≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』を読んで その5 私のブック・レポート≫
(2020年3月14日)
※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫
井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)
【読後の感想とコメント】の執筆項目は次のようになる。
(なお、2回に分けて述べることにする)
井出洋一郎氏の監修した『世界の博物館 謎の収集』(青春出版、2005年)において、第2章で、ルーヴル美術館について紹介している(29頁~48頁)。
ルーヴル美術館は、パリを横切るセーヌ川の東岸にある。川を挟んで西岸には、オルセー美術館の優美な建物が見え、北西に向かうコンコルド広場があり、さらに北へ向かうと凱旋門にぶつかる。
さて、ルーヴル美術館は巨大なカタカナの「コ」の字型の建物である。3つの部分に分かれて、それぞれにリシュリュー翼、シュリー翼、ドゥノン翼という名前が付けられている。
ここを訪れた人は、まず「コ」の字型の建物に囲まれた中庭にあるガラスのピラミッドに入り、地下の受付で入場券を手に入れた後、それぞれの翼へと足を運ぶことになる。
35万点にも及ぶ展示物は、「古代オリエント美術・イスラム美術」部門、「古代エジプト」部門から「彫刻」部門、「絵画」部門まで7つのパートに分けられる。さらにルーヴルそのものの歴史を語る「中世のルーヴル/ルーヴルの歴史」部門が付け加えられている。
ただ、部門ごとにひとつの部屋にまとまっているわけではなく、内容によっては分散しているので、すべてを系統立てて見るのは難しい。それはまるで芸術品の迷宮である。
だから、自分が見たいもの、有名なものはあらかじめ目星をつけて、まっすぐそこに向かって進んでいくのが良いとされる。
例えば、ルーヴル美術館を訪れた人の多くが真っ先に足を運ぶのが、ドゥノン翼の2階である。そこには、かの『モナ・リザ』があるからである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~30頁)
今回紹介した井出洋一郎氏の『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)のコラム「初代館長ヴィヴァン・ドゥノン」において、ルーヴル美術館の初代館長について述べている。
ドミニク・ヴィヴァン=ドゥノン男爵(1747-1825年)は、ルーヴルの前身ナポレオン美術館の初代館長であった。その名は、セーヌ川寄りのドゥノン翼として今でも記念されている。
ルーヴル美術館の他の翼の名リシュリュー、シュリーはルーヴル宮殿の拡張に功績があった王の重臣に過ぎない。
ドゥノンは美術館の実質的な初代館長(1802-1815年)であり、一番の功績者であった。
ナポレオンの台頭とともに、エジプト遠征に考古学者、記録画家として随行して、1802年に版画入りの報告書を提出したことが、後の皇帝に認められた。このことにより、初代館長に任命される。
(井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年、129頁)
現在でこそ、『モナ・リザ』はルーヴル美術館に展示されているが、歴史的にみると、この名画をフランソワ1世が入手して以来、その展示場所は色々と転々としている。この点を簡潔に説明しておきたい。
ルーヴルの建物は、もともと1190年にパリを守る要塞として建てられたが、フランソワ1世によって華麗な王宮として、1550年に生まれ変わる。
またフランソワ1世は名画『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの死後に買い取ったが、すぐにルーヴルに持ち込んだわけではない。まず、それをフォンテーヌブロー城に持ち運んだ。その時多くの人の目に触れる機会が生まれ、誰かが「これはジョコンダ夫人である」と言い出した。それ以降『モナ・リザ』=ジョコンダ夫人だという説が生まれたと井出氏は解説する。
1683年にはルイ14世のコレクションに加えられ、1695年にはヴェルサイユ宮殿に飾られた(一時的にルーヴルに移された時期もあったが、18世紀末まではほとんどヴェルサイユ宮殿に飾られていた)。
その後、この作品を手にしたのは、かのナポレオンだった。彼もまた、この微笑に魅せられ、居住していたチュイルリー宮に『モナ・リザ』を移し、自分の寝室の壁にかけた。そして、その後、ナポレオンが手に入れた美術品を一堂に集め、「ナポレオン美術館」といわれたルーヴルに移されることになる。最終的に『モナ・リザ』がルーヴル美術館の正式な収蔵品となるのは、1804年のことである。
自分の寝室に『モナ・リザ』を飾ったナポレオンは、ルーヴルの歴史を語る上で欠かせない人物のひとりである。そのナポレオンがその権力の象徴のひとつとしていたルーヴルだが、今は『モナ・リザ』がそのルーヴルの象徴として君臨し続けているのも、運命の不思議な巡りあわせである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~48頁)
【井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』はこちらから】
井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』 (プレイブックス・インテリジェンス)
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、この3人は、細密な写実という隘路を通って、理想的に表現することを完成した、まさにルネサンス美術の完成者であったと評される。
しかもこの完成された美術は、必ずしも宗教と無関係であるのではない。ラファエロの聖母像でも「システィンの聖母」のごときは、威儀美容の人間美を兼ね備え、そのうえ喜怒哀楽の現世を越えた価値の表現であり、人間の慈母として人々の心からなる礼拝にたえるものである。それはまさに祭壇画であって、展覧会や大広間に飾られるべき装飾的な性格を持つものではない。
ミケランジェロの芸術も、人間的自覚と信仰を合一しようとする苦悩の中から生まれ、それにより深化させられた。
(会田雄次『ルネサンス 新書西洋史④』講談社現代新書、1973年[1994年版]、74頁)
また、レオナルドも、ミケランジェロも、ラファエロも、フィレンツェの育て上げた天才たちでありながら、ミラノやローマにおいてその天才にふさわしい活躍ぶりを見せた。これらのフィレンツェの子たちは、ヴァザーリの言う通り、「町を去って他国で作品を売」り、それによってフィレンツェの「町の名声を広く世界に伝えた」のである。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、92頁~93頁)
