歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《「ミロのヴィーナス」考 その6 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論》

2019-12-04 17:21:19 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その6 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論》

ハヴロック氏による古代ギリシャ彫刻史 ヴィーナス像の変遷――「クニドスのアフロディテ」を源流として




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【はじめに】


ハヴロック氏の『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』(すずさわ書店、2002年)は、「ミロのヴィーナス」を知るには、格好の書であり、精読・熟読されるべき良書である。
ハヴロック氏の直接の関心は、後期古典期の紀元前4世紀のプラクシテレス作「クニドスのアフロディテ」であるが、ヘレニズム期の様々なタイプのアフロディテ(ヴィーナス)像を幅広く考察対象としている。
私が本書を推奨する理由は2つある。欧米の研究史をきちんと整理し、学説史の展開を見事に行っている点がその推奨理由の一つである。そして、もう一つは、ヘレニズム期の捉え方に独自の主張が見られ、従来の停滞説に異議を唱えており、傾聴に値する点があることである。

随所で、「ミロのヴィーナス」には言及しているが、まとまって叙述しているのは、「第4章 その後:クニディアに触発された諸作品」の中で、6頁ほどである(109頁~114頁)。章名からもわかるように、「ミロのヴィーナス」をクニディア(=「クニドスのアフロディテ」)に触発された諸作品の一つとして、「ミロのヴィーナス」を位置づけている。
なお、この著作の表紙の写真に使われているのは、「ミロのヴィーナス」と同じくヘレニズム期に制作された「ロドス島のアフロディテ」である。すなわち「ロドス・タイプ」と呼ばれる「うずくまるアナデュオメネ」である(96頁参照のこと)。

「ミロのヴィーナス」を知るには、まず“外堀を埋める”必要がある。「ミロのヴィーナス」をより深く知るためには、その源流や、「ミロのヴィーナス」と同時代のアフロディテ像を探る必要がある。そのための最適の水先案内役を果たしてくれるのが、ハヴロック氏の著作である。

内容紹介にあたり、章立てに忠実に紹介していくより、このブログ記事のテーマに沿った形で、次のような執筆項目に従って述べていくことにする。
・【ハヴロックの関心と問題提起】
・<「クニドスのアフロディテ」について>
・<コントラポストのポーズについて>
・【ギリシャ美術史の捉え方】
・【ギリシャ美術史におけるプラクシテレスの位置】
・<クラーマーのヘレニズム彫刻研究について>
・【クニディア以外のタイプのアフロディテ像】
「カピトリーノ」と「メディチ家のアフロディテ:「恥じらいのしぐさ」
 うずくまるアフロディテ
 サンダルを履くアフロディテ、もしくはサンダルを脱ぐアフロディテ
 半裸のアフロディテ・アナデュオメネ(海から上がるアフロディテ)
 全裸のアフロディテ・アナデュオメネ
 ミロのヴィーナス
 アフロディテ・カリピュゴス(お尻のきれいなアフロディテ)

・【後期ヘレニズム時代の特徴】
・「クニドスのアフロディテ」について
・「デロス島のアフロディテとエロスとパンの群像」について
・「ミロのヴィーナス」
・【ハヴロックの著作のまとめ】
・【ハヴロックの著作を読んだ感想】

 なお、ブログの字数制限により、ハヴロック氏の著作内容の紹介と私のコメントを2回に分けて述べることにする。


【ハヴロックの関心と問題提起】


古代ギリシャ美術において、立体の、モニュメンタルな(実物より大きい)形式の女性の裸体という主題は、後期古典期(紀元前4世紀)の彫刻家、プラクシテレスによって始められたといわれる。
その作品は紀元前およそ350年にクニドス(小アジア南西端にあった古代都市)が購入した女神アフロディテの彫像であった。それは革新的なできごとであり、重要な結果をもたらした。プラクシテレスが古典的ギリシャ芸術に裸体のアフロディテという主題を導入したというだけではなく、彼の作品が後のギリシャの女神像に大きな影響を与えた。
それらの作品はその後ローマに受けいれられ、さらに広く流布した。このようにして、女性の裸体は、西洋塑造芸術の題材の主流となった。

「クニドスのアフロディテ」(通称クニディア)が、それ以降の発展の決定的な始まりだという仮説が正しいにしても、その「それ以降の発展」というのは、正確にはいつ始まったのかとハヴロックは問題を提起している。
多くの学者は、プラクシテレスの作った彫像が展示された直後、つまりヘレニズム時代が始まった紀元前300年頃と信じている。しかし、紀元前4世紀から3世紀にかけての美術・文学には全くクニディアの影響が見られない。クニディアの、あの独特で有名な右手のしぐさは、紀元前2世紀の終わりまで現れない。この点に、ハヴロックは疑問を抱いている。
つまり、これは単に現存している証拠がないだけなのか、それとも多分2世紀にも及ぶような長期のブランクを経て、「クニドスのアフロディテ」が再発見されたということか?
この疑問を解決するためには、クニディアをその作成時期である紀元前4世紀という文脈におく必要があるとハヴロックは主張している。クニディアの像はどう解釈されるべきで、当時の人々にはどのような意味があったのかを探る必要があるという。そのため、この像の原形を再現するように努め、ポーズや色使いや表面の仕上げ、頭の位置や手つきについて、ハヴロックは細かく考察していく。
また、プラクシテレスの造った像が、どんなに革新的だったかを知るために、ギリシャ美術における女神の裸体像と、裸体像の歴史についても考えている。

そして、ハヴロックの著作の主眼の一つは、プラクシテレスとその彫像に関して書かれた古代の文献が近代の学者によっていかに間違った読み方をされてきたかを指摘することにあるという。古代文献を近代の学者は誤って解釈してきたため、不幸にもプラクシテレスとその作品の両方が誤解され、低く評価されてきたと主張している。
ギリシャ美術の発展について記した古代の著者は、例外なくプラクシテレスを高く評価している。後期古代ギリシャ時代も下って紀元前100年頃にもなると、プラクシテレスのアフロディテ像の美しさを褒め称えた詩が現れる。
ただ、古代の著者の記述の中には、プラクシテレスが愛人フリュネをモデルにしてアフロディテ像を彫ったという逸話も見られる。この点、ハヴロックは、フリュネは主にフィクションの人物であり、プラクシテレスとの関係は彼の死後捏造された架空の物語であったとみなしている。
にもかかわらず、19世紀の終わりには、これらの物語や詩は、「クニドスのアフロディテ」の解釈の手だてとされ、この像の作られた紀元前4世紀の人々の感情を反映しているものと誤解されたと主張している。
古代でさえ、アフロディテとフリュネは同一視され、混同されがちであったが、プラクシテレスと高級娼婦との情事関係が倫理的に問題のあるものとは思われていなかった。ところが、19世紀にはそのような道徳観が倫理的に表面化し、プラクシテレスの作品評価にも影響したとみる(19世紀後半にはロダンが作品とモデルとの親密な関係により、似たような悪評にさらされたと付言している)。
(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、9頁~12頁)


