日向ぼっこ残日録

移り気そのままの「残日録」

スーパースター待望

2006年01月12日 21時17分33秒 | 松井秀喜
野球は勝つことが目的ですが、それだけでは面白くありません。明らかな強さを持ったチームには「スーパースター」が必要です。日本球界でも同じでしょう。
1919年まで万年2部チームであった「ヤンキース」は、1920年、経営難に陥ったボストン・レッドソックスから「ベーブ・ルース」を12万5000ドルと30万ドルを超える負債の引き受けで譲渡を受けると、常勝軍団へと変貌した。次々とスーパースターを生み出して行った。
ベーブ・ルースは、1916年は、23勝12敗、9完封、防御率1.75、でワールドシリーズを制覇。1917年も、24勝13敗であったが、この年までは優秀な投手であった。しかし、打席でも非凡であることを示した。打率.325 安打数40のうち、11本は長打であった。1918年からは、外野手として出場することが多くなり、ヤンキースに移籍する前年の1919年は、出場130試合のうち17試合に登板しただけであった。打撃成績は、打率.322 114打点、29本塁打でホームラン王であった。レッドソックスは長い低迷を迎える(バンビーノ(ベイビーはベーブ・ルースのあだ名)の呪い:先年優勝するまで、85年も優勝できなかった)一方、ヤンキースタジアムは、「ベーブ・ルースの家」と言われた。
そして、ヤンキース移籍初年度1920年は、打率.376 137打点、150四死球、54本塁打。1921年は、打率.376 171打点、59本塁打と当時としては、驚くべき数字を残した。それは、薬物使用の選手に破られただけで、今でも追いつけないような数字のようだ。そして、ヤンキースは黄金時代を迎えた。
「ベーブ・ルース」(1895/02/06~1948/08/16)の生涯成績 
投手 94勝46敗、17完封、107完投。
打者 打数8399、安打2873、本塁打714、打点2213、三振1330、打率.342
そして、チェーンのようにスーパースターが現れた。
「ルー・ゲーリック」(生涯ヤンキース)筋萎縮症で引退し、37歳で死亡。生涯2164試合に出場するも、なんと、そのうち2130試合は連続出場である。
ルー・ゲーリック(1903/06/19~1941/06/02)の生涯成績
打数8001、安打2721、本塁打493、打点1995、打率はなんと.340 
「ジョー・ディマジオ」(生涯ヤンキース)56試合連続安打は今もメジャー記録。マリリンモンローと結婚。二人で来日。離婚するも、その死後も墓参りを続けたエピソードは有名。
ジョー・ディマジオ(1914/11/25~1999/03/08)の生涯成績
打数6821、安打2214、本塁打361、打点1537、打率.325
「ミッキー・マントル」(生涯ヤンキース)ジョー・ディマジオが引退すると、翌年からセンターを守った。スイッチヒッター。最高の飛距離と綺麗な放物線を画いた。
ミッキー・マントル(1931/10/20~1995/08/13)の生涯成績
打数8102、安打2415、本塁打536、打点1509、打率.298 

ヤンキースからスーパースターが姿を消すと、長い長い低迷期が訪れる。1965年から1994ねんまでの実に30年間に5回しかプレーオフに進出できなかった。そして、ジョー・トーレ監督の采配とデレク・ジーターに代表される、勝負強さで再び黄金期を迎えたが・・・。次々とFAの4番打者を迎えたが・・・スーパースターはいなかった。出でよ!スーパースター!(日本プロ野球でも、黄金期には煌めくごとくスーパースターがいた。沢村(大リーグを完封)がいて・・・川上(赤バット)、大下(青バット)、藤村(物干し竿)、西沢、別当・・・長嶋、王、村山、江夏・・・)ヤンキースの歴史はスーパースター抜きに語れない。次のスーパースターを待ち望んでいる。松井秀喜はホームランを打たねばならない。歴史に1ページを残すために。
参考:ヤンキースの欠番達
 1 ビリー・マーチン 監督
 3 ベーブ・ルース 外野手
 4 ルー・ゲーリック 1塁手
 5 ジョー・ディマジオ 外野手
 7 ミッキー・マントル 外野手
 8 ビル・ディッキー 捕手
 8 ヨギ・ベラ 捕手 (欠番制度が取り入れられたときに、8番が二人になった)
 9 ロジャー・マリス 外野手
10 フィル・リブトー 遊撃手
15 サーマン・マンソン 捕手
16 ホワイティ・フォード 投手
23 ドン・マッチングリー 1塁手
32 エルトン・ハワード 捕手
37 ケーシー・ステンゲル 監督、メッツでも37番で欠番
42 ジャッキー・ロビンソン 投手(黒人初の大リーガー、全チーム永久欠番)但し、1997年時点でつけていたヤンキースのマリアーノ・リベラは例外として認められている。 
44 レジー・ジャクソン 2塁手、アスレチックスの9番も欠番
49 ロン・ギドリー 投手
 

