雅歌す。儒服して分茶、焚香し、奕棋(ご)、戦象(しょうぎ)し、いたずらに女真の本態を失うのみ」と。
女真人で書を書いたという記事はこれをもってはじめとするという。分茶は青木正兒が推定したように、宋人の間に流行していた茶礼の意味とされる。この熙宗が即位するにおよんで、金は女真人の国から漢人の国へと移行し始める。そして北満の一隅、今日のハルビンの東南阿城県下にその遺蹟を残している上京会寧府に都しながら、中国文化をとり入れ、中華の国へ近づこうと努力した。
そして燕人韓昉のほかに、宋から金に使節として来たとか、その他の理由で宋から金に入った読書人がその教導の役割を演じたことに外山は注目している。例えば、宇文虚中(?-1146)は、建炎2年(1128)、徽宗、欽宗らの返還を願うという使命をおびて、南宋の高宗から派遣され、強要されて金に仕えて翰林学士承旨になった。また金の翰林待制呉激も、宋から派遣されて金に来た人である。そして翰林直学士の高士談(?-1146)は、宋の忻(きん)州(山西)の戸曹であったが、どういう理由からか金に仕えた。これらの宋の読書人が、金の翰林院に入って、金室を中心とした女真人の文化指導にもあたったようである。
同じように、金に派遣されて、士官を肯んじなかった人の中で有名なのは、建炎3年(1129)に大金通問使として派遣された洪皓(こうこう、1088-1155)である。彼は北満に15年間抑留され、冷山(吉林舒蘭)なる女真の将軍完顔希尹の家郷に移され、ここで希尹の子弟のために講説して辛うじて生活したという。
この洪皓の著『松漠紀聞』に次のような記載がある。
「北満の賓州に住む嗢熱という部族の長、千戸の李靖は教養のある人物であったが、彼の妹の金哥は金主(熙宗)の伯父固倫の側室となった。彼の正妻には子がない。金哥の生んだ子が今年およそ20余りになり、頗る儒士を延接し、また儒書を読む。光禄大夫をもって吏部尚書となった。その父が死ぬと、宇文虚中、高士談、趙伯麟に墓誌を書くことを託した。高、宇の両人は趙が貧乏なので、趙に命じて書かせ、二人が篆を書いたが、その文額濡うところ甚だ厚かった。予(洪皓)は燕においてこの人物と面識があるが、彼はまた奕(ご)、象(しょうぎ)を学び、戯れに茶を点(た)てた」という。
金主(熙宗)の伯父とは女真の国務大臣である太祖の庶長子宗幹のことであるといい、李靖は燕京へ進出した金軍と宋との交渉に活躍した人である。
この記事で、次の点に外山は興味を覚えている。
①金の宗室が、読書人の習慣に従って墓誌をつくることを宋からきた人々に依頼したこと。
②その人の教養が儲君時代の熙宗のそれと符節をあわしたようであること。
③潤筆料を問題とした文人の生活がうかがわれること。
先に宇文虚中、呉激、高士談らの名が出たが、これらは金に仕えたが故に、金人の文化人として真っ先にあげられる人々である。元好問の「中州集」開巻第一に、宇文大学虚中、ついで呉学士激が出ているし、3人おいて高内翰士談が顔を出す。金の書人としても、やはり熙宗時代(1135-1149)に活躍したこれらの人々がその草分けになるので、宇文虚中は金の「太祖睿徳神功碑」を書いたといわれる。『金史』韓昉伝によると、その文章は韓昉の手になったらしい。また呉激は米芾の婿で、字画俊逸、婦翁の筆意をえていたといわれるが、ともにその筆蹟をみることができない。
さて熙宗即位の第7年にあたる皇統2年(1142)、金は宋との交戦をうちきって、淮水を国境とし、宋から歳貢をうけ、宋帝を臣事させることを定めて和を結んだ。宋との平和な国交によって、金は益々中国文化への同化を早めた。書画や工芸美術品が宋室から金室への贈り物として、また国境に設けられた榷場(かくじょう、貿易場)を通じて宋から金へ流れた。
熙宗の次には、熙宗を殺した第4代海陵王が立ち、つづいて第5代世宗が立ったが、宋の文化に追随するという傾向は変わらなかった。熙宗が宋と和睦してから熙宗、海陵王、世宗の治世を含めて50年近くになるが、金の文化は宋の刺戟によって、向上発達の一路を辿り、金人の書家がこの頃から名を出しはじめる。