<「クニドスのアフロディテ」について>


古代ギリシャ・ローマ時代にクニドスで神殿におさめられていた愛と美の女神アフロディテの像は、最も名高い彫像の一つである。彫刻家プラクシテレスによる、パロス島産の大理石を用いたこの彫刻は、おそらく彼の最盛期である紀元前360年から330年の間の作と考えられている。彼の愛人であった高級娼婦のフリュネがモデルをつとめたと言われていた。
残念なことに、「クニドスのアフロディテ」は現存していない。最後に像を見たという記録は、キリスト教時代の初期、コンスタンティノープルにあったラウソスの宮殿でのことで、紀元後476年に火事で焼失している。しかし、焼失前に作られた大小様々な複製があり、地中海沿岸のあらゆる地域で発見されている。

また原像のサイズについては、神殿に安置されていた崇拝対象ということを考えれば、おそらく等身大か少し大きめだったのだろう。ヴァチカンに現存するレプリカの一つである「コロンナのクニディア」は、2m4cmで、しばしば最も忠実なコピーと言われている。

プラクシテレスは、紀元前4世紀に「クニドスのアフロディテ」という、ギリシャ美術史上初めてのモニュメンタルな女性裸像を作り出すことになった。ただ、そのポーズについては、後述するように、すでにギリシャ美術で長い歴史をもつコントラポストという伝統的な型にこだわった。また、当時の手法に従い、控え目に彩色と金メッキが施されていた。

「クニドスのアフロディテ」について、現存するコピーのうち最もオリジナルに近いものは、ローマのヴァチカン美術館に2体とも一緒に所蔵されている。通称「コロンナのアフロディテ」と「ベルヴェデーレのアフロディテ」である(1933年、ブリンケンバーグの説)。
コロンナは1781年、ベルヴェデーレは1536年からの所蔵である。とりわけ、コロンナは紀元前4世紀の名作のオリジナルの再現だと一般に考えられている。
(ハヴロック、2002年、19頁、23頁、31頁、38頁、165頁原注20)。

<h3><コントラポストのポーズについて></h3>
「クニドスのアフロディテ」は、プラクシテレスの紀元前4世紀の中頃の作であるが、コントラポストのポーズが使われている。この重心を両脚に均等にかけない立ち方の作品は、ハヴロックによれば、遅くともアルカイック期の後半(紀元前490年頃)から出現している(コントラポストについては、高階、2014年、24頁~26頁。中村、2017年[2018年版]、150頁~151頁でも言及)。

コントラポストがその意味を最大限に発揮されている例は、紀元前5世紀の彫刻家ポリュクレイトスの「ドリュフォロス(槍を持つ人)」である。槍を携えた男性競技者の裸体像である「ドリュフォロス」は、紀元前440年頃の古典期の彫刻である(オリジナルの青銅像は、何世紀も前に消失しているが、ナポリに現存するローマ期の複製でも、その姿を知ることができる。国立考古博物館[ナポリ])。
プリニウスは、『博物誌』において、片脚に体重をかける像を初めて考案したのはポリュクレイトスだとしているが、それは誤りであるという。ただ、その作品「ドリュフォロス」は最も理論に沿った完全な形でコントラポストのポーズを表現したとして賞賛された。「ドリュフォロス」は動きと休息の間で微妙にバランスを保つ競技者の裸体像であるが、それはそのポーズの微妙なバランスとつり合いと同じように、中庸を表しているとされる。そして、その中庸こそがギリシャ思想の中核と解釈された。クラークは、ポリュクレイトスについて、知性的で一つの目的に対してひたむきな、「戦う知識人」と述べている。
コントラポストの話に立ち戻ると、パルテノン神殿の、パンアテナイア祭の祭典行列を表したフリーズに彫られた歩行者や奉仕者には、男女を問わず、コントラポストの立ち方をしている。その行列シーンに落ち着きと威厳と秩序を与えているのは、このコントラポストのポーズである。エレクテイオン神殿の女像柱(カリアティド)も、この立ち方をしている。このように、片側に重心を乗せた人物像は、古典期のギリシャ彫刻で発展を遂げた。後期ギリシャ時代はもちろんのこと、ローマ時代にもコントラポストは使われている。
カラカラ帝とその后プラウティラが紀元後211年から218年にかけてクニドスで鋳造されたコインや、キリキア地方のタッソスでマキシミヌス帝が紀元後235年から238年にかけて鋳造したコインでも、女神アフロディテは左右均等に重心を乗せて立っておらず、右脚で体を支えているコントラポストの典型例が見られる。
(ハヴロック、2002年、22頁、27頁~29頁。クラーク、1971年[1980年版]、56頁参照のこと)。

【ギリシャ美術史の捉え方】


ギリシャ・ローマ時代を通して、ギリシャ美術の発展・進化は、2通りの体系で捉えられてきたとハヴロックは説明している。
・1つ目の枠組みは、クセノクラテス(紀元前3世紀の彫刻家で、美術史の父とも呼ばれている)が考案したもので、大プリニウスの著作『博物誌』第34巻54章~65章)にその見解が刻まれている。
・第2のパラダイムは、ローマ時代のキケロ(紀元前106~49年)と、クィンティリアヌス(紀元後39~95年)の著作に残されている意見である(これらは、クセノクラテスやプリニウスのものより時代が下り、ギリシャ時代というよりもローマ時代の観点を反映している)

1つ目の枠組みについて
プリニウスによると、初期(アルカイック期)の美術は、「美術」と呼べるようなものから
は程遠い、「粗野な骨董品(rudis antiquitas)」の段階で、注目に値しないと考えていた。
その後、芸術家の技術は向上し、動きの表現や写実性が進歩したが、彫刻芸術が広がりを見せたのは、紀元前5世紀のフェイディアス以後であり、ポリュクレイトスの登場により洗練された。
ブロンズ彫刻から大理石彫刻に論が進むと、紀元前4世紀のプラクシテレスに敬意が払われている。さらに、ギリシャ美術の発展の体系において、プラクシテレスが、フェイディアスやポリュクレイトスより写実性に関して勝っているとする(最高傑作である「クニドスのアフロディテ」については、その名声から所在地にいたるまで、かなりの行数が割かれている)。

そして、リュシッポスは、発展の締めくくりにふさわしい巨匠として、その名前が挙がる。彼は、それまでの芸術作品に芽生えた特徴の数々を完成させ、円熟の域にまで達した人であるとする。自然を師と仰いだリュシッポスは、人物を写実的に、つまり「目に見えるままに」表現した。リュシッポスと同時代人で紀元前4世紀後半の画家アペレスは、プリニウスのお気に入りだったようだ。そこでプリニウスは、その後ほどなくして、「芸術はそこで停滞した(cessavit ars deide)」と言ったのである。

第2のパラダイムについて
キケロとクィンティリアヌスを代表とするローマ時代の批評家にとって、究極の理想は、写実性ではなく、威厳と美であったとされる。
だから、キケロにとって、その理想の極致は、紀元前5世紀に作られた偉大なる偶像、オリュンピアのゼウス像とパルテノンのアテナ像である(『弁論家について』)。
この2つの像を作ったフェイディアスは、「何らかの人間のモデルを見て写生したのではなく、彼の内に宿った非凡なまでの美のヴィジョンを凝視した」芸術家である。また、その比率と美に対するこだわりが人間の体の理想像を生み出したとして、ポリュクレイトスをほめたたえた。
しかし、紀元前4世紀に入り、究めるべき目標が威厳からリアリズムへと移行するにつれ、発展は下り坂を迎えるとみる。クィンティリアヌスは、リュシッポスとプラクシテレス、アペレスについては、写実主義の巨匠として評価している(ただ、紀元前4世紀後半の彫刻家であるアロペケのデメトリオスについては、美を二の次にして現実の模倣に走ったとして批判する)。

