画像は埼玉県羽生市の大天白神社境内に所在する「堀田宮」(ほったぐう)です。
「堀田相模守生祠」として、羽生の文化財に指定されています。
“生祠”(せいし)とは、功徳のある人間を、生前から祀ったものです。
“堀田”とは佐倉城主の堀田氏のことであり、
大天白神社に所在するその碑には、正面に「堀田相模宮」、
横に「明和八年辛卯正月吉日箕沢村中」と刻されているのがわかります。
すなわち、明和8年(1771)に領主堀田正順(ほったまさなり)を祀った碑なのですが、
なぜ建立したのかは、由緒がないため不明です。
羽生・加須地方には、この堀田一族を祀った石宮が、
全部で10社あると言われています。
その内生前に祀られた生祠は、
「大天白神社」と羽生市藤井上組に鎮座する「香取神社」の2社しかありません。
(『羽生市史』では石宮全てを生祠としていますが、これは誤りです)
なお、文化財の指定を受けているのは、大天白神社の堀田宮のみです。
このことについて羽生市内の郷土史家さんは、「多くの堀田宮のなかで、
何故これだけが市の文化財に指定されたのか疑問に思う」と語っています。
なぜ、羽生・加須地方に堀田氏を祀った碑が多いのでしょうか?
それは羽生城の廃城と関係しています。
つまり、慶長19年(1614)に羽生城が廃されると、
羽生領はひとつの藩としてではなく、
各村によって異なった支配を受けることになってしまったのです。
同時の羽生領の支配体制は複雑極まりなかったと言えるでしょう。
例えば羽生市秀安村の領主が“旗本藤枝外記”であっても、
お隣の下羽生村は“岩槻藩”に属していたりと、
支配者が異なっていれば、当然納める年貢も違っていました。
まさに村の一歩外へ出れば、そこは“異界”だったのです。
簑澤村は当時「佐倉藩」に属していました。
領主の堀田氏の石宮が建立されたのはそのためです。
ところで、往時の複雑極まりない羽生領の支配体制は、
現在にも根強く影響を及ぼしていると言えます。
すなわち、羽生市内の統一性がいま一歩欠けているのは、
羽生藩としてひとつにまとまることがなかったからではないでしょうか。
高度経済成長期には、発展のためとはいえ、
由緒ある遺構や史跡を悉く破壊してしまったことは、
郷土愛なるものの希薄さを如実に示していると言えます。
もし慶長19年に羽生城が廃されず、ひとつの藩としてまとまっていたら、
もう少し歴史への認識は強かったかもしれません。
現在の忍城や騎西城のように“櫓”が建つとまでいかなくても、
由緒ある遺構がいまよりも残っていたことでしょう。
「歴史をないがしろにしては、新しい発展はない」というのがぼくの持論です。
失われてしまった遺跡や文書等は2度と戻ってくることはありませんが、
郷土の歴史を大切にし、後世へと語り継いでいきたいものです。
参考文献
羽生市教育委員会編『羽生市の文化財』
平井辰雄著『羽生郷土史 別巻』私家版
「堀田相模守生祠」として、羽生の文化財に指定されています。
“生祠”(せいし)とは、功徳のある人間を、生前から祀ったものです。
“堀田”とは佐倉城主の堀田氏のことであり、
大天白神社に所在するその碑には、正面に「堀田相模宮」、
横に「明和八年辛卯正月吉日箕沢村中」と刻されているのがわかります。
すなわち、明和8年(1771)に領主堀田正順(ほったまさなり)を祀った碑なのですが、
なぜ建立したのかは、由緒がないため不明です。
羽生・加須地方には、この堀田一族を祀った石宮が、
全部で10社あると言われています。
その内生前に祀られた生祠は、
「大天白神社」と羽生市藤井上組に鎮座する「香取神社」の2社しかありません。
(『羽生市史』では石宮全てを生祠としていますが、これは誤りです)
なお、文化財の指定を受けているのは、大天白神社の堀田宮のみです。
このことについて羽生市内の郷土史家さんは、「多くの堀田宮のなかで、
何故これだけが市の文化財に指定されたのか疑問に思う」と語っています。
なぜ、羽生・加須地方に堀田氏を祀った碑が多いのでしょうか?
それは羽生城の廃城と関係しています。
つまり、慶長19年(1614)に羽生城が廃されると、
羽生領はひとつの藩としてではなく、
各村によって異なった支配を受けることになってしまったのです。
同時の羽生領の支配体制は複雑極まりなかったと言えるでしょう。
例えば羽生市秀安村の領主が“旗本藤枝外記”であっても、
お隣の下羽生村は“岩槻藩”に属していたりと、
支配者が異なっていれば、当然納める年貢も違っていました。
まさに村の一歩外へ出れば、そこは“異界”だったのです。
簑澤村は当時「佐倉藩」に属していました。
領主の堀田氏の石宮が建立されたのはそのためです。
ところで、往時の複雑極まりない羽生領の支配体制は、
現在にも根強く影響を及ぼしていると言えます。
すなわち、羽生市内の統一性がいま一歩欠けているのは、
羽生藩としてひとつにまとまることがなかったからではないでしょうか。
高度経済成長期には、発展のためとはいえ、
由緒ある遺構や史跡を悉く破壊してしまったことは、
郷土愛なるものの希薄さを如実に示していると言えます。
もし慶長19年に羽生城が廃されず、ひとつの藩としてまとまっていたら、
もう少し歴史への認識は強かったかもしれません。
現在の忍城や騎西城のように“櫓”が建つとまでいかなくても、
由緒ある遺構がいまよりも残っていたことでしょう。
「歴史をないがしろにしては、新しい発展はない」というのがぼくの持論です。
失われてしまった遺跡や文書等は2度と戻ってくることはありませんが、
郷土の歴史を大切にし、後世へと語り継いでいきたいものです。
参考文献
羽生市教育委員会編『羽生市の文化財』
平井辰雄著『羽生郷土史 別巻』私家版
実は羽生と堀田氏は意外な関係があったのです。
『堀田家三代』とはなんだか面白そうな本ですね。
ぼくも「クニの部屋」を書き始めてから、書棚の奥で眠っていた本が、ゾンビの如く蘇ってくることがしばしばあります。
そんなとき「読んでおいて(買っておいて)よかった」と、ついしみじみ思ってしまいます。
(「堀田氏」に関する史料は少ないですが……)
文章を書くというのは、「読書量+α」ですね。
「このコメントが書けてよかった」との言葉は、共感を含めて嬉しいです。
>うっ、羽生はでてこない
いいですね(笑)
ぼくもいままで何度この声を上げてきたことか……
羽生領1万石を領した大久保忠隣や、
羽生に居住していた大久保彦左衛門忠教に関する本を開いても、
ほとんどが「うっ、羽生はでてこない」です。
それだけ重要視されていないということでしょうか……
堀田家に関してはあまり調べていないのですが、
虹さんが先にその声を上げて下さったので、
冷静にその世界に入ることができそうです。
羽生郷土資料館で催されているムジナモ展は、
明日8月20日で終わってしまいます。
月曜日のゼミに持っていきたいところなのですが、
いかんせん天然記念物なので、気軽に持ち出すことができません。
申し訳ないです。
またムジナモに関する展示がありましたら、
真っ先に虹さんにお知らせしますね。