≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』≫
(2023年12月31日投稿)
この度、榧野尚先生から『反り棟屋根 第2号』という御高著をご恵贈いただいた。ここに記して深く感謝申し上げます。
添え書きには、90の坂を越えられたが、なんとか、この『反り棟屋根 第2号』の完成された旨が記されていた。
〇榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年4月28日
先生とお知り合いになったのは、私が1994年から約6年間、短大の非常勤講師を勤めていた時に遡る。だから、かれこれ四半世紀をこえることになる。
当時1990年代には、榧野尚(かやのたかし)先生は島根大学理学部助教授で、専門は数学で、極大フロー、調和境界、ロイデン境界などを研究しておられた。短大には、コンピューターのプログラミング関係の講義をなさっておられたように記憶している。
学問分野は異なったが、先生のお人柄の温かさと教養の広さにより、話を合わせていただき、懇意にさせていただいている。
榧野先生には、専門の数学の分野以外にも、次のような出版物もある。
〇榧野尚、阿比留美帆『みなしごの白い子ラクダ』古今社、2005年
(モンゴルの民話にもとづいた絵本。母親を金持ちの商人に捕まえられ、王さまのところにつれていかれ、ひとりぼっちになった白い子どものラクダの悲しみを描いたもの)
今回のブログでは、榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』(高浜印刷、2023年4月28日)
を紹介してみたい。
ご高著の問い合わせは、高浜印刷(〒690-0133松江市東長江町902-57 TEL.0852-36-9100)
にしていただければよいのではないかと思う。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
前回2021年1月25日に出版した『反り棟屋根』は、『反り棟屋根 第1号』とするという。
『反り棟屋根 第2号』は、出雲地方に限定して編集されたとする。
また出来る限り、『反り棟屋根 第1号』と内容が重ならないようにしたそうだ。
榧野尚先生の大好きな反り棟屋根は、第1号15ページの出雲市西林木町(鳶が巣城の近く)の反り棟屋根であるとし、再展示しておられる。(ただし、残念なことに、現在は見ることはできない)
第1章 松江市の反り棟屋根 第1節 松江市 美保関町
松江市 美保関町 寄棟(舟小屋)(1978/7/10)中海に沿ってこうした舟小屋が点々としてあったという。
(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、5頁)
第2章 出雲市の反り棟屋根 第17節 出雲市 斐川町
出雲市 斐川町直江 寄棟 瓦箱棟(1978/7/11) 見事な築地松
(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、63頁)
第4章 安来市の反り棟屋根 第20節 安来市 伯太町
安来市 伯太町安田 寄棟箱棟改装中(1996/4/28) 僅かに反りが認められるという(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、72頁)
数学者として高名な榧野先生が、なぜ反り棟屋根にご興味を抱かれたのか?
「はじめに」によれば、先生が反り棟屋根の記録写真を撮り始めるようになられたのには、あるきっかけがあった。それは、1975年8月、先生のご子息(当時小6)の夏休みの自由研究のテーマとして、東は米子市から西は大田市まで走り回り、約100枚の反り棟屋根の記録写真を撮られたことであるようだ。
それ以後、最近まで、出雲地方は勿論、東北地方から九州、沖縄まで、更に中国雲南から中国各地、台湾、ベトナム、韓国など、反り棟民家を訪ねて走り回られたそうだ。
反り棟民家のみならず、世界中の民家に興味を持たれた。
例えば、
・イランのカスピ海沿岸の稲作地帯の校倉[高床式米倉](1999/12/21、先生が撮影された年月日を示す)
・ネパールの草葺の屋根の農家(1998/12/22)
・ガーナの土壁丸い家(1997/7/21)
・モンゴル草原のゲル(2006/9/11)
※モンゴル語のゲルは建物を意味するだけでなく、家族、家庭も意味する。日本語の“家”が家族や家庭を意味するのと同じである。
・インドネシアの船型民家(1980)
その他には、次のものがある。
・イングランドのthatched house(写真未掲載)
・ジャバのロングハウス(写真未掲載)
・アメリカンネイティブのテント住居ティピ(写真未掲載)
このように、1975年から出雲地方の反り棟屋根の写真を撮り始められ、世界を股にかけて、民家の写真を撮り続けられた。先生の探求心の深さと視野の広さとフットワークの良さには、ただただ敬服するばかりである。
(榧野尚『反り棟屋根 第1号』高浜印刷、2021年1月25日発行、4~5頁)
出雲地方には反り棟屋根の伝統があったが、何時頃からこうした反り棟家屋が作られたかは不詳とのことである。
この冊子では、島根県出雲地方を中心に、1975年以来撮り貯めた反り棟屋根の記録を残しておきたいとのことである。
ところで、中国雲南省の昆明、麗江、大理付近には数多くの瓦であるが、反り棟がある。
鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書)には、祭祀場面桶形貯貝器(晋寧石塞山遺跡、前漢時代晩期)、人物屋宇銅飾り(同、前漢時代中期)の中にある家屋は反り棟で、鳥越氏はこの家屋は茅葺きであると断定している。当時この地方には、倭族の一王国滇(てん)国があった。BC100年頃のことである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられる。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)