さて、これらの捉え方に対して、ハヴロックは次のようにコメントしている。
いずれの発展体系でも、プラクシテレスは、ギリシャ時代の頂点をなす規範的芸術家の一員と見なされている。とはいえ、クィンティリアヌスの評価では、神からのインスピレーションによって制作したフェイディアスや、数学の計算にこだわったポリュクレイトスよりも、プラクシテレスは、下位に位置する。
しかし、前者のクセノクラテスやプリニウスは、写実という究極の目標に向けて芸術を促進させたという点において、プラクシテレスを後者の2人よりも高く評価している。
どちらの体系においても、プラクシテレスは、目に見える現実や外界に深くかかわることにより、芸術家として大きく貢献したと捉えられている。
そして、古代にはプラクシテレスの作品が堕落しているとか、劣っているとかいう見方はなかったとハヴロックは強調している。
以上が、古代ギリシャ人やローマ人による、ギリシャ美術史の捉え方である。
(ハヴロック、2002年、51頁~52頁。)。


「監修者による補注」


プリニウスは、その後ほどなくして、「芸術はそこで停滞した(cessavit ars deide)」と言った。
「監修者による補注」(159頁)において、
監修者である左近司祥子(学習院大学文学部教授)は、プリニウスの『博物誌』の句の補注を付している。
すなわち、プリニウスの『博物誌』第34巻52章の冒頭に、「そこで芸術は停滞した(cessavit ars deide)」とある句に対してである。
正確には、次のようにあるという。
「リュシッポスは第113オリンピア期間(327~324年)、アレクサンドロス大王の時代にいた。、、、第121オリンピア期間(295~292年)にはエウチェキデス、、、がいた。そこで芸術は停滞した(cessavit ars deide)、第156オリンピア期間(156~153年)には生き返った」とある。
この句に対して、監修者は、次のような意見を述べている。
「アペレスとリュシッポスは同時代人であるので、ここにアペレスについての言及がなくてもリュシッポスの後ならアペレスの後とも言えるが、プリニウスの言いたかったのは、芸術の停滞は彼らのいた頃よりは50年ほど後だということではなかったのだろうか。著者の主張するようになるのかどうか、このあたりの年代決定が気になるところではある」と。
(ハヴロック、2002年、189頁)。

要点をまとめてみると、
・リュシッポスとアペレスは同時代人で、アレクサンドロス大王がいた第113オリンピア期間(327~324年)に生存していた。
・そしてプリニウスが言及した「芸術は停滞」は、アペレスとリュシッポスの生存していた年代から約50年後のことではないかと監修者はみている。
・プリニウスが主張する「芸術停滞」論が正しいかどうかは、その年代決定をする必要があるというのである。

【ギリシャ美術史におけるプラクシテレスの位置】


ギリシャ美術史では、段階的な形態上の発展という観点から、次の4つの区分に分類している。

1 アルカイック期(archaic phase) ―紀元前7世紀後半から6世紀まで
2 古典期(classic phase)     ―紀元前5世紀全体
3 後期古典期(late classic phase) ―紀元前4世紀
4 ヘレニズム期(Hellenistic phase)―紀元前300年から紀元前31年まで

この4つの段階は、「近代美術史の父」と呼ばれたヴィンケルマン(1717-68)の分類に基づいている(とりわけ『古代美術史』[1764年])。
彼は美術史、主に彫刻史の時代区分を次のように考えた。フェイディアスまでの美術が最古の様式で、「アルカイック様式」と呼ばれる。2番目は、フェイディアスによる卓越の域に達した様式で「荘重高尚様式」と呼ばれるべきもので、プラトンの理論に基づいた様式である。感覚の助けを借りずに美を具体化しており、高尚な洞察と巧みな想像力から生まれた理念のようなものである。紀元前5世紀にフェイディアスが作った「オリュンピアのゼウス像」と「パルテノンのアテナ像」は、威厳と美といった理想の極致が具体化されている。
3番目は、プラクシテレスからリュシッポス、アペレスの時代にかけて栄えた様式である。前の様式と同じく観念的ではあるものの、魅力や優美さも兼ね備えており、「美の様式」とも言える。
しかし、この様式の芸術家の流派を境に、ギリシャ美術は、4番目の模倣者の様式に向けて、下降線をたどり、しまいには「芸術は自ら没落するまでに打ちひしがれる」と捉える。すなわち、ヘレニズム期と呼ばれるギリシャ美術最後の段階の行く手には、すでに暗雲が立ち込めていたという説をヴィンケルマンは唱えた。
ただし、プラクシテレスはその没落を免れたという。プラクシテレスは、ギリシャ美術に適度な感情と官能性をもたらし、その発展に貢献した巨匠であると考えていた。
プラクシテレスが好んだ主題は、紀元前5世紀の彫刻家のそれとは対照的である。フェイディアスの場合、男性神の像が大半を占める。ポリュクレイトスは男性像を好み、作品は男性神や英雄や運動選手の像である。多作といわれるリュシッポスは神々や英雄の像、男性の肖像(特にアレクサンドロス大王)、男性の運動選手である。
それに対して、プラクシテレスが作った神々の像のうち、圧倒的多数は女神アフロディテであった。その他の大半も女性像で、デメテルやアルテミスやヘラといった女神像や、フリュネをはじめとする女性の肖像である。

しかしヴィンケルマンは、プラクシテレスの主題の多くは高尚な性格からは程遠いものと考えていた。ヴィンケルマンは、女性裸像やプラクシテレスの芸術を直接に攻撃はしなかったものの、男性像(特に男性裸像だけ)を向上志向のあるものとして尊重した。そのため、結果として、クニディアとプラクシテレスの評価の低下につながった(このバイアスは、後世の研究家の間に、根強く残った)(ハヴロック、2002年、52頁~55頁)。

<ベルヌーイの学説>


J・J・ベルヌーイの理論と視点は、プラクシテレスの革新的な彫刻の理解や、その他のアフロディテ像の解釈に大きな影響を与えた。
ベルヌーイは、プラクシテレス以後ギリシャ美術は急激に没落したというヴィンケルマンの考えを受けて、紀元前4世紀以後の作と推定された作品に、堕落と衰退の影を見出そうとする傾向があった。そのため、クニディアより後に作られたと考えられるアフロディテ像は、切り捨てがちであった。
ベルヌーイが、クニディアと、ローマの「カピトリーノのアフロディテ」、フィレンツェの「メディチ家のアフロディテ」を比較した際にも、このバイアスは顕著だった。クニディアが片手だけで身を隠しているのに対し、後の2体は伸ばした片手で胸を、下げたもう片手で下腹部を覆い、両手を使っている。
ベルヌーイは、この相違に注目する(ベルヌーイの美術史における信条は、ここで最大限に発揮されるとハヴロックはいう)。すなわち、プラクシテレスのアフロディテは、何も知らずに美しく、うっとりしているだけだが、カピトリーノとメディチの方からは、恥と自意識が読み取れるとベルヌーイは主張する。後の2体は、無垢なつつしみを表すクニディアとは違い、裸体であることがみだらで不道徳だと分かっているかのように、もっと体を隠そうとしているように思われるとする。
そして、その2体の腕の動作を「恥じらいのしぐさ」と命名した。つまり、カピトリーノとメディチの方は、見られていることを認識しているというのである。
また、メディチ家の像の場合は、水も、水がめも衣服もなく、髪はきちんと整いすぎているため、沐浴という裸になるための口実も用意されていない点にも注意を促している。
なお、この2体のどちらにも、クニディアの持つ理想美と近寄りがたさが感じられないことから、年代的に後のものであり、質的に劣っているとした(クニディア以後のアフロディテ像にまるわるベルヌーイの誤解の基盤は、このように形成されたというハヴロックは説明している)。(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、83頁~84頁)。