ヴァザーリの『芸術家列伝』は、その題名の示す通り、個々の芸術家の伝記を集大成したものである(1550年の初版本と1568年の再版本と2種の版がある)。
ヴァザーリが意図したのは、単に個々の芸術家の生涯を羅列的に並べるということではなく、ひとつの「芸術の歴史」を書くことであったようだ。ヴァザーリは、芸術にはひとりひとりの芸術家の創造力を超えた大きな流れのあることを信じ、「列伝」というかたちでその流れを明らかにしようとした。
ヴァザーリは『芸術家列伝』の序文のなかで、ギリシアの芸術家たちのことを語っているが、芸術はまず古代ギリシアに生まれ、育ち、繁栄の絶頂に達し、そして亡んでしまい、その後、ルネサンス期において(具体的にはチマブエ以降)、再び生まれ変わってきたと考えている。
このように、「再生」した芸術は、ミケランジェロにおいてその絶頂に達するものとヴァザーリは考え、そのような芸術の「歴史の流れ」を書き残した。
したがって、『芸術家列伝』は、ミケランジェロにおいて頂点に達する芸術史ともいえる。ヴァザーリは「ミケランジェロ伝」を書くためにあれだけ多くの芸術家の伝記を書いたと言ってもよいと高階氏は極端な言い方をしている。
少なくとも、1550年の初版本においては、その意図は明確だったそうだ。だから、ヴァザーリはその「ミケランジェロ伝」を、他のどの芸術家の伝記よりも桁違いに長く書いたのみならず、当時まだ活躍していた芸術家は、ミケランジェロ以外全部切り捨ててしまった。
ただし、1568年の再版においては、事情が変わっていた。ヴァザーリにとっていわば「神」にも等しい存在だったミケランジェロはすでに世を去っていた。新しい世代の芸術家たちが、ミケランジェロやラファエロに代表される古典主義芸術の大家たちに代わって、その地位を確立していた。
だから、『芸術家列伝』の再版本では、その「歴史」をミケランジェロで終わりにすることはできず、新しく多くの現存(当時)の芸術家たちの伝記をつけ加えた。
「ティツィアーノ伝」もそのひとつである。この伝を書くためにヴァザーリはフェラーラに旅行までして、ティツィアーノに会って話を聞いている。それだけに『芸術家列伝』のなかでも、この「ティツィアーノ伝」の信憑性は高いとされる。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、348頁~350頁)
【高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』はこちらから】
高階秀爾『ルネッサンスの光と闇―芸術と精神風土』 (中公文庫)
14世紀、初期ルネサンスの絵画は、平面の二次元的表現を超えて、立体的な三次元的深みを出そうとする努力がなされ、15世紀前半は、その三次元的表現が、より現実的形態と人間的表情を持つ工夫をともなうようになった。そして15世紀後半、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍するルネサンス最盛期を迎える。
その歩みを、14世紀のジョット、15世紀前半のマザッチョ、そしてレオナルドと、それぞれが描いた聖母像を青木昭氏は比較している。
・ジョット「荘厳の聖母」1310年頃
抽象的、図式的な中世・ビザンチン様式を抜け出して、人物の輪郭線が明暗によってぼかされ、聖母の表情や衣服の柔らかさは、画面にふくよかな立体感をもたせている。
・マザッチョ「聖母子」1426年頃
一見、中世的様式を踏襲しているかのようにみえるが、右手で、幼子キリストのあごをくすぐる聖母マリアは、まるで当たり前の母親であり、親子の情愛がほのぼのと感じられる。
・レオナルド「ブノワの聖母」1478年頃
レオナルドの最初期の作品の一つである。聖母の髪形は、師ヴェロッキオの影響が濃いが、豊かな丸みのある愛らしい聖母の表情は、レオナルド自身のものであるといわれる。この表情がその後のレオナルドの聖母像のパターンとなったと青木氏はみている。
上記三者のうち、ジョットの聖母では、いかに立体的に表現するのかに精一杯であり、その表情はまだ固い。マザッチョにおいて、その聖母の顔に温かい血が流れているのを感じることができるようになる。そしてレオナルドの聖母では、その生き生きとした表情に加えて、心の動きまで伝わってくるのがよくわかる。この表情、この手法こそ、ルネサンス精神そのものを具現していると青木氏は理解している。
レオナルドは、ルネサンスの先人たちの足跡の上に、ルネサンス精神の頂点を極めた。
(佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年、7頁~8頁)
塚本博氏は、レオナルドの聖母の顔の表情に注目して、初期フィレンツェ時代とミラノ滞在期以降では、その類型が異なることを指摘している。
「カーネーションの聖母」や「ブノワの聖母」では、フィレンツェの美術家の影響がまだ顕著であった。一方、「岩窟の聖母」や「聖アンナと聖母子」では、女性の面相に深みのある心理的起伏が生じているという。
① 「カーネーションの聖母」1475年頃、62×47.5㎝、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク)
・初期フィレンツェ時代に描かれた、早い時期の聖母子図である。
・ほぼ正面を向いて量感ある上半身を見せるマリアの姿には、レオナルドの師であったヴェロッキオの彫像が反映されているとされる。
・また背景の幽遠な風景は、すでに聖アンナとモナ・リザの構成を予告していると塚本氏はみている。
② 「ブノワの聖母」1475-1478年頃、48×31㎝、エルミタージュ美術館)
・これも初期の聖母像の特色を示している。
・マリアと幼児キリストをともに斜めに組み合わせた、空間性の豊かな配置に、レオナルド独自の群像表現が見られる。
・しかし、ほほ笑みのマリアの初々しい姿には、フィレンツェの彫刻家デジデリオ・ダ・セッティニャーノの雰囲気が残っていると塚本氏は指摘している。
・このマリア像は、三王礼拝や猫を抱くイエスにも共通して現れているという。
③ 「岩窟の聖母」、ルーヴル美術館)
・ミラノに移ってからのレオナルドによる聖母像は、ヴェロッキオやデジデリオの影響が後退し、うつむくような内省的な表現を見せるようになる。ミラノ時代初期の『岩窟の聖母』はその変化をもっともよく示す作品である。
・この作品はまた、構図の観点からも独創的である。すなわち、三王礼拝に見られたような群衆の喧噪が静まり、岩山を背景にして、聖母と天使が二人の幼児を見守るような穏やかな所作で、画面の空間的広がりを規定している。