敵に塩を送った日

2006年01月11日 20時03分01秒 | 残日録
今日は、1567年1月11日(旧暦、新暦では2月10日前後)に上杉謙信が宿敵であった武田信玄に塩を送った日です。

甲斐(山梨)、信濃(長野)を支配下に置いていた「武田信玄」は、近隣と不可侵条約のように約束を交わしていたが、駿府(静岡)を支配していた「今川義元」が死んで、その子「今川氏真」が後を継ぐと紛争が起こってしまった。実力伯仲ゆえ、お互いにもたもたして、それぞれの国内が疲弊してきた。それを見ていた越後(新潟)の「上杉謙信」は、長年争っている宿敵にも関わらず、また、攻めようとすれば、武田信玄の兵力が2分されている絶好機であるのに、攻撃はしなかった。それよりも、困っている領民のために、塩を送ることにした。駿府も越後も塩が多く取れたが、甲斐も信濃も山国で武田信玄の領土は塩を他国から買っていたのです。宿敵に塩を送る行為は、長く称えられることになった。
現在の世相は、金を稼ぐことが最大の目的となって、弱いもの(会社)は、弱点を見つけられると、すぐにハゲタカの餌食になってしまう。考えられない規模の会社でも、あらゆる借金を駆使して、自分より大きいもの(会社)を飲み込んでしまうのだ。ライバルは、蹴落とせとなる。そこには「敵に塩を送る」ような、考えはないようです。
敵を後ろから攻めるという卑怯な戦法は、「恥の文化」が許さなかったのでしょう。「菊と刀」や「葉隠れ」は、武士の生き方として、心の模範解答でもあったのでしょう。

アイドル、先物買い

2006年01月08日 20時48分47秒 | 応援します!この人生!
      (3枚目の写真は入江紗綾(11))
可愛いですね。堀北真希(17)(1988/10/06生まれ、160cm b78 w58 h83 好きな食べ物 和食、スポーツ バスケットボール、特技 ピアノ)
「アイドルファンド」があれば買いたいものです。どんなふうに、成長するのか、はたまた変化するのか、この年齢は危うい部分も持っているので純粋さを失って欲しくないです。後追いで、ず~と見守りたい心境です。中国のネットで大人気の、「さあや」(入江紗綾)ファンの気持ちも分かるような気もします。

救いの手は自分の手

2006年01月07日 20時22分19秒 | 気まま日記
JR下関駅の放火は、住所不定、福田九右衛門(74)の放火であった。「腹が減って、むしゃくしゃして、やった」世の中に閉塞感が充満している。こんなに年齢を重ねる前に、自分を助ける努力が必要なんです。
閉塞感を打ち破るために、自分を見つめなおすために、「四国八十八ヶ所」は有名だ。自分探しのための道場のようにも見える。「同行二人(弘法大師と二人旅)」で、ひたすら歩き、般若心経を唱えて、一段高い自分を見つけようとするのです。そこには、誰かにすがるというより、もがき、這い上がろうとする、崇高な精神があるようです。
人生に行き詰まり、一度観光地の「お寺」にでも行ってみようかと、訪れた「山寺」【山形県、比叡山別院、宝珠山立石寺(りっしゃくじ)】に登り、途中の各院の半紙などに書かれた人生訓や格言に、自殺を思いとどまった人の話をテレビで見ました。仏教は、中国からの伝来なので、「孔子」や「孟子」かと思ったら、なんとそれらに混じり西洋の哲学者の名言などもあり多彩であるようです。それらは、墨書きでガラス窓などに無造作に張られているようです。そして、仏教の最終目的である極楽浄土へは自殺では行けないと諭しているようなものが多いとのことです。
「全てが失われようとも、まだ未来が残っている」(ボヴィ)

あらゆる宗教が、懺悔や身を投げ出す行為や断食や・・・で、救いを求めているように思えても、最後はどの宗教も、「自分を(心の闇にいる)救い出す、手を差しのべるのは、なんと自分の手だと言っているようです」

貴方も観光地でもある「立石寺」や「投入れ堂」や「永平寺」・・・・・を訪ねてみませんか。


山田柊羽(しゅう)ちゃん(生後10日)

2006年01月06日 18時20分04秒 | 応援します!この人生!
仙台市宮城野区東仙台の「光ヶ丘スペルマン病院」の産婦人科の病室に入り込んだ男(写真の似顔絵の男)が、「火事だ~!」と叫びながら、助けるそぶりで、山田斉(ひとし)さんの長男、柊羽ちゃんを連れ去った。