<クラーマーのヘレニズム彫刻研究について>


アフロディテ像の展開について、より系統的な分析をしたのは、ゲルハルト・クラーマー(G.Krahmer)である。彼はヘレニズム彫刻の進化に関する最初の包括的な理論を、1920年代に唱え、時代の様式を語る上での枠組みを提示した。
クラーマーは単体像と群像の両方の構成と動きを調べた結果、発達段階を三段階に分類することを提案した。
1 ヘレニズム前期(紀元前330~225年)
  抑制され、ポーズも控えめで、求心的な、「閉鎖的形態」が特徴である
2 ヘレニズム中期(紀元前225~150年)
  拡散的な構図とダイナミックな感情表現を用いた、「開放的形態」への段階的な傾倒によって特徴づけられる
3 ヘレニズム後期(紀元前150~75年)
  開放的な形態を引き継いでいるが、一面的な構成をとり、古典的色彩を次第に強めていく
クラーマーは、一体しかアフロディテ像の分析をしていないそうだ。それが、ルーヴル美術館所蔵の大理石像「ミロのヴィーナス」である。
クラーマーの方法論のうちで最も重要で、他に大きい影響を与えたのは、彫像のポーズと空間との密接な関係性の考察と、直線的な進化の強調である。クラーマーの発展の図式は、懐疑主義的な意見も招いたが、ヘレニズム期のものとされる個々のアフロディテ像の年代を特定しようとする際にも用いられることが多かった。クラーマーの様式論的枠組み・方法を最も包括的に用いたのが、D・M・ブリンカーホフ(D.M.Brinkerhoff)であった(1978年)。
ブリンカーホフは、ポーズの観点から分類できるアフロディテ像のタイプを挙げ、進化の過程で目立つ側面を説明している。「クニドスのアフロディテ」のヌードは、決定的な急変をもたらした「古典期最後の記念碑的作品」と位置づけ、その神性は保たれ、古典期の無垢は妨げられずに済んでいるとする(「アルルのアフロディテ」と「カプアのアフロディテ」は、紀元前5世紀特有の威厳をはっきり現しているため、ブリンカーホフの時系列の中では最初に位置するそうだ)。
しかし、ヘレニズム時代になると、徐々にわざとらしく官能的効果を狙った表現で追随が始まる。「カピトリーノのアフロディテ」では、体のねじりと、写実性と、空間の広がりが増しながら、クラーマーの定義するところの初期ヘレニズム様式の閉鎖的な形態と共存しているという。そしてブリンカーホフは、ヘレニズム期が進むにつれ、ゆっくりだが確実に女神の神性と距離感は失われていくと主張している(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、85頁~86頁)。


クニディア以外のタイプのアフロディテ像について


ハヴロックは、その著作の第4章「その後:クニディアに触発された諸作品」と題して、次のようなアフロディテ像を検証している。その一つに「ミロのヴィーナス」もある(ハヴロック、2002年、83頁~117頁)。


  •  「カピトリーノ」と「メディチ家のアフロディテ:「恥じらいのしぐさ」

  •  うずくまるアフロディテ

  •  サンダルを履くアフロディテ、もしくはサンダルを脱ぐアフロディテ

  •  半裸のアフロディテ・アナデュオメネ(海から上がるアフロディテ)

  •  全裸のアフロディテ・アナデュオメネ

  •  ミロのヴィーナス

  •  アフロディテ・カリピュゴス(お尻のきれいなアフロディテ)



「カピトリーノ」と「メディチ家のアフロディテ」:「恥じらいのしぐさ」


「カピトリーノのアフロディテ」は、1670年から76年の間に、ローマで発掘されたと伝えられ、1752年にカピトリーノ美術館に寄贈されている。
ヴィンケルマンは、この像のことをよく知っており、クニディアを模したものだと考えていた。そのころ、「カピトリーノのアフロディテ」は、「メディチ家のアフロディテ」のライバルだったが、知名度は劣っていたそうだ。しかし、1762年にヴィンケルマンは、ローマの彫像の方が「フィレンツェの方よりいっそう女性である」と宣言している。
また、1797年から1815年まではルーヴル美術館に所蔵されていたが、ナポレオンの敗北によってローマに返還されたというエピソードもある。

「カピトリーノのアフロディテ」
さて、「カピトリーノのアフロディテ」は、紀元前2世紀にパロス産の大理石で作られた。左脚に体重を乗せ、掲げた腕と緩めた腕が正しく重心を取り合い、コントラポストのポーズを保っている。左手は恥部を覆っているが、右腕は乳房の下を通っている。クニディアよりは、若い女性のように見える。豊かな波打つ髪は高く結われ、スタイリッシュにひねってあるが、徐々に背中にこぼれ落ち始めている。左下には、背の高い優美な水かめが置かれ、その上には裾飾りのついた衣服が投げ出されている。
この有名な彫刻のオリジナルがいつ作られたかという意見はまちまちである。立ち方などが「クニドスのアフロディテ」にそっくりであるため、プラクシテレスの直弟子の手によるものと推定されてきた。ブリンカーホフは、クニディアと同時代と見なし、紀元前4世紀の巨匠スコパスの作と考えたり、またノイマー=ファウは、クニディアよりも緊張と恥ずかしさと不安を表現しているとして、紀元前300年前後に原型が作られたとする。その他にも、女神像の周りの空間などから、紀元前3世紀初頭と想定されたり、その解剖学的な写実性から紀元前2世紀とされたり、紀元前4世紀の慣習に倣った造りの頭部を持つ「ギリシャ時代後期かローマ時代前期の佳作」だとして紀元前1世紀とする研究者もいる。

「メディチ家のアフロディテ」
一方、「メディチ家のアフロディテ」は、1638年にフィレンツェにあるメディチ家の別荘に置かれ、1688年には現在あるウフィツィ美術館に移されている。
しかし、ボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」の主役のモデルにしたことから、15世紀後半には他のコピーが既に知られていたことがわかる。
「カピトリーノのアフロディテ」と並んで、「メディチ家のアフロディテ」は、18世紀から19世紀にかけて名の知られた彫刻だった。ヴィンケルマンは「美しい夜明けに、朝日を浴びて花びらを開くバラのようだ」と言って、この像の初々しい美しさを絶賛した。
ケネス・クラークは、ギリシャの女性裸像が、どのように官能性と宗教性を兼ね備えていたかについて理解していた。しかし、クニディアの甘美でいて端正なポーズを賞賛していた一方で、プラクシテレスの像は、不幸な末路をたどったとも考えていた。「クニドスのアフロディテ」の場合、ありふれた並品の複製でさえ、「純潔さと穏やかな人間性」の名残があったのに対し、「メディチ家のヴィーナス」は「単なる応接間の装飾に過ぎない」ともいう。ヘレニズム期ギリシャ美術における女性裸体像という主題の歴史に、クラークが見たのはただ衰退のみだった。