・アルベルティが推奨した動きの活発な物語画を目指した15世紀イタリア絵画は、この「岩窟の聖母」という作品の登場で、古典的様式に進路を変えたと塚本氏は理解している。
(塚本博『イタリア ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、145頁~147頁)
レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」
1483-86年頃/油彩・板(後にカンヴァス)/199×122㎝ Denon 2F
ミラノのフランチェスコ派の無原罪懐胎教団は、レオナルドならびにミラノ在住の2人の画家デ・プレディオス兄弟に、当時完成したばかりの無原罪懐胎の祭典のために建てられた礼拝堂に飾る大祭壇画を注文した。
指物師がすでに1482年に完成した大型のリテーブル(祭壇背後の飾り壁)の中央パネルを、レオナルドは描いた(これは、レオナルドがミラノで完成した最初の絵画である。1483-1486年頃とされる)。
中央パネルに描かれた絵は2つのヴァージョンがある。
古い方は、今日、パリのルーヴル美術館にある。
後年制作された新しい方は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある(こちらの「岩窟の聖母」は1493-1495年頃と1507-1508年、195.5×120cm。このヴァージョンの方には、光輪や洗礼者ヨハネのアトリビュートである杖が加えられた)
ところで、リテーブルの中央にある壁龕(ニッチ)には、無原罪懐胎を表す木彫の礼拝像である聖母子像が置かれていた。レオナルドの「岩窟の聖母」は、この壁龕の前にある可動の絵として置かれ、年間364日、この無原罪懐胎の聖母子を覆い隠していた。無原罪懐胎の祭日である12月8日だけ、この板絵はずらされ、これによって本来の礼拝像である聖母子像は姿を現し、直接拝むことができた。「岩窟の聖母」は、」本来の礼拝像を隠してしまう「覆い絵」であったようだ。
この絵で、レオナルドは処女マリアを、幼児の洗礼者ヨハネやキリスト、そして天使といっしょに洞穴のなか、あるいは前に描いた。今日、広く呼ばれる「岩窟の聖母」という名前はここに由来する。
「岩窟の聖母」の両ヴァージョンで、岩あるいは石からなる床部が画面の前縁で突然途絶えてしまったように見える。レオナルドはこうすることで、この場所が人里離れた場所であることを暗示しているとツォルナー氏は解釈している。
水やまばらな若木から放たれる後景の鈍い光は、岩地の荒涼とした雰囲気を和やかにする。また宗教的なシンボルという視点から、マリアのマントを留めている真珠とクリスタルガラスは、マリアの純潔のしるしと理解できる。このように理解したとすれば、「岩窟の聖母」の掛けられた礼拝堂が、無原罪懐胎の教理に奉献されたこととの関連も生じてくるとする。
宗教文学から抜き出された、似たようなトポスに関連しうる岩山も、マリアの象徴的表現という意味で解釈できるようだ。
(この岩山の含意は、後に制作された「聖アンナと聖母子」(1502-1516年頃、板に油彩、168×130cm、ルーヴル美術館[パリ])に描かれた岩山に当てはまるとツォルナー氏は考えている。聖母マリアは、人間の手によって引き裂かれていない山とされた)。
ところで、レオナルドが無原罪懐胎教団のために制作した「岩窟の聖母」では、明らかに幼児ヨハネは重要な役割を担っている。しかし、画面にヨハネが描出されていることは、イコノグラフィーでは珍しい特異なケースであるそうだ。
ヨハネとキリストの幼児期での出会いは、聖書に書かれた一般の話ではなく、いわゆる聖書外典、つまり公的にはあまり認証されていない聖書の追記に叙述されている。
そこでは、マリアとキリストがエジプトへ避難する途中に、荒野でヨハネに出会うという記述がある。
この出来事を「岩窟の聖母」の登場人物や、やや荒涼とした岩場は表しているのかもしれない。ヨハネとキリストとの荒地での出会いを、ここで見事に描出する根本的な意味は、注文主の宗教上の思想に基づくとツォルナー氏はみている。
「岩窟の聖母」の祭壇画の寄進者は、フランチェスコ派の教団であり、この教団の崇拝対象は、キリストと聖フランチェスコ、そして洗礼者ヨハネも含まれた。このため寄進者たる教団は、直接キリストを拝むと同時に、キリストから祝福され、また処女マリアにも庇護を与えられた幼児ヨハネであることが可能であった。
マリアはヨハネの上に手を戴せており、また彼女のマントの一部もヨハネの体に触れている。そのため、ヨハネと教団の会員は、聖母の保護下にあるように見える。ヨハネに掛かるマリアのマント以外にも、岩が避難所とみなされるゆえ、画面に描出された場所自体が、保護を意味するモティーフでもある。
そして、おそらく岩を避難所に仕立て上げるために、レオナルドは後景の岩山や衣装を描くのに大変苦労したであろうとツォルナー氏は想像している。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、28頁~33頁)。
【ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』タッシェン・ジャパンはこちらから】
ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
ハインリヒ・ヴェルフリンは、ブルクハルトのルネサンス研究を継承して、名著『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』を若くして刊行した。
ヴェルフリンの関心は、主としてレオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロ に向けられ、ルネサンスにおける「古典」の内実を明らかにしている。
ヴェルフリンはレオナルドの「岩窟の聖母」について次のように述べている。
「しかしレオナルドとヴェルロッキオとの間にはまた一種の内面的親近性が存立していたように思われる。われわれはヴァザーリの叙述から、この二人の関心がどんなに親しく触れあい、またヴェルロッキオが紡いだ、どんなに多くの糸をレオナルドが取りあげたか、ということを知る。それにもかかわらず、この弟子の年少時代の諸作を見ることは一つの驚異である。もしすでにヴェルロッキオの<洗礼図>(フィレンツェ、アカデミア)における天使(この天使のみはレオナルドの筆である。なおこの図はいまウフィツィに蔵せられる)がある他の世界からの声のようにわれわれの心を動かすならば、<巖窟の聖母>のような図はフィレンツェの千四百年代の諸々の聖母との関連において、いかに全く比較を絶するもののように思われることであろうか。(中略)