まず、金に仕えて礼部尚書にまでなった王競(?-1164)がいる。彰徳(河南)の人で、宋の屯留(山西)主導であった。草、隷書をよくし、大字にたくみで、両都の宮殿牓題はみなその手になったという。
次に、任詢(にんじゅん)がいる。正隆2年(1157)進士に合格し、地方官を歴任したが出世せず、郷里で蔵するところの法書名画数百軸を展玩して暮らしたという。真、草にたくみで、この人も大字がよかった、という。正書には、
・「大天宮寺碑」(大定12年12月、河北豊潤)
・「完顔婁室神道碑」(大定17年、吉林雙陽)
・「完顔希尹神道碑」(大定21-6年、吉林舒蘭)
がある。行書には
・「古柏行石刻」(正隆5年[1160] 庚辰9月3日に書かれたものを刻したもの、京都、
藤井有鄰館)
これらの任詢の書に対して「正書、行書ともに顔真卿をまなんだものであろうか、峻峭に過ぎて味が少ない」と外山は評している。
次に、蘇軾の「李太白仙詩巻」に跋を書いている蔡松年、施宜生、高衎(こうかん)、蔡珪(さいけい)がいる。
これらは書人としては一流の人ではなかったようだ。
①蔡松年(1107-1159)はむしろ詞家として有名である。父とともに宋から金に入り、累進して海陵王の正隆3年(1158)右丞相、衛国公となった。相当な勢力家で、蘇軾のこの詩巻を手に入れたものとみえる(図95「蘇軾李太白仙詩巻跋」大阪市立美術館)
②施宜生(?-1160)は、浦城(福建)の人で、宋末潁州(えいしゅう、安徽)の教官となり、金が一時河南を中心に建てた傀儡国家の斉に仕え、のち金に仕えた。正隆5年(1160)の賀正旦使として宋におもむき、宋の館伴使、吏部尚書張燾(ちょうとう)に金が南伐の準備をしていることを洩らしたため帰国後殺された。
③高衎(?-1167)は遼陽の渤海人である。進士に合格し、吏部関係の役人をしてきた人である(挿44、「蘇軾李太白仙詩巻跋」大阪市立美術館)
④蔡珪(?-1174)は松年の子で、天徳3年(1151)の進士で、金石学に深い造詣をもっていた。
これらのいずれもが大なり小なり蘇軾の影響をうけていることを感じるし、金人がいかに蘇軾の書を尊んだかを示すものである。
さて、金の書家として最も優秀な人物が輩出したのは、金代文化の極盛期と考えられる章宗時代である。書人としてまず、皇帝の章宗を挙げなければならない。海陵王、世宗および世宗の皇太子で早くなくなった允恭(顕宗)も相当高い教養をもっていたから、かなり書いたと思われるが筆蹟が伝わらない。世宗の孫、允恭の子にあたる章宗になると幸いにも真蹟と思われるものが残っている。章宗は世宗の皇太子允恭(顕宗)の嫡子である。少年の時、女真固有のものを保存しようとする祖父皇帝の希望にも従って、女真語、女真字の勉強と、漢字、経書の勉強とを併行してしたのであるが、そのうち詩も文もたくみになり、また書画を書くことにも、その鑑賞にもすぐれた才能を発揮するようになった。
書は全く宋の徽宗に傾倒しきったという。章宗の書だといわれる「宋徽宗摸張萱搗練(ちょうけんとうれん)図」(図89-91)の題字や、「女史箴図巻後幅」に見られる書(図89-91)は、一見徽宗の痩金書と見まがうばかりのものである。五国城の配所で客死した徽宗も、彼の捕われていた金の皇帝にこれほど私淑されたのであるから、またもって瞑すべし、というべきであると外山は記している。
章宗もまた、書画の逸品を数多く蒐集して鑑賞し、その翰林には党懐英(とうかいえい、1134-1211)、王庭筠(おうていいん、1151―1202)、趙秉文(ちょうへいぶん、1159-1232)といった文化人を入れ、明昌(1190-1196)の盛時を現出した。
著録の中に往々にして「秘府」葫蘆印、「明昌」「明昌宝玩」「御府宝絵」「羣玉中秘」「明昌御覧」などの、いわゆる明昌七璽の中に入れられている諸印を発見する。