ところで、「メディチ家のアフロディテ」像の左脚は、イルカと戯れる小さな2体のエロス像によって支えられており、女神が海で誕生したことがほのめかされている。彫刻を支える台座には、「クレオメネス、アテナイ市民、アポロドロスの息子」という彫刻家の名前が刻まれている。
そのポーズからは、カピトリーノと同様に、「メディチ家のアフロディテ」も、基本的にプラクシテレス作のアフロディテからヒントを得た作品だと考えられている。カピトリーノとメディチ家の像はどちらも、片脚に体重を乗せ、同じような両腕のしぐさを取っている。相違点と言えば、メディチ家の方が、頭を高く上げ、横向きの角度が鋭いことと、髪が短めで、シンプルに結ばれていることである。

次に、メディチ家の像の原型の年代についてであるが、これも意見の相違が著しい。例えば、メディチ家の像のオリジナルはプラクシテレスの理想と優美さに精通した弟子の手によるものであるとして、カピトリーノの像より1世紀前の、紀元前300年から280年までの間に作られたとする研究者がいる。
一方、メディチ家の頭部の鋭い角度を理由にして、カピトリーノよりも50年は新しいはずだと推定している研究者もいるし、カピトリーノのヴァリエーションに過ぎないと考え、後期ヘレニズム期のものだという説を提案している者もいる。
また、「メディチ家のアフロディテ」のコピーは38体、カピトリーノのコピーは101体あるといわれるが、その膨大な数のレプリカが、2つの別々のオリジナルに端を発しているものかどうか疑わしいとハヴロックは考えている。そしてメディチをカピトリーノのヴァリエーションとみなす見解を支持している。どちらのタイプのヴァリエーションも紀元前150年以前には作られていないことから見て、かりに両アフロディテがもしクニディアを模したものだとしても、かなり時代が経ってからの模作だとしている。

ところで、ルネサンスの画家は、恥じらいのしぐさをイヴやヴィーナスを描く際に用いており、その表現を通じて、古代彫刻の特質の理解を深めることができる。南ヨーロッパのボッティチェリやマサッチオから、北ヨーロッパのヤン・ファン・アイクやデューラーに至るまで、裸の人物のポーズが、メディチ家の像をはじめとする古代彫刻のタイプに基づいていることは明らかである。ただ、キリスト教美術におけるイヴやヴィーナスは、哀れだったり、悲嘆にくれたりしているのが特徴で、常に罪にさいなまれているように見える。
例えば、マサッチオの有名な「楽園追放」のフレスコ画においては、恥じらいのしぐさは、イヴのアダムに対する誘惑と、それによって生まれた罪の意識に関係があり、彼女の顔は苦痛にゆがみ、腕をぴったり体につけて、必死に片手で乳房を抱えている。

また、19世紀の新古典主義の彫刻家カノーヴァが、メディチ家の像をベースにて作製したアフロディテ像についても、相違点をハヴロックは認めている。1803年にカノーヴァは、エトルリア国の王に、「メディチ家のアフロディテ」の複製を作製するように命じられた。当時、「メディチ家のアフロディテ」は、ナポレオンによってカピトリーノと一緒に、パリに持ち去られていた。しばらくしてカノーヴァは独自のアフロディテ像「ウェヌス・イタリカ(イタリアのヴィーナス)」の構想に着手し、1811年に完成させた。このカノーヴァのヴィーナス像は、メディチ家の像と違い、大きな布をつかんで、下半身と片方の乳房を隠しながら、思いきり右[向かって右]を向き、肩をすぼめている。カノーヴァは、おそらくメディチ家の像の全裸の姿を受け入れ、その古代における意味合いを理解するだけの覚悟がなかったとハヴロックは推測している(ただし、肉感的でエロティックな色調は巧妙なドレープの扱いで表現された)(ハヴロック、2002年、83頁~95頁)。

「うずくまるアフロディテ」


「うずくまるアフロディテ」(ローマの国立博物館所蔵)は、1914年にティヴォリにあるハドリアヌス帝の別荘から出土した。この型は、既に16世紀にはローマで知られていた。ヴィンケルマンはメディチ家の別荘でこの型も見ていたようだ。跪くポーズはこの上なく訴えるものがあるとハヴロックはみている。そして洋梨形のどっしりした体、だらりとした乳房、腹部の周りの豊かな肉付きは、成熟した女性の体を、立像よりも率直に表現できたと推測している。製作者については、プリニウスの一節に則って、オリジナルはドイダルサスという彫刻家の手によるものであるとされていた(製作を命じたのは、プラクシテレスのアフロディテ裸像を買おうとしたニコメデス4世の先祖にあたる、ビテュニア国初代の王ニコメデス1世[紀元前247年没]であるとされた。しかし、その後、ドイダルサス説は疑問視された)。

ところで、このうずくまるタイプの作品は多いが、唯一の原型を再構築することは不可能である。一般的なタイプの特徴をよく表しているのは、「ロドス・タイプ」とよばれる「うずくまるアナデュオメネ」(ロドス島のアフロディテ)である。体の下に折り曲げられた右脚が体重の大半を支え、ひざを立てた左脚でバランスを取っている。

「うずくまるアフロディテ」のオリジナルの年代は、紀元前3世紀の中期から後期にかけてとされることが多い。この論は、ドイダルサスの作と見なす説を認めるか、クラ―マーの様式的時代区分を採用するかのどちらかに基づいているようだ。オリジナルの年代を紀元前250年直後とみなす研究者もいれば、紀元前3世紀後半の時代の徴候を示すと論じる人や、ヘレニズム初期の特徴だと論じる人もいる。また現存するコピーは紀元前200年より前のプロトタイプを模したものであるとする研究者もいれば、紀元前2世紀中ごろに活躍していたと考えられるポリュカルモスの作と仮定する研究者もいる。
そして「うずくまるアフロディテ」のコピーには、人物大のものから小像まである。ミュリナやデロスからは、後期ヘレニズム時代のテラコッタの作品も出土している。ブロンズ像も紀元前150年より前のものはない。ヴァリエーションに関しては、素材を問わず、ギリシャ後期よりもローマ時代の方に多く見られるそうだ(ハヴロック、2002年、95頁~198頁)。

「サンダルを履くアフロディテ」もしくは「サンダルを脱ぐアフロディテ」


このアフロディテの裸体像のタイプは、既に16世紀にはよく知られており、頻繁に用いられた。主題の性質からしてヴァリエーションの数は多く、180点ほどのレプリカをリストアップした研究者もおり、オリジナルの発見は難しいようだ。
中でも代表的なものは、スミュルナ出土とされるテラコッタ像(ボストン美術館蔵)である。紀元前1世紀に作られたこの作例は、最も美しく、保存状態もよいものとされている。少し傾いた頭はカーブした体と一緒になって流れるような線を描き、その丸みを生かして表面は控えめな仕上げである。もしかしたら、サンダルもあったのかもしれないが、今は残っていない。

沐浴に当たって最後に脱ぎ捨てるはずのサンダルを脱ぎかけているというのが定説だが、サンダルがない場合もある。三次元彫刻のレプリカでは、右脚で立っている方が多いが、左脚のこともある。木の幹や柱やヘルメス柱にもたれかかっていることもあるし、花冠を手に自分でバランスを取っていることもある。エロスやイルカや宝飾品やりんごの存在によって、アフロディテであることがはっきり示されている場合もある。