一切がここでは意味深くて新しい。モティーフそのものも、形式上の取りあつかいも。細部における運動の自由と、全体における集群の法則性とがある。」
フィレンツェの1400年代の諸々の聖者像と比べてみても、「全く比較を絶するもの」と評している。
(ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]、36頁~37頁。なお、このヴェルフリンの著作に対する評価は、塚本博『イタリア・ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、237頁~238頁を参照のこと)。
【ヴェルフリン『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社はこちらから】
『古典美術―イタリア・ルネサンス序説』 (1962年)
『カーネーションの聖母子』について、ツォルナー氏も、師匠ヴェロッキオとの密接な関連性がみられると主張している。
中景の小さな柱や後景の風景などは、フランドル絵画の絵画要素であり、聖母や幼児キリストの形態はヴェロッキオの工房で発展させられたタイプであるという。
この種の聖母像は、家の装飾や個人的な祈祷を目的に作られたもので、15世紀のフィレンツェで広く出回ったようだ。
レオナルドは聖母子の深い愛のきずなを表すと同時に、ふさわしいシンボルを使って、キリスト教の教義内容を描き出したとされる。例えば、幼児キリストは、おぼつかない手つきで、受難のシンボルである赤いカーネーションをつかもうとしている。このことで無邪気で罪のない姿に、後に起こる救世主の十字架上の死がすでに暗示されている。
同様に、シンボルと判断されるのは、画面右下の花の生けられたガラスの花瓶であり、これはマリアの純潔と処女性を明示する。
これらのカーネーションやガラスの花瓶といった描出の難しい要素を描くことで、画家は自分の力量を印象的に証しているとツォルナー氏はみている。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、17頁)
ラファエロは、イタリア中部の美しい中世の町ウルビーノに生まれたが、幼児期に父母と死別する。実母は8歳、父を11歳で亡くし、すぐに継母側との間で財産争いに巻き込まれるなど、小さいころから人間的な苦労をしている。しかし、ラファエロはおおらかさを保ち、画家であった父の血を引いて絵画の才に恵まれ、10代半ばで師ペルジーノの助手となるも、数年で技量を凌駕したといわれる。
師を追い越し、花の都フィレンツェに出て、当時最前衛をゆくレオナルド」やミケランジェロのスタイルを貪欲に取り入れ、自らの理想の中庸の美を作り上げる。
数々の聖母子画や、ヴァティカン宮の署名の間の『アテネの学堂』を初めとする壁画群は、その天分を遺憾なく発揮した。
ヴァザーリ(1511-74)の『美術家列伝』(初版1550年、第2版1568年)には、「ラファエロはたいへん女好きで惚れやすい人であった」と記されている。ここらへんの評判が、女嫌いのレオナルドやミケランジェロと比べて軽くみられる理由にもなっている。
例えば、当時のラファエロの恋人の一人を描いた『ラ・フォルナリーナの肖像』(国立美術館[ローマ])がある。左腕の腕輪にラファエロの署名を入れ、いかにも親しそうにこちらを見ている。このかわいいローマ美人は、一説にヴァティカン近くのパン屋の娘マルゲリータ・ルーティといわれる(ラファエロを崇拝していたフランス19世紀の画家アングルも、彼女がラファエロの絵のモデルとなっているところを空想して描いたほど有名な恋人である)。
その面影は、『小椅子の聖母』(ピッティ美術館[フィレンツェ])や『サン・シストの聖母』(ドレスデン国立絵画館)などのマドンナ像にも表れている。
当時はネオ・プラトニズムの思想の最盛期であったから、こうした身近な美の再現を通して神の美を表すラファエロの方法は、まさにトレンディーであったようだ。
しかし、女たちを愛し愛されたこの恵まれたラファエロは、37歳で亡くなるまで独身を通した。結婚に至らなかった理由は何かという点については、ヴァザーリも伝えているのは、ラファエロには野心があったという。つまり自分が枢機卿になりたいとの一念が結婚を避け通した理由であったそうだ。
(井出氏によれば、大それた野心で、現実的でもないので、何か他の理由があるのではと推測している。例えば、特定の女性に縛られない自由な身でいたかったとか、理想が高すぎて、本当に気に入った女性がこの世にいないとか)。
ラファエロは、友人のカスティリオーネにあてた1516年の手紙の中で、理想のモデルについて次のように語っている。
「一人の美しい女性を描くには、何人もの美しい女性を見て、閣下が私とともに選んでくださることが必要です。しかしそう美しい女性は多くありませんし、正しい鑑識眼も私にはありませんので、私は自分の頭にひらめく、ある『アイディア』を利用します」
この手紙を井出氏は、「ラファエロの描く美しいマドンナやヴィーナスは、彼の全女性体験が昇華された内的なイメージであり、一人のモデルからは理想の美は得られない」と解釈している。
そして、このラファエロの慎重な言葉の裏には、彼のマザー・コンプレックスが隠されていると推測している。つまり、早くから実母を亡くし、継母との確執があり、一人の女性に裏切られることへの恐れがあり、複数の女性から愛されていないと気が済まない苦労性の人格ができてしまったのではないかという。それは、ラファエロの芸術の折衷主義的で、影響を受けやすいところに通ずるとも、井出氏はみている。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、119頁~133頁)
【井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館はこちらから】
井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)
(2020年3月14日)
※≪井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』はこちらから≫
井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』 (中経の文庫)
【読後の感想とコメント】の執筆項目は次のようになる。
(なお、2回に分けて述べることにする)
≪その5の執筆項目≫
ルーヴル美術館について
ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン
『モナ・リザ』の展示場所の変遷について
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ
ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』
ルネサンス期における聖母像の変化
レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化
レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』
レオナルドの『岩窟の聖母』に対するヴェルフリンの評価
レオナルドの『カーネーションの聖母子』の特色
ラファエロについて
≪その6の執筆項目≫
美術作品のランキング
ミケランジェロ、レオナルド、ラファエッロ
ミケランジェロの「奴隷」について
ミケランジェロを主人公とした映画「華麗なる激情」
ギリシア神話のテセウスと西洋絵画
『ミロのヴィーナス』の欠けた腕の謎
【読後の感想とコメント】
ルーヴル美術館について
井出洋一郎氏の監修した『世界の博物館 謎の収集』(青春出版、2005年)において、第2章で、ルーヴル美術館について紹介している(29頁~48頁)。
ルーヴル美術館は、パリを横切るセーヌ川の東岸にある。川を挟んで西岸には、オルセー美術館の優美な建物が見え、北西に向かうコンコルド広場があり、さらに北へ向かうと凱旋門にぶつかる。
さて、ルーヴル美術館は巨大なカタカナの「コ」の字型の建物である。3つの部分に分かれて、それぞれにリシュリュー翼、シュリー翼、ドゥノン翼という名前が付けられている。
ここを訪れた人は、まず「コ」の字型の建物に囲まれた中庭にあるガラスのピラミッドに入り、地下の受付で入場券を手に入れた後、それぞれの翼へと足を運ぶことになる。
35万点にも及ぶ展示物は、「古代オリエント美術・イスラム美術」部門、「古代エジプト」部門から「彫刻」部門、「絵画」部門まで7つのパートに分けられる。さらにルーヴルそのものの歴史を語る「中世のルーヴル/ルーヴルの歴史」部門が付け加えられている。
ただ、部門ごとにひとつの部屋にまとまっているわけではなく、内容によっては分散しているので、すべてを系統立てて見るのは難しい。それはまるで芸術品の迷宮である。
だから、自分が見たいもの、有名なものはあらかじめ目星をつけて、まっすぐそこに向かって進んでいくのが良いとされる。
例えば、ルーヴル美術館を訪れた人の多くが真っ先に足を運ぶのが、ドゥノン翼の2階である。そこには、かの『モナ・リザ』があるからである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~30頁)
ルーヴルの初代館長ヴィヴァン・ドゥノン
今回紹介した井出洋一郎氏の『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)のコラム「初代館長ヴィヴァン・ドゥノン」において、ルーヴル美術館の初代館長について述べている。
ドミニク・ヴィヴァン=ドゥノン男爵(1747-1825年)は、ルーヴルの前身ナポレオン美術館の初代館長であった。その名は、セーヌ川寄りのドゥノン翼として今でも記念されている。
ルーヴル美術館の他の翼の名リシュリュー、シュリーはルーヴル宮殿の拡張に功績があった王の重臣に過ぎない。
ドゥノンは美術館の実質的な初代館長(1802-1815年)であり、一番の功績者であった。
ナポレオンの台頭とともに、エジプト遠征に考古学者、記録画家として随行して、1802年に版画入りの報告書を提出したことが、後の皇帝に認められた。このことにより、初代館長に任命される。
(井出洋一郎『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』中経出版、2011年、129頁)
『モナ・リザ』の展示場所の変遷について
現在でこそ、『モナ・リザ』はルーヴル美術館に展示されているが、歴史的にみると、この名画をフランソワ1世が入手して以来、その展示場所は色々と転々としている。この点を簡潔に説明しておきたい。
ルーヴルの建物は、もともと1190年にパリを守る要塞として建てられたが、フランソワ1世によって華麗な王宮として、1550年に生まれ変わる。
またフランソワ1世は名画『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの死後に買い取ったが、すぐにルーヴルに持ち込んだわけではない。まず、それをフォンテーヌブロー城に持ち運んだ。その時多くの人の目に触れる機会が生まれ、誰かが「これはジョコンダ夫人である」と言い出した。それ以降『モナ・リザ』=ジョコンダ夫人だという説が生まれたと井出氏は解説する。
1683年にはルイ14世のコレクションに加えられ、1695年にはヴェルサイユ宮殿に飾られた(一時的にルーヴルに移された時期もあったが、18世紀末まではほとんどヴェルサイユ宮殿に飾られていた)。
その後、この作品を手にしたのは、かのナポレオンだった。彼もまた、この微笑に魅せられ、居住していたチュイルリー宮に『モナ・リザ』を移し、自分の寝室の壁にかけた。そして、その後、ナポレオンが手に入れた美術品を一堂に集め、「ナポレオン美術館」といわれたルーヴルに移されることになる。最終的に『モナ・リザ』がルーヴル美術館の正式な収蔵品となるのは、1804年のことである。
自分の寝室に『モナ・リザ』を飾ったナポレオンは、ルーヴルの歴史を語る上で欠かせない人物のひとりである。そのナポレオンがその権力の象徴のひとつとしていたルーヴルだが、今は『モナ・リザ』がそのルーヴルの象徴として君臨し続けているのも、運命の不思議な巡りあわせである。
(井出洋一郎監修『世界の博物館 謎の収集』青春出版、2005年、29頁~48頁)
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レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ
レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、この3人は、細密な写実という隘路を通って、理想的に表現することを完成した、まさにルネサンス美術の完成者であったと評される。
しかもこの完成された美術は、必ずしも宗教と無関係であるのではない。ラファエロの聖母像でも「システィンの聖母」のごときは、威儀美容の人間美を兼ね備え、そのうえ喜怒哀楽の現世を越えた価値の表現であり、人間の慈母として人々の心からなる礼拝にたえるものである。それはまさに祭壇画であって、展覧会や大広間に飾られるべき装飾的な性格を持つものではない。
ミケランジェロの芸術も、人間的自覚と信仰を合一しようとする苦悩の中から生まれ、それにより深化させられた。