(榧野尚『反り棟屋根 第1号』高浜印刷、2021年1月25日発行、6頁)
茅葺き反り棟屋根の民家には、郷愁を感じる。先生の写真集を拝見して真っ先に抱いた私の感想であった。実は昭和47年(1972)に祖父と父が瓦葺屋根の家を新築するまでは、私も茅葺き家屋に住んでいたからである。
さすがに囲炉裏はもうなかったが、幼少の頃、母が土間の竈で薪を燃やして、ご飯を炊いていた記憶はある。だから、「松江市玉湯町 入母屋 C型」(第1号、62頁)の写真を見た時など、まるで昔の我が家が写っているのではないかと錯覚したほどである。
今回、榧野先生の写真集を拝見して、いろいろなことを学ばせていただいた。例えば、次のような点が印象に深く残った。
〇茅葺きの家では、囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていたこと(第1号、5頁、187頁)
〇10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われたこと(第1号、5頁)
〇茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなったことが挙げられること(第1号、5頁)
〇映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくること!(第1号、86頁)
〇映画“用心棒(東宝、1961年)”の甲斐の国(山梨県)に反り棟の民家が出てくること(第1号、106頁)
〇映画“嵐に咲く花(東宝、1940年)”のワンカットに瓦屋根の反り棟水車小屋切妻(岩手県)が出てくること。福島県二本松市の戊辰戦争がその舞台であるそうだ(第1号、106頁)
〇北宋(960年-1127年)の末期に開封という街を描いた『清明上河図』と言う絵には、反り棟瓦屋根民居が点在していること(第1号、157頁)
〇出雲地方の人々は長い間、茅葺き反り棟屋根の民家に住んできたこと。
・不思議なことには、福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで反り棟屋根がないこと(第1号、187頁)
・島根県の東端(安来市清瀬町天の前橋)、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなること(第1号、78頁)
・反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと推測されること(第1号、187頁)
〇何よりも、反り棟屋根は中国雲南地方(滇池)で誕生したと考えられる点には、大変に興味を覚えた。
・その経路は、雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へ、それから日本へ広がったのではないかと想定できること(第1号、6頁、126~133頁、187頁)
【映画のDVD“砂の器(松竹、1974年)”はこちらから】
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榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる点について、私は照葉樹林文化論を想起した(榧野、第1号、2021年、128~129頁)。
例えば、佐々木高明氏は、『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』(NHKブックス、1982年[1991年版])において、照葉樹林文化について、次のように述べている。
照葉樹林文化は、日本を含めた東アジアの暖温帯地域の生活文化の共通のルーツをなすという立場に立ち、日本をとりまく西南中国から東南アジア北部、それにアッサムやブータンなどの照葉樹林地域で得られた多くの事例をとりあげて論じられた。
それは、稲作以前にまで視野をひろげて、日本文化のルーツを探究することでもあった。つまり、比較民族学、文化生態学、民俗学をとりこんで、日本文化起源論に新しい視点を提示した。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、16頁)
【佐々木高明『照葉樹林文化の道』NHKブックスはこちらから】
照葉樹林文化の道―ブータン・雲南から日本へ (NHKブックス (422))
≪照葉樹林文化論の特色≫
〇中尾佐助氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)のなかではじめて「照葉樹林文化論」を提唱した。それは、植物生態学や作物学と民族学の成果を総合した新しい学説である。弥生時代=稲作文化の枠にこだわらないユニークな日本文化起源論として位置づけられた。
〇ヒマラヤ山脈の南麓部(高度1500~2500メートル)に日本のそれとよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある。そこからこの森林は、アッサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに揚子江の南側(江南地方)の山地をへて日本の西南部に至る、東アジアの暖温帯の地帯にひろがっている。
⇒この森林を構成する樹種は、カシやシイ、クスやツバキなどを主としたものである。
いずれも常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので、「照葉樹林」とよばれる。
〇この照葉樹林帯の生活文化のなかには、共通の文化要素が存在する。
・ワラビ、クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法