ベルヌーイは、沐浴の準備中に見えるというだけの理由で、この主題をアフロディテと見なした。なぜなら、オリュンポス神で沐浴といえばアフロディテだったから。ベルヌーイは、彫刻家が重視したのは女神の宗教的な意義よりも、女性が裸体であることと、このデザインの魅力や美しさだったと解釈した(ハヴロックもこのベルヌーイの見方に賛意を示している)。
「うずくまるアフロディテ」に比べると、体の回転が多く、より開放的な構図をしているとして、「サンダルを脱ぐアフロディテ」の原型は、クラーマー流にいえば、ヘレニズム最盛期のバロック期(紀元前230年から190年)に作られたものだと考えた研究者もいる。女神は、今や完全な俗世間にいることから、崇拝対象というよりも宗教的な供物として紀元前200年頃に考案されたとする研究者もいる。かと思えば、紀元前150年頃のルネサンスともいえる時期に創作されたものの一つだと見る人もあり、また「ロココ」的と称して、その創出は後期ヘレニズム期まで下るとする人もいる。

ハヴロックは、レプリカを分析する限りでは、「サンダルを脱ぐアフロディテ」のオリジナルが後期ヘレニズム期以前に存在したということを支持するデータはないに等しいと主張している。すなわち大理石像、ブロンズ像、テラコッタ像おいて後期ヘレニズム時代のものは存在するが、紀元前2世紀半ば(紀元前150年)よりさかのぼることはないという。後期ヘレニズム時代以前には、「サンダルを脱ぐアフロディテ」の立体彫刻は存在しなかった。
ただし、赤絵式ペリケなどに、サンダルを履く、もしくは脱ぐ女性の姿は、「うずくまるアフロディテ」の場合と同じように、ヘレニズム時代より前に描かれている。例えば、紀元前440年頃の、裸の女性が腰を曲げてサンダルを履く様子を描いた赤絵のペリケ(古代ギリシャのワインや水の容器)が、ルーヴル美術館に所蔵されている(ハヴロック、2002年、98頁~100頁)。

「アフロディテ・アナデュオメネ(Anadyomene、海から上がるアフロディテ)」


画家アペレスの名は、同時代の人プラクシテレス同様、古代を通じて知れ渡っていた。プリニウスの『博物誌』によれば、それまでのいかなる画家をも凌駕しており、絵画芸術に貢献した。優美さと線描の魅力を作品に吹き込むことに関しては、肩を並べる者がいなかった。彼の描いた馬の前に連れてこられた馬がいなないたというような、後世の逸話もある。
アペレスは肖像画も描いたが、プラクシテレス同様、恋多き男だったようだ。アペレスの最大の信奉者で顧客でもあったアレクサンドロス大王は、肖像画のモデルとなった自分の愛人パンカスペの美しい裸体に恋したアペレスに、パンカスペを与えたという。

さて、プラクシテレスもアペレスも、エレウシスでフリュネが服を脱ぎ、髪を解き、裸で海に向かった姿を見ていたという逸話がある。その時、アペレスは、コス島にあるアスクレピオスの聖域に備え付けるアフロディテ・アナデュオメネ(「海から上がる」の意)の板絵(プリニウスの『博物誌』にも記述)のモデルに彼女を使うことを思いついた。ただし、その作品については、紀元前4世紀にも、3世紀にも言及がない。ところが、プリニウスの時代になると、アナデュオメネがアペレスの代表作となったようである。

アペレスのアナデュオメネも一度はその評判に翳りを見せたが、ギリシャの風刺詩(エピグラフ)で褒め称えられることで、ついには名声を勝ち得たのだとプリニウスは述べている。プリニウスは、皆に愛読されていたヘレニズム時代後期のギリシャの著作が、忘れられていたいくつかの芸術作品に対する関心を復活させる役目を果たしたというのである。アペレスのアナデュオメネは、そういった再発見された芸術作品のうちの一つである。

そして、クニディアもそこに含まれるとハヴロックは主張している。
ヘレニズム時代後期にプラクシテレスのアフロディテ像に対する関心が復活するのと偶然時を同じくして、数々の風刺詩が流布するようになった。
アナデュオメネを賞賛する詩の代表は、紀元前125年頃に没したシドンのアンティパトロスのものであり、次のようにある。
 「アペレスの筆が生んだ作品をごらん。母なる海から上がったばかりのキュプリス(=アフロディテ)を、雫滴る髪を手でまとめ、濡れた毛束から泡を絞る、、、」
プラクシテレスのアフロディテ同様、アペレスの絵も後期ヘレニズム時代に再発見され、旅行者にとっての見所になった。
偶然なことに、二つの作品がその後たどった経過にも共通点がある。ニコメデス王は、クニディアと引き換えにクニドスの負債を帳消しにしようと申し出たが、アペレスの絵も同じような商品としてとらえられていた。皇帝アウグストゥスは、それをコス島からローマまで、船で運ばせ、神格化したユリウス・カエサルの神殿に奉納した。当時ローマの支配下にあったコス島は、その絵を差し出すことと引き換えに年貢の一部を免除してもらっていた。時が経つにつれ、絵は損傷を受けてしまった。

アペレスが描いたアフロディテから作られた彫刻像は、長年捜し求められてきたが、これといったものはないようだ。ただ、アフロディテ・アナデュオメネの彫刻作品としては、二大潮流が競い合っている。半裸の立像と全裸の像である。前者の代表例はヴァチカン美術館所蔵であり、後者のそれはコロンナ宮殿所蔵のものである(現存している複製では、全裸のものの方が半裸のものよりも多い)。

<半裸のアナデュオメネ>
ヴァチカン美術館所蔵の半裸のアナデュオメネ立像が最初に記録に上ったのは、18世紀にカルロ・アルバチーニの収集品としてである。そのとき、高く上げられた両腕などが大幅に修復されたそうである。このオリジナルの年代についての見解には大幅な違いがある。
紀元前3世紀初期とされたり、紀元前3世紀中ごろとされたり、ヘレニズム後期、とりわけ紀元前160年以後で「ヘレニズム期ロココ」の産物とされたりしている。ハヴロックは、サイズの大小や、素材が大理石か、ブロンズかテラコッタかということを問わず、後期ヘレニズム時代以前に作られたと断言できるとする。半裸のアナデュオメネのテーマによるヴァリエーションは存在しないと主張している。

<全裸のアナデュオメネ>
一方、コロンナ宮殿所蔵の全裸のアナデュオメネは、ローマで発掘された。この作品も、体重を左脚にかけ、左手の方を下げている。やはり髪を絞っているというよりは、まとめているしぐさである。この作品のように、イルカが左脚にもたれかかっているコピーは他にも何点かある。このタイプは、ローマ東方州、特にビテュニアのコインに多く登場しているそうだ。

ちなみにイタリア・ルネサンスのヴェネツィア派の画家ティツィアーノが、アペレスの伝説の名画を意識していたことは疑うべくもなく、「アナデュオメネのヴィーナス」を描いたときには、コロンナの像と同じ型の古代彫刻をモデルとした。けれども、それもティツィアーノにとっては、数々のヴァリエーションを生み出したお気に入りのテーマである、化粧中の女性のみずみずしい美しさを表すための口実に過ぎなかった。
さて、全裸のアナデュオメネの製作年代についても定説を見ない。半裸のアナデュオメネを紀元前3世紀の半ばの創作と仮定して全裸のタイプを最低150年は下るものとみなす研究者がいるかと思えば、全裸のものは紀元前3世紀後半とされたり、紀元前2世紀半ばの彫刻家ポリュカルモスによるものであるとする説もある。