本当にやり切れない事件です。赤ちゃんが生まれたという喜びの絶頂から、思いも寄らぬ方法で、なんの関わりもない犯人が若いご夫婦に最大の苦痛を与えたんですから。一刻も早く助け出して下さい。お願いします。赤ちゃんは、他人の赤ちゃんでも本当に可愛い存在だ。ましてや、自分の赤ちゃんを目の前から攫われては、想像すら出来ない心痛でしょう。許せない。絶対に。
犯罪を社会の所為にしてはいけないんでしょうが、昔は(つい20年ほど前)誘拐という犯罪の罪の重さに、その行為をする歯止めが掛っていたように思います。しかし、近年は自動車でも高級車か軽四かという売れ方だし、国民アンケートでも「益々、所得格差は広がる」と大多数が答えている。物質の時代へと変化したのでしょう。映画「三丁目の夕日」は、40年程前の東京だが、人情の世界だった。隣人にお米や調味料が借りられた時代だ。それが今や隣人は敵の世の中にまで成り下がった。毒物カレー事件、ふとんおばさん、犬の鳴き声殺人事件、ピアノ騒音・・・・切がない。
そして、心の闇の時代へと・・・。「神が下りてきて、そうするように言った」と精神的に病んだ事件も多発している。

日本は旧型ロボットか?

2006年01月04日 21時04分36秒 | 気まま日記
ワシントンからの米政府高官の発言には驚きました。「サマワに駐留する日本の陸上自衛隊は、5月に活動を終了する」「日本の新しい役割について、今春から協議する」(メディアはもっと重大性のあるニュースにしてください)

今やロボットは、自立型に進化している。そして、駆け出すまでに自分をコントロールできるまでになった。
旧型は、有線か無線かの違いはあっても、「コントローラー」を必要としていた。日本は、戦後60年、発展していき、ついに世界の列強に仲間入りを果たそうとまでしています。(安保理事会の常任理事国になろうとも思っているようだ)それは、ロボットに例えてみると、図体が巨大化したロボットとも言えるでしょう。それなのに、残念なことに、近年ますます自立できない、コントローラーをアメリカが持っている状態に成り下がってきたようです。アメリカの在日本大使館は、年次計画書で日本の改革スケジュールを明確に書いている(日本語で)。これでは、次世代の子供たちが、アメリカのために戦争に行きそうで不安です。大勝した自民党に民社党が擦り寄るようで、ここにもブレーキがきかないようで、余計な心配でもできてきました。二大政党(拮抗した)を望みます。アメリカでもそうであるように。そして、アジア諸国の反感を買えば、アジア経済構想にも影響しそうで、心配にもなります。20億人を超える「インド」+「中国」を抜きにして日本には未来はないように思えるんですが、余計な心配でしょうか?

年賀状に思う

2006年01月02日 16時16分58秒 | 気まま日記
年賀状は毎年進化しますネ。ハガキのインクジェット用紙化が40%になり、その上、新しいお友達は「e.mail」という武器で写真を伴ってやってきますが、それでも昔のお友達は、手書きの年賀状が近況を知る唯一の手段です。印刷の年賀状でも行間や空いている白地の部分に、「逢いましょうか」とか「近況報告」などが書いてあると、本当にうれしい。奈良、三重、京都の三人は学校の同級生。卒業後一度も会ったことがない年賀状友達。たかだか、2~30Kmの場所に住んでいても、年賀状だけの友人もいる。東京の友人も同窓会で一度会ったきりだ。
それでも、逢えば、どんな話題が沸いてくるのか、楽しみにして、想像するだけでも懐かしいものです。世話焼きの「U.E君」への賀状にその旨書き足しました。(なんと、届いた賀状にも、同じような趣旨が書いてありました)
「ゲタを鳴らして、奴が来る。腰に手ぬぐいぶら下げて、学生服に染み込んだ男の匂いがやってくる。・・・・・・。あ~あ、今じゃ女房、子供に手を焼きながらも、生きている」吉田拓郎作詞・作曲、唄 かまやつひろし「我が良き友よ」 「青春時代」(メロディと歌詞)の世界だった。(男でも、女でも、輝いていた青春が懐かしいのは、年齢のせいでしょうか。その時見えなかった青春が今見えるんです)

子供のお嫁さんにどうかなと思っていた娘さんからの賀状は、なにか複雑だ(うれしいような、申しわけないような)。新しい学問や職業を求めたら切がないのに模索している。


年賀状

2006年01月01日 11時26分31秒 | 気まま日記
新年あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。
  新年が皆様にとって、希望の年でありますよう、祈念申し上げます。

今年は、kunio_nikkiは、紀貫之になります。
「をとこもすといふ日記といふ物を、をむなもして心みむとてするなり」(男がするという日記というものを、女でも、試みてみようとするものです)
「土佐日記」は、紀貫之(872?~945?)が土佐から京(京都)まで帰る道中に起きた出来事や思い出を書いた日記です。女性という設定で、平仮名で書かれています。後、女流文学や日記という文学に大きな影響を与えました。「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」などです。
現代で言えば、性別を偽ったブログというものでしょう。母親毒殺未遂の少女も男名前でブログを書いていました。