・茶の葉を加工して飲用する慣行
・マユから糸をひいて絹をつくる
・ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて、漆器をつくる方法
・柑橘とシソ類の栽培とその利用
・麹(コウジ)を用いて酒を醸造すること
(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年。上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年)
・サトイモ、ナガイモなどのイモ類のほか、アワ、ヒエ、シコクビエ、モロコシ、オカボなどの雑穀類を栽培する焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたこと
・これらの雑穀類やイネのなかからモチ性の品種を開発したこと。そしてモチという粘性に富む特殊な食品を、この地帯にひろく流布させたこと。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年)
※このような物質文化、食事文化のレベルにおける共通性が、文化生態学的な視点から追究されてきた
【中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店はこちらから】
栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)
【上山春平編『照葉樹林文化』中公新書はこちらから】
照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))
〇この地帯には、比較民族学の立場から、神話や儀礼の面においても、共通の文化要素が存在していることが知られている。
・『記紀』の神話のなかにある、オオゲツヒメやウケモチガミの死体からアワをはじめとする五穀が生れたとする、いわゆる死体化生神話
・イザナキ、イザナミ両神の神婚神話のなかにその残片がみとめられる洪水神話
・春秋の月の夜に若い男女が山や丘の上にのぼり、歌を唱い交わして求婚する、いわゆる歌垣の慣行
・人生は山に由来し、死者の魂は死後再び山に帰っていくという山上他界の観念
(大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年)
このように、中国西南部から東南アジア北部をへてヒマラヤ南麓に至る東アジアの照葉樹林地帯にみられる民族文化の特色と、日本の伝統的文化の間には、強い文化の共通性と類似性が見出せる。
日本の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻み込んでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツをもつことがわかってきた。
こうして「照葉樹林文化論」は、有力な日本文化起源論の一つとみなされた。
東アジアの照葉樹林帯の文化を特色づける特徴の一つは、雑穀やイモ類を主作物とする焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたことである。
水田稲作は、この雑穀類を主作物とする焼畑農耕の伝統のなかから、後の時期になって生み出されたと考えられるようだ。
照葉樹林文化は水田稲作に先行する文化である。それは水田稲作を生み出し、稲作文化をつくり出す際のいわば母体になった文化であるとされる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、13~17頁)
このような照葉樹林文化論を考慮に入れると、今回、反り棟屋根の誕生の地を中国雲南省と想定しておられる、榧野先生の仮説は大変に興味深い。
(「第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生」(第1号、128~133頁)および「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(第1号、126~127頁)を参照のこと)
上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年[1992年版])において、照葉樹林文化のセンターとして、「東亜半月弧」という名称を提唱している。それは、南シナの雲南省あたりを中心として、西はインドのアッサムから東は中国の湖南省におよぶ半月形の地域をいう。
この名称は、西アジアの「豊かな三日月地帯」(Fertile Crescent)を意識して名づけられた。この有名な三日月地帯は、これまで世界農耕文化の一元的なセンターのように考えられがちだった。しかし、それは、ユーラシア西部の暖温帯、つまり地中海周辺を本来の分布圏とする地中海農耕文化のセンターとして相対化されるという。
(たとえば、「西亜半月弧」とでも呼びかえた方がふさわしい)
二つの半月弧の特質について、次のように要約している。
【西亜半月弧】
①沙漠地帯が森林に接するあたりの乾燥地帯のどまんなかに位置する
②地中海農耕文化のセンターをなしている
③この地中海農耕文化はムギを主穀とする
④農・牧混合の農耕方式をとる
⑤コーカソイド系の民族(白色人種)を主なる担い手としている。
【東亜半月弧】
①照葉樹林帯が熱帯林に接するあたりの湿潤地帯のどまんなかに位置する
②照葉樹林農耕文化のセンターをなしている
③この照葉樹林農耕文化は、初めはミレット(雑穀)を、後にイネ(ジャポニカ・ライス)を主穀とする
④牧畜をともなわない農耕方式をとる
⑤モンゴロイド(黄色人種)を主たる担い手としている。
農耕の成立は、人類史のプロセスを未開と文明に両分する大きなエポックを意味している。農耕の特質のうちに、農耕を基盤とする文明の特質がはらまれているにちがいない。そうだとすれば、ユーラシア大陸の西と東に展開された文明の特質を対比するためには、それぞれの文明が基盤としている農耕の特質を対比することが避けられない課題となってくるようだ。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、5~7頁)