髪を整えたり洗ったりする女性というモティーフは、ヘレニズム期以前の美術、例えば紀元前4世紀の赤絵の小鉢などにも見られる。しかし、このタイプの彫刻の作例は、ヘレニズム時代後期に至るまで現われないとハヴロックはみている。その最古のものは、アレクサンドリア出土で、等身大より小さな大理石の群像のアナデュオメネで、現在はドレスデンにある。頭も腕もないが、左脚で立つそのポーズは穏やかである。その脇には海の怪物トリトンが女神に目を向けている。
また、クニディアと同じように、裸体のアナデュオメネもヘレニズム時代後期には劇画化されるようになる。ボルティモアにある紀元前2世紀後半のテラコッタ製レリーフは、矢筒を持ったエロスがアフロディテのポーズをまねている像である。
紀元前4世紀の画期的なクニディアに始まり、ヘレニズム時代の3世紀間を通して、アフロディテ彫刻は進化し続け、この直線的な発展における頂点となるのが、神体のアナデュオメネであると考えられてきた。

さて、後期ヘレニズム期のギリシャ美術(おおよそ紀元前150~131年)は、「グレコ-ローマン時代」と呼ばれることも多い。この時代の彫刻は、特定の様式で代表されるというよりも、様式の多様性で特徴づけられる。写実性を求めたり、気まぐれでエロティックな「ロココ」風を好んだりする彫刻家がいた。また、第三の潮流として、以前の芸術へ回帰し、過去の単なる模倣や、かつての名作の改訂をした彫刻家もいた。現存しているアフロディテ像の大半が、このカテゴリーに属すると考えられている。紀元前150年以降、目立った創造的な作品はほとんど作られておらず、彫刻家は需要に応えるため、クニディアや「うずくまるアフロディテ」、メディチ家やカピトリーノなど各タイプを模倣したり、変化を加えて、生産したと考える学者も多い。
ともあれ、女性裸体像の進化の歴史において、紀元前150年ころに重大な転換期が訪れたことは、方法論を問わず共通認識であるようだ。この転換期は、絶頂とか終焉とか見なされることが多い。
しかし、ハヴロックはこれを、新しい時代が始まり、ギリシャ美術史で初めて主流になった女性裸体像というテーマに、一流の彫刻家のクリエイティブな想像力が集結するようになった契機と捉えている。そこにはローマの領地が東方に拡大していたことも大きく関係していると主張している(ハヴロック、2002年、101頁~109頁)。

「アフロディテ・カリピュゴス(お尻のきれいなアフロディテ)」


アフロディテ・カリピュゴス(カリピュゴスKallipygosは、「美しい尻をもった」の意)は、16世紀のいつごろかに発見された。おそらく皇帝ネロが建てた黄金宮殿から出土したものとされるが、18世紀後半にはナポリに移されている(現・ナポリ国立博物館)。
ナポリに移される前には、アルバチーニによってかなりの修復と変更が加えられている。18世紀には、かなりこのタイプの模倣が多い。

ただ、ヘレニズム時代起源とされる彫刻の中でも、ここまで人々の顰蹙を買ったものはなかったようだ。自分の体を見せようと衣服をめくり上げる動作を女神の伝説的な沐浴に関連づけようとする試みは、古くからなされてきた。全身の構図がらせんを描いている。見方によっては、ヘレニズム期芸術における道徳規範の低下の前兆を描き出したという批判もある。

別の意見もある。このアフロディテ像は、ローマ時代のコピーであるが、18世紀にアルバチーニによって修復された際、ポーズが変えられたとする。正しいポーズでは頭がもう少し前向きで、視線を自分のお尻に向けていなかったと主張する学者もいる。ただ、この像に似た作品としてコス島から出た後期ヘレニズム時代の石灰岩の小レリーフがある。おそらくヘタイラ(高級娼婦)と思われる踊り子のポーズは、ナポリのカリピュゴスのポーズとほぼ同じであるようだ。
こうした点から、アフロディテ・カリピュゴスが、後期ヘレニズム時代、それも紀元前1世紀にローマ帝国がギリシャ世界を支配するようになってから、新しく創作された唯一のものであると考える別の学者もいる。ポーズは、沐浴とは関係がなく、挑発的に裸になっていることから、この作品の主題はアフロディテかもしれないが、モデルはヘタイラだったと推測している。
お尻をあらわにした女性像は、紀元前4世紀の壺絵にも見られ、また紀元前3世紀後半の宝飾芸術家も、女性の体をねじって背中を見せるデザインを好んで作っていたようだ。

結局、ハヴロックは次のように考えている。つまり、モニュメンタルな彫刻としてこのモティーフがより広くより官能的に作られるようになったのは、ヘレニズム後期である。ナポリにある等身大立体彫刻のアフロディテ・カリピュゴスに代表されるこのタイプが、ヘレニズム時代後期より前に創作されたものだとする確かな証拠は存在しないとハヴロックは主張している(ハヴロック、2002年、114頁~117頁)。

<ミロのヴィーナスとその評価>


1820年にメロス(ミロ)島で出土した「ミロのヴィーナス」は、ルーヴル美術館で、近代に作られた台座の上に高く据えられている。この像は、古代劇場から程近くのニッチのような場所で発見されたが、発掘された時に付いていたとされる台石には、おそらくメアンドロス川沿いのアンティオケ出身で、アレクサンドロスという彫刻家の銘が刻んであったとされる。その字体は大体紀元前120~100年ころのもので、後期ヘレニズム期の年代と合致している。さらに、この年代は、クラーマーの言うところの開放的様式と新古典主義的特性の混ざった、彫刻自体のもつ折衷様式とも一致している。
しかし、こうした統一的見解が出される前に、紆余曲折があった。例えば、1873年、スイスの考古学者ベルヌーイは、メロス島の女神について、ギリシャ美術の絶頂期、つまりヴィンケルマンの唱える紀元前5世紀の崇高様式か紀元前4世紀の美の様式との両者の間に属するものと考えた(J.J.Bernoulli, Aphrodite, Leipzig, 1873.)。
フェイディアス時代の完全に衣服をまとった大人のアフロディテと、プラクシテレスによるクニドスのより若い裸体の女神とのギャップを埋めるものだと結論づけた。ベルヌーイは、「ミロのヴィーナス」は現存する他の半裸の女神像と比べて、群を抜いてすばらしい彫像だと考え、その卓越した技術と理想は、パルテノン神殿の彫刻に比較されるのも当然と感じていたそうだ。ベルヌーイは、「凛とした美しさをもった女性」を「ミロのヴィーナス」像に見い出し、その清らかさはクニディアにも匹敵するとみていた。
それに対し、プラクシテレスの初期作品の複製と考えられることが多い「カプアのアフロディテ」は、ギリシャ時代のオリジナルである「ミロのヴィーナス」に基づく、無味乾燥なローマ時代の脚色であると主張した(ベルヌーイ説は、「カプアのアフロディテ」の捉え方に関して、クラーク説とも異なることがわかる。クラーク、1971年[1980年版]、119頁~120頁参照のこと)。