(会田雄次『ルネサンス 新書西洋史④』講談社現代新書、1973年[1994年版]、74頁)
また、レオナルドも、ミケランジェロも、ラファエロも、フィレンツェの育て上げた天才たちでありながら、ミラノやローマにおいてその天才にふさわしい活躍ぶりを見せた。これらのフィレンツェの子たちは、ヴァザーリの言う通り、「町を去って他国で作品を売」り、それによってフィレンツェの「町の名声を広く世界に伝えた」のである。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、92頁~93頁)
ミケランジェロとヴァザーリの『芸術家列伝』
ヴァザーリの『芸術家列伝』は、その題名の示す通り、個々の芸術家の伝記を集大成したものである(1550年の初版本と1568年の再版本と2種の版がある)。
ヴァザーリが意図したのは、単に個々の芸術家の生涯を羅列的に並べるということではなく、ひとつの「芸術の歴史」を書くことであったようだ。ヴァザーリは、芸術にはひとりひとりの芸術家の創造力を超えた大きな流れのあることを信じ、「列伝」というかたちでその流れを明らかにしようとした。
ヴァザーリは『芸術家列伝』の序文のなかで、ギリシアの芸術家たちのことを語っているが、芸術はまず古代ギリシアに生まれ、育ち、繁栄の絶頂に達し、そして亡んでしまい、その後、ルネサンス期において(具体的にはチマブエ以降)、再び生まれ変わってきたと考えている。
このように、「再生」した芸術は、ミケランジェロにおいてその絶頂に達するものとヴァザーリは考え、そのような芸術の「歴史の流れ」を書き残した。
したがって、『芸術家列伝』は、ミケランジェロにおいて頂点に達する芸術史ともいえる。ヴァザーリは「ミケランジェロ伝」を書くためにあれだけ多くの芸術家の伝記を書いたと言ってもよいと高階氏は極端な言い方をしている。
少なくとも、1550年の初版本においては、その意図は明確だったそうだ。だから、ヴァザーリはその「ミケランジェロ伝」を、他のどの芸術家の伝記よりも桁違いに長く書いたのみならず、当時まだ活躍していた芸術家は、ミケランジェロ以外全部切り捨ててしまった。
ただし、1568年の再版においては、事情が変わっていた。ヴァザーリにとっていわば「神」にも等しい存在だったミケランジェロはすでに世を去っていた。新しい世代の芸術家たちが、ミケランジェロやラファエロに代表される古典主義芸術の大家たちに代わって、その地位を確立していた。
だから、『芸術家列伝』の再版本では、その「歴史」をミケランジェロで終わりにすることはできず、新しく多くの現存(当時)の芸術家たちの伝記をつけ加えた。
「ティツィアーノ伝」もそのひとつである。この伝を書くためにヴァザーリはフェラーラに旅行までして、ティツィアーノに会って話を聞いている。それだけに『芸術家列伝』のなかでも、この「ティツィアーノ伝」の信憑性は高いとされる。
(高階秀爾『ルネッサンスの光と闇――芸術と精神風土』中公文庫、1987年、348頁~350頁)
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高階秀爾『ルネッサンスの光と闇―芸術と精神風土』 (中公文庫)
ルネサンス期における聖母像の変化
14世紀、初期ルネサンスの絵画は、平面の二次元的表現を超えて、立体的な三次元的深みを出そうとする努力がなされ、15世紀前半は、その三次元的表現が、より現実的形態と人間的表情を持つ工夫をともなうようになった。そして15世紀後半、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍するルネサンス最盛期を迎える。
その歩みを、14世紀のジョット、15世紀前半のマザッチョ、そしてレオナルドと、それぞれが描いた聖母像を青木昭氏は比較している。
・ジョット「荘厳の聖母」1310年頃
抽象的、図式的な中世・ビザンチン様式を抜け出して、人物の輪郭線が明暗によってぼかされ、聖母の表情や衣服の柔らかさは、画面にふくよかな立体感をもたせている。
・マザッチョ「聖母子」1426年頃
一見、中世的様式を踏襲しているかのようにみえるが、右手で、幼子キリストのあごをくすぐる聖母マリアは、まるで当たり前の母親であり、親子の情愛がほのぼのと感じられる。
・レオナルド「ブノワの聖母」1478年頃
レオナルドの最初期の作品の一つである。聖母の髪形は、師ヴェロッキオの影響が濃いが、豊かな丸みのある愛らしい聖母の表情は、レオナルド自身のものであるといわれる。この表情がその後のレオナルドの聖母像のパターンとなったと青木氏はみている。
上記三者のうち、ジョットの聖母では、いかに立体的に表現するのかに精一杯であり、その表情はまだ固い。マザッチョにおいて、その聖母の顔に温かい血が流れているのを感じることができるようになる。そしてレオナルドの聖母では、その生き生きとした表情に加えて、心の動きまで伝わってくるのがよくわかる。この表情、この手法こそ、ルネサンス精神そのものを具現していると青木氏は理解している。
レオナルドは、ルネサンスの先人たちの足跡の上に、ルネサンス精神の頂点を極めた。
(佐藤幸三、青木昭『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ――万能の天才を尋ねて』河出書房新社、1996年、7頁~8頁)
レオナルドの初期聖母像の特色とその後の変化
塚本博氏は、レオナルドの聖母の顔の表情に注目して、初期フィレンツェ時代とミラノ滞在期以降では、その類型が異なることを指摘している。
「カーネーションの聖母」や「ブノワの聖母」では、フィレンツェの美術家の影響がまだ顕著であった。一方、「岩窟の聖母」や「聖アンナと聖母子」では、女性の面相に深みのある心理的起伏が生じているという。
① 「カーネーションの聖母」1475年頃、62×47.5㎝、ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク)
・初期フィレンツェ時代に描かれた、早い時期の聖母子図である。
・ほぼ正面を向いて量感ある上半身を見せるマリアの姿には、レオナルドの師であったヴェロッキオの彫像が反映されているとされる。
・また背景の幽遠な風景は、すでに聖アンナとモナ・リザの構成を予告していると塚本氏はみている。
② 「ブノワの聖母」1475-1478年頃、48×31㎝、エルミタージュ美術館)
・これも初期の聖母像の特色を示している。
・マリアと幼児キリストをともに斜めに組み合わせた、空間性の豊かな配置に、レオナルド独自の群像表現が見られる。
・しかし、ほほ笑みのマリアの初々しい姿には、フィレンツェの彫刻家デジデリオ・ダ・セッティニャーノの雰囲気が残っていると塚本氏は指摘している。