照葉樹林文化のさまざまな要素として、日本人としても、ナットウ(納豆)、茶は身近なものである。
『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年)の中でも紹介されている。
照葉樹林文化の農耕が、巨視的にみて、焼畑農耕の形でスタートしたことは、共通の前提とみられている。
ダイズが焼畑の重要な作物である(のちにダイズは水田にアゼマメとして植えられる)。
ナットウ(納豆)の流布経路も、仮説センターから、日本のナットウ以外にも、ジャワのテンペ、ネパールのキネマといった形で伝わったそうだ(「ナットウの大三角形」と称されている)。
塩をたくさん与えて発酵させたナットウは、製法のプロセスの類型でいくと、ミソに接近してくる。ミソがはっきり出てくるのは、華北から日本であるという。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、128~130頁)
また、お茶というのは、照葉樹林文化における固い木の葉を食べる食べ方から出てきているとされる。いわゆる中国産の茶の原産地は雲南あたりを中心とした中国南部と考えられている。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、133~141頁)
【上山春平ほか『続・照葉樹林文化』中公新書はこちらから】
照葉樹林文化 続 (中公新書 438)
なお、ミソ状やモロミ状をしたもの、その他の大豆の発酵食品は、今日でも雲南省から貴州省をへて湖南省に至るいわゆる≪東亜半月弧≫の地域には豊富に存在している。例えば、雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)に「豆司」という大豆の発酵食品がある。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、127~131頁)
また、雲南といえば、アジアの栽培イネの起源の場所として注目されている。
アジアの栽培イネ(オリザ・サチバ)の起源の場所については、従来はインド中・東部の低湿地とされ、その際、インディカ型のイネがまず栽培され、後にそのなかからジャポニカ型のイネがつくり出されたと一般に考えられてきた。
ところが、戦後、インド亜大陸のなかでも辺境のアッサムやヒマラヤ地方、あるいは東南アジアや中国の僻地の調査が進められると、従来の「定説」とは異なる新しい説が出された。
そのなかで、渡部忠世氏は、アジアの栽培イネがアッサムから雲南に至る高地地域で起源したという学説を提唱した。
古い時代のイネを調べるのに、次のような面白い方法を用いたそうだ。
一般にインドや東南アジアでは、古建築に用いられる煉瓦は、泥にイネワラやモミを混入して焼かれることが多い。したがって、古い煉瓦のなかからイネモミを集め、その建物の年代と照合すると、そのイネモミの年代を知ることができるという。
このような方法によって、インドでは紀元前5、6世紀、東南アジアでは紀元後1、2世紀にまで遡る多量のイネモミを集め、それを計測して系統的な分類をすすめたそうだ。
すると、アジアのなかで、最も多くの種類のイネが集中しているのは、インド東北部のアッサム地方とそこから中国の雲南地方にかけての地域であることが明らかになった。
また、古代のイネの資料から古いイネの伝播経路を推定すると、その「稲の道」はいずれも、このアッサム・雲南の地域へ収斂することを見出した。
こうした事実にふまえて、「アジア栽培稲が、アッサム・雲南というひとつの地域に起源したという仮説」を提唱した。
そして渡辺忠世『稲の道』(日本放送出版協会、1977年)の「東・西“ライスロード考”」というエッセーのなかで、
「アジア大陸の稲伝播の道を追ってみると、すべての道が結局のところ、アッサム・雲南の山岳地帯へ回帰してくる。従来の常識とは異なって、インディカも、ジャポニカも、すべての稲がこの地帯に起源したという結論が導かれてくる」という。
そして「雲南もまた、アッサムと非常によく似たところが多い。複雑な地形といい、多様な種類の稲の分布といい、このふたつの丘陵地帯は古くから同質的な稲作圏を成立させてきた。両地域を結ぶきずなとなるのがブラマプトラ川である。この大河はアッサムを貫流してベンガル湾にそそぐが、その上流の一部は雲南省境に達している。
ブラマプトラ川のみでなく、メコン、イラワジの諸川、さらに紅河(ソンコイ川)や揚子江もまた、すべて雲南の山地に発している。ここに出発して、アジアの栽培稲は南へ、西へ、東へと伝播する。雲南と古くに稲作同質圏を形成していたアッサムは、西への伝播の関門であったのだ。アジアにおける稲の経路は、このようにして、大陸を縦横に走る複雑な流れであった」
【渡辺忠世『稲の道』日本放送出版協会はこちらから】
稲の道 (NHKブックス 304)
このように、渡部氏は、アッサム・雲南センターの特色を描き出している。このアッサム・雲南センターの地域は、照葉樹林文化の中心地域として設定した≪東亜半月弧≫の中核部と一致するのである。つまり、この地域は、照葉樹林文化を構成するさまざまな文化要素が起源し、それが交流した核心部に当る地域である。アジアの栽培イネも、そこに収斂する文化要素の一つであったとみることができる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、215~217頁)
反り棟屋根も、建築分野からみた照葉樹林の文化要素の一つであろうか? 今後の検証がまたれるところである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられた。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(第1号、6頁)
