倉野立人のブログです。

日々の活動を みなさんにお伝えしています。

〈ホントは ネ ^^〉

2009-04-01 | インポート

3/31 Tue.  [本日の起床時刻:6:00 AM ]

クラちゃんのホントの誕生日 ^^)◇

今日は3月31日、三月最後の日です。

で、ここだけのハナシですが、どーやらワタクシ、この日がホントの誕生日のようなのです…。

当時は多くの家庭が自宅でオ産婆さんに取りあげられており、倉野家も同様でした。したがって出生届けは世帯主による「自己申告」だったそうです。

そんな中、1962年のこの日に産声を上げたタツトを前に、今は亡きオヤジ敬蔵は、3/31で届ければ「早生まれ」となり、その学年の‘尻尾,になって何かとハンディが生じるだろうからと、やや‘三味線を弾き,次年度の‘アタマ,となる4月2日に出生届けを出して「昭和37年度の子」にしちゃったそうなのです。

それをもってタツト少年の人生の「枠」は決められ、とりわけ学校生活においては、本来の同級生は「センパイ」に、本来の後輩が「同級生」になるという、数奇な(といえば大袈裟か^^)な人生を辿ることになったのでありましたァ~、ベベンベンベン ^^)

でも、今となってみれば、結果的に‘同級生,となった友達や、たまたま担任となった先生方とはイイ出会いをいただきましたので、オヤジの‘三味線,のおかげで、今の人間関係があるとなれば、ヨカッタと思いますヨ。

ただ、オヤジが心配した‘3月生まれのハンディ,は全く態勢に影響の出るものではありませんでした。

だって中学校の同じクラスに「渡辺サン」という、確か1963年3/30生まれの女子がいたのですが、メチャメチャ成績が良くて、丸一年センパイのはずのタツト少年はまるっきりかなわなかったのでした。

そんな融通(ゆうずう)の利いた時代はもう過去のこと、ほとんどが病院生まれの昨今は、誕生にも第三者の判定がなされ、‘三味線,などはもっての外(ほか)でしょうネ ^^;

あと、オフクロに聞いたのですが、タツトが生まれた前後は「浅間山の噴火」でエラく怖い思いをしたとのことです。

というのも、今は亡きオヤジ敬蔵は営林局に勤務していて、県内を数年ごとに転勤しており、私が生まれる前後は北佐久郡臼田町の官舎にいたそうです。

で、その頃は、何と浅間山の火山活動が活発だったそうなのです。

資料を見ると1958年から1965年にかけて、浅間山は頻繁に噴火を繰り返しています。

特に、兄が生まれ、年子(としご)の私を身ごもった1961年は「毎月数回~数十回に亘り噴火。かなりの範囲に噴石・降灰、行方不明者1名」とあり、相当なもののようでした。

当時の官舎が、浅間山からどの辺にあったかは、まだオフクロのオ腹にいたワタクシは知る由もありませんが(^^)、火山の噴火の音を間近に聞きながら、1歳にならずやの長男と大きいお腹を抱えた母栄子は、家を守りつつ不安な夜を過ごしたとのことでした。

またオヤジもオヤジで、早く帰ってやりゃーイイものを、その頃から左手が忙しくて(要するに飲むのが好きで)勤務が終わると佐久市の繁華街へ寄り道しては赤いカオで帰ってきたもんだ…と、今となっては笑い話で母栄子は語ってくれます。

…今日が、私の人生における「ホントのスタート」であったこの日に際し、今まで生きてきた人生を敢えて振り返るようなことはしませんが、またひとつの通過点を過ぎたことを節目にして、明日からまた、自分なりに精一杯の人生を送ろうと、プチ決意を固めた今日なのでした。

Dsc_0030

つきましても、誕生日の本当の意味は「親への感謝」に尽きるなァ・・・と、この日を縁に心の奥深~いところで、しみじみ感じた次第です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