・このマリア像は、三王礼拝や猫を抱くイエスにも共通して現れているという。
③ 「岩窟の聖母」、ルーヴル美術館)
・ミラノに移ってからのレオナルドによる聖母像は、ヴェロッキオやデジデリオの影響が後退し、うつむくような内省的な表現を見せるようになる。ミラノ時代初期の『岩窟の聖母』はその変化をもっともよく示す作品である。
・この作品はまた、構図の観点からも独創的である。すなわち、三王礼拝に見られたような群衆の喧噪が静まり、岩山を背景にして、聖母と天使が二人の幼児を見守るような穏やかな所作で、画面の空間的広がりを規定している。
・アルベルティが推奨した動きの活発な物語画を目指した15世紀イタリア絵画は、この「岩窟の聖母」という作品の登場で、古典的様式に進路を変えたと塚本氏は理解している。
(塚本博『イタリア ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、145頁~147頁)
レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』
レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」
1483-86年頃/油彩・板(後にカンヴァス)/199×122㎝ Denon 2F
ミラノのフランチェスコ派の無原罪懐胎教団は、レオナルドならびにミラノ在住の2人の画家デ・プレディオス兄弟に、当時完成したばかりの無原罪懐胎の祭典のために建てられた礼拝堂に飾る大祭壇画を注文した。
指物師がすでに1482年に完成した大型のリテーブル(祭壇背後の飾り壁)の中央パネルを、レオナルドは描いた(これは、レオナルドがミラノで完成した最初の絵画である。1483-1486年頃とされる)。
中央パネルに描かれた絵は2つのヴァージョンがある。
古い方は、今日、パリのルーヴル美術館にある。
後年制作された新しい方は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある(こちらの「岩窟の聖母」は1493-1495年頃と1507-1508年、195.5×120cm。このヴァージョンの方には、光輪や洗礼者ヨハネのアトリビュートである杖が加えられた)
ところで、リテーブルの中央にある壁龕(ニッチ)には、無原罪懐胎を表す木彫の礼拝像である聖母子像が置かれていた。レオナルドの「岩窟の聖母」は、この壁龕の前にある可動の絵として置かれ、年間364日、この無原罪懐胎の聖母子を覆い隠していた。無原罪懐胎の祭日である12月8日だけ、この板絵はずらされ、これによって本来の礼拝像である聖母子像は姿を現し、直接拝むことができた。「岩窟の聖母」は、」本来の礼拝像を隠してしまう「覆い絵」であったようだ。
この絵で、レオナルドは処女マリアを、幼児の洗礼者ヨハネやキリスト、そして天使といっしょに洞穴のなか、あるいは前に描いた。今日、広く呼ばれる「岩窟の聖母」という名前はここに由来する。
「岩窟の聖母」の両ヴァージョンで、岩あるいは石からなる床部が画面の前縁で突然途絶えてしまったように見える。レオナルドはこうすることで、この場所が人里離れた場所であることを暗示しているとツォルナー氏は解釈している。
水やまばらな若木から放たれる後景の鈍い光は、岩地の荒涼とした雰囲気を和やかにする。また宗教的なシンボルという視点から、マリアのマントを留めている真珠とクリスタルガラスは、マリアの純潔のしるしと理解できる。このように理解したとすれば、「岩窟の聖母」の掛けられた礼拝堂が、無原罪懐胎の教理に奉献されたこととの関連も生じてくるとする。
宗教文学から抜き出された、似たようなトポスに関連しうる岩山も、マリアの象徴的表現という意味で解釈できるようだ。
(この岩山の含意は、後に制作された「聖アンナと聖母子」(1502-1516年頃、板に油彩、168×130cm、ルーヴル美術館[パリ])に描かれた岩山に当てはまるとツォルナー氏は考えている。聖母マリアは、人間の手によって引き裂かれていない山とされた)。
ところで、レオナルドが無原罪懐胎教団のために制作した「岩窟の聖母」では、明らかに幼児ヨハネは重要な役割を担っている。しかし、画面にヨハネが描出されていることは、イコノグラフィーでは珍しい特異なケースであるそうだ。
ヨハネとキリストの幼児期での出会いは、聖書に書かれた一般の話ではなく、いわゆる聖書外典、つまり公的にはあまり認証されていない聖書の追記に叙述されている。
そこでは、マリアとキリストがエジプトへ避難する途中に、荒野でヨハネに出会うという記述がある。
この出来事を「岩窟の聖母」の登場人物や、やや荒涼とした岩場は表しているのかもしれない。ヨハネとキリストとの荒地での出会いを、ここで見事に描出する根本的な意味は、注文主の宗教上の思想に基づくとツォルナー氏はみている。
「岩窟の聖母」の祭壇画の寄進者は、フランチェスコ派の教団であり、この教団の崇拝対象は、キリストと聖フランチェスコ、そして洗礼者ヨハネも含まれた。このため寄進者たる教団は、直接キリストを拝むと同時に、キリストから祝福され、また処女マリアにも庇護を与えられた幼児ヨハネであることが可能であった。
マリアはヨハネの上に手を戴せており、また彼女のマントの一部もヨハネの体に触れている。そのため、ヨハネと教団の会員は、聖母の保護下にあるように見える。ヨハネに掛かるマリアのマント以外にも、岩が避難所とみなされるゆえ、画面に描出された場所自体が、保護を意味するモティーフでもある。
そして、おそらく岩を避難所に仕立て上げるために、レオナルドは後景の岩山や衣装を描くのに大変苦労したであろうとツォルナー氏は想像している。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、28頁~33頁)。
【ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』タッシェン・ジャパンはこちらから】
ダ・ヴィンチ NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)
レオナルドの「岩窟の聖母」に対するヴェルフリンの評価
ハインリヒ・ヴェルフリンは、ブルクハルトのルネサンス研究を継承して、名著『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』を若くして刊行した。
ヴェルフリンの関心は、主としてレオナルド、ミケランジェロ、ラファエッロ に向けられ、ルネサンスにおける「古典」の内実を明らかにしている。
ヴェルフリンはレオナルドの「岩窟の聖母」について次のように述べている。
