これは、人為であって、すでに人為ではない。
「棚じぶ」という有明海独特の漁法があって、その遺物なのだ。
「遺物」という表現も正しくない。
ただ使われなくなって久しく、風化にさらされながら「そこにある」ということだけなのだ。
ゆえに、これを「アート」と評価することもふさわしくない。
だが、茫々と広がる干潟やその向こうに立つ海苔養殖の棒杭、泥の海で跳ねる「ムツゴロウ」、西に傾き始めた太陽などを背景にこの風景を見ると、思わず
「美しい」
と嘆息するのだ。
「棚じぶ」の「じぶ」とは、「ジブクレーン」のジブを語源とするらしい。すなわち、斜めに突き出た腕を持つ巻き上げ式クレーンの意で、棚じぶは、その原理を応用した木造の大型漁具なのである。近辺の漁民が力を合わせて築造し、使い続けてきたものであろう。櫓の上に簡単な囲いと屋根を施して小屋の機能を持たせ、漁者はその中に入って、伸びた腕の先から吊り降ろされた四つ手網を干潟に下ろして、潮が満ちてくるのを待つ。そのまことに穏やかでゆったりと流れる時間が経過した後に、網を引き上げると、その中に種々の魚が入っているという寸法である。
その悠々たる「とき」を思う。
一方、この広大な干潟を満たす海のなかで、わさわざその中に入って漁獲される間抜けな魚たちの存在を思う。それほどにこの海は、魚種、魚の数ともに多い豊饒なる海だということだろうか。
同じ日、諫早湾干拓堤防、通称「ギロチン」を見た。通りがかった海沿いの道の脇に「干拓地」というバス停があり、その彼方に巨大な構築物が見えたので、行ってみたのだ。
多くを語る必要はない。
これは人為である。
そして醜悪である。
有明海の最奥部の諫早湾を巨大な堤防で仕切って干拓地とし、農業用地としたこの構造物を巡って、当事者と政治的な勢力などが激しい論争や政争、裁判などを続けていることを私は承知しているが、この堤防の端に立ち、外湾と内湾の海の色を見れば、内湾が死の海だということはひと目でわかる。
そして、堤防が締め切られ、海が遮断されてゆく時の光景を見て、地元の人がその構造物を「ギロチン」と呼んだ心象が理解できる。
沼のような内湾に比べ、外湾は青みがかった静かな波を立てていたが、一匹の巨きな鯛の死骸が浮いていた。ここも、「不自然」な海であることに変わりはない。
理不尽な「人為」を「自然」の状態に戻すこともまた「人為」である。
この日、私は行きずりの旅人でしかなかったが、そのことを目撃した以上、それらの経緯を見守り、記録し、発言することもまた、失ってはならない表現行為である。
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