また、アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センターの問題に関して、この稲作との関連でいえば、茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった点を榧野先生が挙げられること(第1号、5頁)は、大変に示唆的であった。
≪参考文献≫
〇上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年[1992年版]
〇上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
〇佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]
(2023年12月31日投稿)
【はじめに】
この度、榧野尚先生から『反り棟屋根 第2号』という御高著をご恵贈いただいた。ここに記して深く感謝申し上げます。
添え書きには、90の坂を越えられたが、なんとか、この『反り棟屋根 第2号』の完成された旨が記されていた。
〇榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年4月28日
先生とお知り合いになったのは、私が1994年から約6年間、短大の非常勤講師を勤めていた時に遡る。だから、かれこれ四半世紀をこえることになる。
当時1990年代には、榧野尚(かやのたかし)先生は島根大学理学部助教授で、専門は数学で、極大フロー、調和境界、ロイデン境界などを研究しておられた。短大には、コンピューターのプログラミング関係の講義をなさっておられたように記憶している。
学問分野は異なったが、先生のお人柄の温かさと教養の広さにより、話を合わせていただき、懇意にさせていただいている。
榧野先生には、専門の数学の分野以外にも、次のような出版物もある。
〇榧野尚、阿比留美帆『みなしごの白い子ラクダ』古今社、2005年
(モンゴルの民話にもとづいた絵本。母親を金持ちの商人に捕まえられ、王さまのところにつれていかれ、ひとりぼっちになった白い子どものラクダの悲しみを描いたもの)
今回のブログでは、榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』(高浜印刷、2023年4月28日)
を紹介してみたい。
ご高著の問い合わせは、高浜印刷(〒690-0133松江市東長江町902-57 TEL.0852-36-9100)
にしていただければよいのではないかと思う。
榧野尚先生の『反り棟屋根 第2号』の目次は次のようになっている。
〇榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年4月28日
【目次】
はじめに
第1章 松江市の反り棟屋根
第1節 松江市 美保関町
第2節 松江市 枕木町、手角町、八束町、本庄町
第3節 松江市 朝酌町、東持田町、西持田町
第4節 松江市 下東川津町、西川津町
第5節 松江市 法吉町
第6節 松江市 大野町
第7節 松江市 秋鹿町
第8節 松江市 古曾志町
第9節 松江市 島根町、鹿島町
第10節 松江市 西忌部町、東忌部町
第2章 出雲市の反り棟屋根
第11節 出雲市 野石谷町
第12節 出雲市 河下町
第13節 出雲市 久多見町
第14節 出雲市 平田町
第15節 出雲市 口宇賀町
第16節 出雲市 大社町
第17節 出雲市 斐川町
第18節 出雲市 常松町
第3章 雲南市の反り棟屋根
第19節 雲南市 大東町
第4章 安来市の反り棟屋根
第20節 安来市 荒島町、広瀬町、伯太町
第5章 出雲地方周辺
第21節 大田市 三瓶町
第22節 広島県 三次市
第23節 鳥取県 米子市 南部町
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・「はじめに」
・特に興味をひいた写真
・榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ(第1号より)
・反り棟屋根について(第1号より)
・読後の感想とコメント(第1号の再録)
「はじめに」
前回2021年1月25日に出版した『反り棟屋根』は、『反り棟屋根 第1号』とするという。
『反り棟屋根 第2号』は、出雲地方に限定して編集されたとする。
また出来る限り、『反り棟屋根 第1号』と内容が重ならないようにしたそうだ。
榧野尚先生の大好きな反り棟屋根は、第1号15ページの出雲市西林木町(鳶が巣城の近く)の反り棟屋根であるとし、再展示しておられる。(ただし、残念なことに、現在は見ることはできない)
特に興味をひいた写真
第1章 松江市の反り棟屋根 第1節 松江市 美保関町
松江市 美保関町 寄棟(舟小屋)(1978/7/10)中海に沿ってこうした舟小屋が点々としてあったという。
(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、5頁)
第2章 出雲市の反り棟屋根 第17節 出雲市 斐川町
出雲市 斐川町直江 寄棟 瓦箱棟(1978/7/11) 見事な築地松
(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、63頁)
第4章 安来市の反り棟屋根 第20節 安来市 伯太町
安来市 伯太町安田 寄棟箱棟改装中(1996/4/28) 僅かに反りが認められるという(榧野尚『反り棟屋根 第2号』高浜印刷、2023年、72頁)
榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ(第1号より)
数学者として高名な榧野先生が、なぜ反り棟屋根にご興味を抱かれたのか?