ベルヌーイは、この像が後期ヘレニズムの署名の刻印がある台座とともに発見されたことも知っていたが、パリに着くや否やその台座はなくなっていた(ルイ18世には巨匠プラクシテレスのオリジナルとして紹介されたため、古典期の年代と矛盾する台座の紛失は意図的だったのかもしれないともいわれる)。
ともあれ、ベルヌーイはクニディアや「うずくまるアフロディテ」よりも早く、紀元前4世紀の著名なスコパス一派の作品だろうと断言した(1964年の図録で、シャルボノーが言及していた学説)。

しかし、こうした一連の考察は、1893年、A・フルトヴェングラーによって完全に覆された。この間に台座のコピーが復元されており、作製年代は紀元前2世紀後半とした。
ただ、ヘレニズム芸術に対する偏見から、この彫像を劣った芸術作品としてみることしかできなかった。「カプアのアフロディテ」はもともと鏡に映った自分を堪能するための磨いた盾を手にしており、半裸であることの理由があったが、メロス島の女神は目的もなく淡々と柱に寄りかかっており、そのドレープはゆるく官能的に巻かれており、紀元前4世紀の固く引き締まった表情ではなく、弛緩した顔つきをしているとみている。
また、「ミロのヴィーナス」は芸術的にだけではなく、倫理的にも弱く、堕落しているという。そして、「カプアのアフロディテ」の方が「ミロのヴィーナス」よりもコピーの数が多いことから、古代には前者の方が高名であったと主張し、両者の関係を完全に覆した。要するに、ローマ時代のコピーである「カプアのアフロディテ」は、ギリシャ時代のオリジナルである「ミロのヴィーナス」よりも年代的にも美的にも勝っていると主張した。

一方、シャルボノー(1964年の図録で紹介されていたルーヴル美術館古代美術部長だった学者)は、「ミロのヴィーナス」のモデリングがしっかりしているのに、顔が弱々しく無表情なのは、ヘレニズム後期特有の宗教的熱意の欠如によるものと考えた。
ブリンカーホフは、「カプアのアフロディテ」は一つの一貫した内なるリズムに従っているが、メロス島の女神の内面には統一性がないと評した(D.M.Brinkerhoff, Hellenistic Statues of Aphrodite, New York, 1978.)。
ノイマー=ファウは、「ミロのヴィーナス」という作品は後世のローマ時代のコピーではなく、ギリシャ時代のオリジナルだと断言しながらも、紀元前2世紀後半以降作られた他のアフロディテ像と同様に、新しく創り出されたものではなく、「カプアのアフロディテ」に基づいて形が作られたためだろうとしている。衣服で半分覆われた「ミロのヴィーナス」は、その前の時期に作られた赤裸々なヌードのアナデュオメネに対する反発で、古典期のカプアの持つ引っ込み思案な感じや、内向的な控えめさへの回帰だろうと、ノイマー=ファウは結論づけた(W.Neumer-Pfau, Studien zur Ikonographie und gessellschaft Funktion hellenistischer Aphrodite-Statuen, Bonn, 1982.)。

当時、美術作品として偏見なしに、「ミロのヴィーナス」を評価したのは、ケネス・クラークだけだったようだ。この彫刻を、「小麦畑に立つ楡の木」のようだと感じていた。
両胸の間の距離と、胸から臍までの距離が等しいことから、クラークは幾何学の応用を感じ取っていた。クラークは「ミロのヴィーナス」が紀元前4世紀ではなく、後期ヘレニズム期という時代を体現しているという論もありうるのではないか、などとは疑いもしなかった(K. Clar, The Nude, London, 1956.)。

<ハヴロック説>


ともあれ、「ミロのヴィーナス」についてはまだ分かっていない点が多い。具体的な問題としては、次のようなものが提起できる。
・柱に寄りかかっていたのか?
・盾を持っていたのか?
・ローマ時代のコインに見られるように、アレスと一緒だったのか?
・りんごを持っていたのか?
これらの問題はいまだ解決されていないが、C・M・ハヴロックの考えを紹介しておく。ナポリの「カプアのアフロディテ」は「ミロのヴィーナス」の派生で、後世の作だという昔の考えに戻るべきだと彼は考えている。ポーズやドレープのあしらいには、両者を別のタイプだとする根拠が見出せないという。実際のところ、コス島で出土した小さな大理石のカプアのヴァリエーションは、「ミロのヴィーナス」の姿を復元するのに役に立つ。紀元前2世紀の後半から1世紀の前半に作られたその小像は、アフロディテがエロスとたわむれる姿を表しており、デロス島のパンとアフロディテとエロスの三人組の像と似た構図と活気をもっているとハヴロックは捉えている。
また次のような事実が明らかにされている。すなわち半裸の女性の彫刻は、どんなポーズのものであろうと、後期ヘレニズム時代以前にはほとんど見られなかった。現存する半裸のアフロディテやニンフやミューズの大理石像には、紀元前2世紀半ばより前の作と思われるものは存在しない。岩に腰掛けるか、片足を岩に乗せて立っている半裸の女性像は、特に後期ヘレニズム時代に特徴的な主題であるが、それ以前、紀元前4世紀ごろからこのタイプは散見されるものの、それは小規模のテラコッタの作品に限られているようだ。
また半裸の女性像は全裸の女性像より古くなければならないという手垢のついた議論は、「ミロのヴィーナス」の例には当てはまらない。そしてカプアの仲間と言える等身大の「アルルのアフロディテ」は、まだ若いプラクシテレスの手によるオリジナルのコピーではなく、紀元前1世紀にアテナイの舞台装飾のために新しく創り出されたものではないかともいわれている。
古代の円形劇場跡で発掘された「カプアのアフロディテ」は、アルルと同時期の作品で、数十年早い(やはり劇場そばで発見された)「ミロのヴィーナス」に触発された作品であるとハヴロックは仮定している。つまり「ミロのヴィーナス」は偉大な芸術作品であり、追随者というよりも主導者だったと考えている(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、109頁~114頁)

「ミロのヴィーナス」が1822年にパリに到着すると、より荒削りなカピトリーノやメディチ家の像の評判をくすませる人気となった。
ちょうどエルギン卿の尽力で、パルテノンの装飾彫刻がロンドンに到着したのと重なったため、フランス側は、自分たちが手に入れたばかりのメロス島の女神も、それと引けを取らない傑作だという主張に走ったようだ。
(それだけイギリスとフランスは列強同士で芸術分野でも張り合っていた。トルコ支配下のアテネで、英国大使エルギン卿によって、パルテノン神殿から大理石彫刻が剝ぎ取られて、大英博物館に所蔵されるまでの経緯については、朽木ゆり子『パルテノン・スキャンダル』(新潮選書、2004年、とくに7頁~133頁)に詳しい。大英博物館のパルテノン・ギャラリー(アテネのパルテノン神殿の大理石彫刻を展示)は、「エルギン・マーブル」(19世紀初頭、当時の駐トルコ英国大使エルギン伯爵の名前をとってつけた名称)と呼ばれてきた。エルギン卿とギリシャに同行する写生画家の候補として、後に世界的な風景画家となるターナー(当時24歳)の名があがっていたが、ターナーの方から拒否したという)。

永遠の理想の女性美を具現し、愛の女神にふさわしい官能性を生み出す古代美術の最高傑作の一つとして、目を見張るようにして見られた。その後、ロダン(1840-1917)もほめたたえ、1872年には、イギリスの批評家ウォルター・ペーター(1839-1894)が、この作品によって彫刻という芸術が「キリスト教時代の精神的象徴に向けて一歩」踏み出したと宣言している(ハヴロック、2002年、110頁)。




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