「しかしレオナルドとヴェルロッキオとの間にはまた一種の内面的親近性が存立していたように思われる。われわれはヴァザーリの叙述から、この二人の関心がどんなに親しく触れあい、またヴェルロッキオが紡いだ、どんなに多くの糸をレオナルドが取りあげたか、ということを知る。それにもかかわらず、この弟子の年少時代の諸作を見ることは一つの驚異である。もしすでにヴェルロッキオの<洗礼図>(フィレンツェ、アカデミア)における天使(この天使のみはレオナルドの筆である。なおこの図はいまウフィツィに蔵せられる)がある他の世界からの声のようにわれわれの心を動かすならば、<巖窟の聖母>のような図はフィレンツェの千四百年代の諸々の聖母との関連において、いかに全く比較を絶するもののように思われることであろうか。(中略)
一切がここでは意味深くて新しい。モティーフそのものも、形式上の取りあつかいも。細部における運動の自由と、全体における集群の法則性とがある。」
フィレンツェの1400年代の諸々の聖者像と比べてみても、「全く比較を絶するもの」と評している。
(ヴェルフリン(守屋謙二訳)『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社、1962年[1973年版]、36頁~37頁。なお、このヴェルフリンの著作に対する評価は、塚本博『イタリア・ルネサンスの扉を開く』角川学芸出版、2005年、237頁~238頁を参照のこと)。
【ヴェルフリン『古典美術 イタリア・ルネサンス序説』美術出版社はこちらから】
『古典美術―イタリア・ルネサンス序説』 (1962年)
『カーネーションの聖母子』の特色
『カーネーションの聖母子』について、ツォルナー氏も、師匠ヴェロッキオとの密接な関連性がみられると主張している。
中景の小さな柱や後景の風景などは、フランドル絵画の絵画要素であり、聖母や幼児キリストの形態はヴェロッキオの工房で発展させられたタイプであるという。
この種の聖母像は、家の装飾や個人的な祈祷を目的に作られたもので、15世紀のフィレンツェで広く出回ったようだ。
レオナルドは聖母子の深い愛のきずなを表すと同時に、ふさわしいシンボルを使って、キリスト教の教義内容を描き出したとされる。例えば、幼児キリストは、おぼつかない手つきで、受難のシンボルである赤いカーネーションをつかもうとしている。このことで無邪気で罪のない姿に、後に起こる救世主の十字架上の死がすでに暗示されている。
同様に、シンボルと判断されるのは、画面右下の花の生けられたガラスの花瓶であり、これはマリアの純潔と処女性を明示する。
これらのカーネーションやガラスの花瓶といった描出の難しい要素を描くことで、画家は自分の力量を印象的に証しているとツォルナー氏はみている。
(フランク・ツォルナー『レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519』タッシェン・ジャパン、2000年、17頁)
ラファエロについて
ラファエロは、イタリア中部の美しい中世の町ウルビーノに生まれたが、幼児期に父母と死別する。実母は8歳、父を11歳で亡くし、すぐに継母側との間で財産争いに巻き込まれるなど、小さいころから人間的な苦労をしている。しかし、ラファエロはおおらかさを保ち、画家であった父の血を引いて絵画の才に恵まれ、10代半ばで師ペルジーノの助手となるも、数年で技量を凌駕したといわれる。
師を追い越し、花の都フィレンツェに出て、当時最前衛をゆくレオナルド」やミケランジェロのスタイルを貪欲に取り入れ、自らの理想の中庸の美を作り上げる。
数々の聖母子画や、ヴァティカン宮の署名の間の『アテネの学堂』を初めとする壁画群は、その天分を遺憾なく発揮した。
ヴァザーリ(1511-74)の『美術家列伝』(初版1550年、第2版1568年)には、「ラファエロはたいへん女好きで惚れやすい人であった」と記されている。ここらへんの評判が、女嫌いのレオナルドやミケランジェロと比べて軽くみられる理由にもなっている。
例えば、当時のラファエロの恋人の一人を描いた『ラ・フォルナリーナの肖像』(国立美術館[ローマ])がある。左腕の腕輪にラファエロの署名を入れ、いかにも親しそうにこちらを見ている。このかわいいローマ美人は、一説にヴァティカン近くのパン屋の娘マルゲリータ・ルーティといわれる(ラファエロを崇拝していたフランス19世紀の画家アングルも、彼女がラファエロの絵のモデルとなっているところを空想して描いたほど有名な恋人である)。
その面影は、『小椅子の聖母』(ピッティ美術館[フィレンツェ])や『サン・シストの聖母』(ドレスデン国立絵画館)などのマドンナ像にも表れている。
当時はネオ・プラトニズムの思想の最盛期であったから、こうした身近な美の再現を通して神の美を表すラファエロの方法は、まさにトレンディーであったようだ。
しかし、女たちを愛し愛されたこの恵まれたラファエロは、37歳で亡くなるまで独身を通した。結婚に至らなかった理由は何かという点については、ヴァザーリも伝えているのは、ラファエロには野心があったという。つまり自分が枢機卿になりたいとの一念が結婚を避け通した理由であったそうだ。
(井出氏によれば、大それた野心で、現実的でもないので、何か他の理由があるのではと推測している。例えば、特定の女性に縛られない自由な身でいたかったとか、理想が高すぎて、本当に気に入った女性がこの世にいないとか)。
ラファエロは、友人のカスティリオーネにあてた1516年の手紙の中で、理想のモデルについて次のように語っている。
「一人の美しい女性を描くには、何人もの美しい女性を見て、閣下が私とともに選んでくださることが必要です。しかしそう美しい女性は多くありませんし、正しい鑑識眼も私にはありませんので、私は自分の頭にひらめく、ある『アイディア』を利用します」
この手紙を井出氏は、「ラファエロの描く美しいマドンナやヴィーナスは、彼の全女性体験が昇華された内的なイメージであり、一人のモデルからは理想の美は得られない」と解釈している。
そして、このラファエロの慎重な言葉の裏には、彼のマザー・コンプレックスが隠されていると推測している。つまり、早くから実母を亡くし、継母との確執があり、一人の女性に裏切られることへの恐れがあり、複数の女性から愛されていないと気が済まない苦労性の人格ができてしまったのではないかという。それは、ラファエロの芸術の折衷主義的で、影響を受けやすいところに通ずるとも、井出氏はみている。
(井出洋一郎『美術の森の散歩道』小学館、1994年、119頁~133頁)
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井出洋一郎『美術の森の散歩道―マイ・ギャラリートーク』 (小学館ライブラリー)
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