「はじめに」によれば、先生が反り棟屋根の記録写真を撮り始めるようになられたのには、あるきっかけがあった。それは、1975年8月、先生のご子息(当時小6)の夏休みの自由研究のテーマとして、東は米子市から西は大田市まで走り回り、約100枚の反り棟屋根の記録写真を撮られたことであるようだ。
それ以後、最近まで、出雲地方は勿論、東北地方から九州、沖縄まで、更に中国雲南から中国各地、台湾、ベトナム、韓国など、反り棟民家を訪ねて走り回られたそうだ。
反り棟民家のみならず、世界中の民家に興味を持たれた。
例えば、
・イランのカスピ海沿岸の稲作地帯の校倉[高床式米倉](1999/12/21、先生が撮影された年月日を示す)
・ネパールの草葺の屋根の農家(1998/12/22)
・ガーナの土壁丸い家(1997/7/21)
・モンゴル草原のゲル(2006/9/11)
※モンゴル語のゲルは建物を意味するだけでなく、家族、家庭も意味する。日本語の“家”が家族や家庭を意味するのと同じである。
・インドネシアの船型民家(1980)
その他には、次のものがある。
・イングランドのthatched house(写真未掲載)
・ジャバのロングハウス(写真未掲載)
・アメリカンネイティブのテント住居ティピ(写真未掲載)
このように、1975年から出雲地方の反り棟屋根の写真を撮り始められ、世界を股にかけて、民家の写真を撮り続けられた。先生の探求心の深さと視野の広さとフットワークの良さには、ただただ敬服するばかりである。
(榧野尚『反り棟屋根 第1号』高浜印刷、2021年1月25日発行、4~5頁)
反り棟屋根について(第1号より)
出雲地方には反り棟屋根の伝統があったが、何時頃からこうした反り棟家屋が作られたかは不詳とのことである。
この冊子では、島根県出雲地方を中心に、1975年以来撮り貯めた反り棟屋根の記録を残しておきたいとのことである。
ところで、中国雲南省の昆明、麗江、大理付近には数多くの瓦であるが、反り棟がある。
鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書)には、祭祀場面桶形貯貝器(晋寧石塞山遺跡、前漢時代晩期)、人物屋宇銅飾り(同、前漢時代中期)の中にある家屋は反り棟で、鳥越氏はこの家屋は茅葺きであると断定している。当時この地方には、倭族の一王国滇(てん)国があった。BC100年頃のことである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられる。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)
(榧野尚『反り棟屋根 第1号』高浜印刷、2021年1月25日発行、6頁)
読後の感想とコメント(第1号の再録)
私の個人的感想
茅葺き反り棟屋根の民家には、郷愁を感じる。先生の写真集を拝見して真っ先に抱いた私の感想であった。実は昭和47年(1972)に祖父と父が瓦葺屋根の家を新築するまでは、私も茅葺き家屋に住んでいたからである。
さすがに囲炉裏はもうなかったが、幼少の頃、母が土間の竈で薪を燃やして、ご飯を炊いていた記憶はある。だから、「松江市玉湯町 入母屋 C型」(第1号、62頁)の写真を見た時など、まるで昔の我が家が写っているのではないかと錯覚したほどである。
今回、榧野先生の写真集を拝見して、いろいろなことを学ばせていただいた。例えば、次のような点が印象に深く残った。
〇茅葺きの家では、囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていたこと(第1号、5頁、187頁)
〇10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われたこと(第1号、5頁)
〇茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなったことが挙げられること(第1号、5頁)
〇映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくること!(第1号、86頁)
〇映画“用心棒(東宝、1961年)”の甲斐の国(山梨県)に反り棟の民家が出てくること(第1号、106頁)
〇映画“嵐に咲く花(東宝、1940年)”のワンカットに瓦屋根の反り棟水車小屋切妻(岩手県)が出てくること。福島県二本松市の戊辰戦争がその舞台であるそうだ(第1号、106頁)
〇北宋(960年-1127年)の末期に開封という街を描いた『清明上河図』と言う絵には、反り棟瓦屋根民居が点在していること(第1号、157頁)
〇出雲地方の人々は長い間、茅葺き反り棟屋根の民家に住んできたこと。
・不思議なことには、福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで反り棟屋根がないこと(第1号、187頁)
・島根県の東端(安来市清瀬町天の前橋)、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなること(第1号、78頁)
・反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと推測されること(第1号、187頁)
〇何よりも、反り棟屋根は中国雲南地方(滇池)で誕生したと考えられる点には、大変に興味を覚えた。
・その経路は、雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へ、それから日本へ広がったのではないかと想定できること(第1号、6頁、126~133頁、187頁)
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照葉樹林文化論に関連して
榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる点について、私は照葉樹林文化論を想起した(榧野、第1号、2021年、128~129頁)。
例えば、佐々木高明氏は、『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』(NHKブックス、1982年[1991年版])において、照葉樹林文化について、次のように述べている。
照葉樹林文化は、日本を含めた東アジアの暖温帯地域の生活文化の共通のルーツをなすという立場に立ち、日本をとりまく西南中国から東南アジア北部、それにアッサムやブータンなどの照葉樹林地域で得られた多くの事例をとりあげて論じられた。
それは、稲作以前にまで視野をひろげて、日本文化のルーツを探究することでもあった。つまり、比較民族学、文化生態学、民俗学をとりこんで、日本文化起源論に新しい視点を提示した。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、16頁)
【佐々木高明『照葉樹林文化の道』NHKブックスはこちらから】
照葉樹林文化の道―ブータン・雲南から日本へ (NHKブックス (422))
≪照葉樹林文化論の特色≫