その全部を信じきれないにしても、おびただしい数の逸品が章宗の内府に蔵せられていた。その中には靖康当時の押収品もあったであろうが、章宗以前の皇帝の鑑蔵印は見あたらない。章宗に至ってはじめて鑑蔵印をおすという習慣をもったもので、書画鑑賞の上でも明昌の時代が一時期を画したわけである。また靖康の押収品のほかに、南宋の紹興時代に高宗の内府に蔵せられていたものが、かなり多く章宗の内府に入っていると外山は推定している。宋帝から金帝に贈ったものもあろうし、一旦民間の手におち、さらに金に流れたものもあったであろう。
章宗の時代に翰林に入った党懐英は、篆書にたくみで、李陽冰以来の第一人者といわれ、また正書、八分にも長じていて、同時代の趙渢(ちょうふう)とならんで党趙と号せられた。趙渢は正書をよくし、顔、蘇を兼ねたといわれる。趙秉文は草書によく、蘇軾にならったという。
この時代にもっとも傑出したのは王庭筠である。彼は党懐英らと違って漢人ではなく、熊岳(遼寧)出身の渤海人である。書画ともにすぐれていて、「米元章の後黄華先生一人のみ」と元の鮮于枢も評している。書はおそらく金代随一といってよく、この人の書だけは南宋人に伍していささかの遜色もない。彼は米芾をならったと評されるが、今日見られる「幽竹枯槎図巻題辞」(図92-94)をみれば、その評が誤っていないことがわかる。気韻の高い書風は十分珍重されてよい。王庭筠の一家には文人が多く輩出している。彼の父の王遵古(おうじゅんこ)も正隆5年(1160)の進士で、翰林直学士にまでなっているが、「博州重修廟学記」(大定21年)の碑陰は、王遵古が記して王庭筠が行書し、父子の合作になるものとして喧伝される。
王庭筠の子曼慶、猶子明伯もまた書をよくした。また高衎の孫で、王庭筠の甥にあたる高憲は、「詩筆字画ともに舅氏の風あり」(『中州集』巻5、高博州憲の条)といわれる。さらに、明昌3年(1192)応奉翰林文字となった王庭筠が秘書郎張汝方とともに章宗の命をうけて法書名画を品第し、ついに品に入りしものを分けて五百五十巻としたという。
しかし金の隆昌は長く続かず、章宗崩じて第7代衛紹王が立つと間もなく、蒙古軍の強襲をうけて、ついで立った第8代宣宗はついに燕京をあとに汴京へ遷都した。
国家艱難の時にも書人はまた書人としてのたのしみがあるようである。世宗の孫の密国公璹(とう)は詩もたくみであったが、書は任詢にまなんで出藍の誉れがあった。宣宗が汴京へ遷都したとき、諸王は奔走したが、璹は家蔵の法書名画を一帙も残さず汴京に運んだ。生活が苦しく、客が来ても貧にして酒肴をととのえることができないので、蔬飯をともに食い、香を焚き茶を煮、蔵するところの書画をひろげて、ともにこれを品第したという。璹は書画ともによく、蘇、黄をまなんだ。
最後に、金人の書について、外山は次のようにまとめている。金の章宗が宋徽宗に傾倒し、その痩金書をならって、これと間違えられるほどになった。この事実は金の書のあり方を象徴する。皇帝はひたむきに宋帝をならったが、金の士人は詩文も書画も、ともに北宋の蘇、黄、米をならったようである。
特に蘇東坡崇拝熱は非常なもので、先述した密国公璹は蘇東坡を酷愛して、趙徳麟の生まれかわりかといわれた。また高憲は、今の世に蘇東坡がおられたら、相去ること万里といえども、また往ってこれを拝するであろうといった。
宋が南渡してから、程学は南にさかんに、蘇学は北にさかんなりといわれるが、全くその通りであると外山はみている。靖康の当時、女真人が開封において、司馬光の『資治通鑑』とともに蘇・黄の文、墨蹟を指名して取ったのである。その時は燕人の読書人の指導によったことにも注意したが、その時の嗜好がそのまま金一代を通じてかわらなかった。
金章宗は女真人としてはあまりに洗練された文化人になり過ぎたので、その母は徽宗某公主の女であるというような俗説まで飛び出したが、金人の書もどうやら北宋の落とし子というところに落ち着くらしいと外山は結んでいる(外山、28頁~32頁)。
別刷附録 范成大 詩碑 贈仏照禅師詩



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