〇中尾佐助氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)のなかではじめて「照葉樹林文化論」を提唱した。それは、植物生態学や作物学と民族学の成果を総合した新しい学説である。弥生時代=稲作文化の枠にこだわらないユニークな日本文化起源論として位置づけられた。
〇ヒマラヤ山脈の南麓部(高度1500~2500メートル)に日本のそれとよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある。そこからこの森林は、アッサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに揚子江の南側(江南地方)の山地をへて日本の西南部に至る、東アジアの暖温帯の地帯にひろがっている。
⇒この森林を構成する樹種は、カシやシイ、クスやツバキなどを主としたものである。
いずれも常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので、「照葉樹林」とよばれる。
〇この照葉樹林帯の生活文化のなかには、共通の文化要素が存在する。
・ワラビ、クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法
・茶の葉を加工して飲用する慣行
・マユから糸をひいて絹をつくる
・ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて、漆器をつくる方法
・柑橘とシソ類の栽培とその利用
・麹(コウジ)を用いて酒を醸造すること
(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年。上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年)
・サトイモ、ナガイモなどのイモ類のほか、アワ、ヒエ、シコクビエ、モロコシ、オカボなどの雑穀類を栽培する焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたこと
・これらの雑穀類やイネのなかからモチ性の品種を開発したこと。そしてモチという粘性に富む特殊な食品を、この地帯にひろく流布させたこと。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年)
※このような物質文化、食事文化のレベルにおける共通性が、文化生態学的な視点から追究されてきた
【中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店はこちらから】
栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)
【上山春平編『照葉樹林文化』中公新書はこちらから】
照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))
〇この地帯には、比較民族学の立場から、神話や儀礼の面においても、共通の文化要素が存在していることが知られている。
・『記紀』の神話のなかにある、オオゲツヒメやウケモチガミの死体からアワをはじめとする五穀が生れたとする、いわゆる死体化生神話
・イザナキ、イザナミ両神の神婚神話のなかにその残片がみとめられる洪水神話
・春秋の月の夜に若い男女が山や丘の上にのぼり、歌を唱い交わして求婚する、いわゆる歌垣の慣行
・人生は山に由来し、死者の魂は死後再び山に帰っていくという山上他界の観念
(大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年)
このように、中国西南部から東南アジア北部をへてヒマラヤ南麓に至る東アジアの照葉樹林地帯にみられる民族文化の特色と、日本の伝統的文化の間には、強い文化の共通性と類似性が見出せる。
日本の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻み込んでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツをもつことがわかってきた。
こうして「照葉樹林文化論」は、有力な日本文化起源論の一つとみなされた。
東アジアの照葉樹林帯の文化を特色づける特徴の一つは、雑穀やイモ類を主作物とする焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたことである。
水田稲作は、この雑穀類を主作物とする焼畑農耕の伝統のなかから、後の時期になって生み出されたと考えられるようだ。
照葉樹林文化は水田稲作に先行する文化である。それは水田稲作を生み出し、稲作文化をつくり出す際のいわば母体になった文化であるとされる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、13~17頁)
このような照葉樹林文化論を考慮に入れると、今回、反り棟屋根の誕生の地を中国雲南省と想定しておられる、榧野先生の仮説は大変に興味深い。
(「第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生」(第1号、128~133頁)および「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(第1号、126~127頁)を参照のこと)
照葉樹林文化論と東亜半月弧
上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年[1992年版])において、照葉樹林文化のセンターとして、「東亜半月弧」という名称を提唱している。それは、南シナの雲南省あたりを中心として、西はインドのアッサムから東は中国の湖南省におよぶ半月形の地域をいう。
この名称は、西アジアの「豊かな三日月地帯」(Fertile Crescent)を意識して名づけられた。この有名な三日月地帯は、これまで世界農耕文化の一元的なセンターのように考えられがちだった。しかし、それは、ユーラシア西部の暖温帯、つまり地中海周辺を本来の分布圏とする地中海農耕文化のセンターとして相対化されるという。
(たとえば、「西亜半月弧」とでも呼びかえた方がふさわしい)
二つの半月弧の特質について、次のように要約している。
【西亜半月弧】
①沙漠地帯が森林に接するあたりの乾燥地帯のどまんなかに位置する
②地中海農耕文化のセンターをなしている
③この地中海農耕文化はムギを主穀とする
④農・牧混合の農耕方式をとる
⑤コーカソイド系の民族(白色人種)を主なる担い手としている。
【東亜半月弧】
①照葉樹林帯が熱帯林に接するあたりの湿潤地帯のどまんなかに位置する
②照葉樹林農耕文化のセンターをなしている
③この照葉樹林農耕文化は、初めはミレット(雑穀)を、後にイネ(ジャポニカ・ライス)を主穀とする
④牧畜をともなわない農耕方式をとる
⑤モンゴロイド(黄色人種)を主たる担い手としている。
農耕の成立は、人類史のプロセスを未開と文明に両分する大きなエポックを意味している。農耕の特質のうちに、農耕を基盤とする文明の特質がはらまれているにちがいない。そうだとすれば、ユーラシア大陸の西と東に展開された文明の特質を対比するためには、それぞれの文明が基盤としている農耕の特質を対比することが避けられない課題となってくるようだ。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、5~7頁)
照葉樹林文化のさまざまな要素として、日本人としても、ナットウ(納豆)、茶は身近なものである。
『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年)の中でも紹介されている。
照葉樹林文化の農耕が、巨視的にみて、焼畑農耕の形でスタートしたことは、共通の前提とみられている。
ダイズが焼畑の重要な作物である(のちにダイズは水田にアゼマメとして植えられる)。
ナットウ(納豆)の流布経路も、仮説センターから、日本のナットウ以外にも、ジャワのテンペ、ネパールのキネマといった形で伝わったそうだ(「ナットウの大三角形」と称されている)。
塩をたくさん与えて発酵させたナットウは、製法のプロセスの類型でいくと、ミソに接近してくる。ミソがはっきり出てくるのは、華北から日本であるという。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、128~130頁)
また、お茶というのは、照葉樹林文化における固い木の葉を食べる食べ方から出てきているとされる。いわゆる中国産の茶の原産地は雲南あたりを中心とした中国南部と考えられている。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、133~141頁)
【上山春平ほか『続・照葉樹林文化』中公新書はこちらから】
照葉樹林文化 続 (中公新書 438)
なお、ミソ状やモロミ状をしたもの、その他の大豆の発酵食品は、今日でも雲南省から貴州省をへて湖南省に至るいわゆる≪東亜半月弧≫の地域には豊富に存在している。例えば、雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)に「豆司」という大豆の発酵食品がある。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、127~131頁)
アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センター
また、雲南といえば、アジアの栽培イネの起源の場所として注目されている。
アジアの栽培イネ(オリザ・サチバ)の起源の場所については、従来はインド中・東部の低湿地とされ、その際、インディカ型のイネがまず栽培され、後にそのなかからジャポニカ型のイネがつくり出されたと一般に考えられてきた。
ところが、戦後、インド亜大陸のなかでも辺境のアッサムやヒマラヤ地方、あるいは東南アジアや中国の僻地の調査が進められると、従来の「定説」とは異なる新しい説が出された。
そのなかで、渡部忠世氏は、アジアの栽培イネがアッサムから雲南に至る高地地域で起源したという学説を提唱した。
古い時代のイネを調べるのに、次のような面白い方法を用いたそうだ。
一般にインドや東南アジアでは、古建築に用いられる煉瓦は、泥にイネワラやモミを混入して焼かれることが多い。したがって、古い煉瓦のなかからイネモミを集め、その建物の年代と照合すると、そのイネモミの年代を知ることができるという。
このような方法によって、インドでは紀元前5、6世紀、東南アジアでは紀元後1、2世紀にまで遡る多量のイネモミを集め、それを計測して系統的な分類をすすめたそうだ。
すると、アジアのなかで、最も多くの種類のイネが集中しているのは、インド東北部のアッサム地方とそこから中国の雲南地方にかけての地域であることが明らかになった。
また、古代のイネの資料から古いイネの伝播経路を推定すると、その「稲の道」はいずれも、このアッサム・雲南の地域へ収斂することを見出した。
こうした事実にふまえて、「アジア栽培稲が、アッサム・雲南というひとつの地域に起源したという仮説」を提唱した。
そして渡辺忠世『稲の道』(日本放送出版協会、1977年)の「東・西“ライスロード考”」というエッセーのなかで、
「アジア大陸の稲伝播の道を追ってみると、すべての道が結局のところ、アッサム・雲南の山岳地帯へ回帰してくる。従来の常識とは異なって、インディカも、ジャポニカも、すべての稲がこの地帯に起源したという結論が導かれてくる」という。
そして「雲南もまた、アッサムと非常によく似たところが多い。複雑な地形といい、多様な種類の稲の分布といい、このふたつの丘陵地帯は古くから同質的な稲作圏を成立させてきた。両地域を結ぶきずなとなるのがブラマプトラ川である。この大河はアッサムを貫流してベンガル湾にそそぐが、その上流の一部は雲南省境に達している。
ブラマプトラ川のみでなく、メコン、イラワジの諸川、さらに紅河(ソンコイ川)や揚子江もまた、すべて雲南の山地に発している。ここに出発して、アジアの栽培稲は南へ、西へ、東へと伝播する。雲南と古くに稲作同質圏を形成していたアッサムは、西への伝播の関門であったのだ。アジアにおける稲の経路は、このようにして、大陸を縦横に走る複雑な流れであった」
【渡辺忠世『稲の道』日本放送出版協会はこちらから】
稲の道 (NHKブックス 304)
このように、渡部氏は、アッサム・雲南センターの特色を描き出している。このアッサム・雲南センターの地域は、照葉樹林文化の中心地域として設定した≪東亜半月弧≫の中核部と一致するのである。つまり、この地域は、照葉樹林文化を構成するさまざまな文化要素が起源し、それが交流した核心部に当る地域である。アジアの栽培イネも、そこに収斂する文化要素の一つであったとみることができる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、215~217頁)
反り棟屋根も、建築分野からみた照葉樹林の文化要素の一つであろうか? 今後の検証がまたれるところである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられた。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(第1号、6頁)
また、アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センターの問題に関して、この稲作との関連でいえば、茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった点を榧野先生が挙げられること(第1号、5頁)は、大変に示唆的であった。
≪参考文献≫
〇上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年[1992年版]
〇上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
〇佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]
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