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上杉謙信の命令で羽生城に派遣された“斎藤盛秋”は、
城が自落しても羽生に残った。
いわば、城の歴史を見てきた人物である。
この斎藤家の系譜に、非常に注目している一文がある。
それは羽生城主が「病死」したという情報だ。
戦国期最後の羽生城主は“木戸忠朝”(きどただとも)である。
天正2年(1574)に城が自落して以降、
羽生領は忍城の支配下となり、
城代として忍の者が入城していた(『成田系図』)。
そして、天正18年に成田氏は没落し、
関東に入府した徳川家康によって、重臣“大久保忠隣”が配置されるのである。
木戸忠朝の最期は謎に包まれている。
天正2年6月の上杉謙信の書状を最後に、歴史から忽然とその名を消す。
長子“木戸重朝”(きどしげとも)も父と同様に、
この書状以降に姿を消すのだ。
羽生城研究者の冨田勝治氏は、
戦死したのではあるまいかと述べている(『羽生城と木戸氏』戎光祥出版)
「蓑沢一城根元亡落記」や「木戸氏系図」、
「武陽羽生古城之図」の詞書などには羽生城主の戦死が記され、
名村八幡社には城主の子ども3人の戦死、
稲子村には城主の自刃という伝承もある。
このような手がかりの中、
「病死」と記すのは斉藤家系譜だけである。
ぼく自身は、この「病死」が真実ではないかと思っている。
羽生城自落前に木戸忠朝は病死、
長子の重朝は戦死したのではあるいまいか。
忠朝の生年月日は定かではないが、
天正2年当時は50歳近くと思われる。
重朝は約30歳。
上杉謙信と後北条氏の激しい戦渦に巻き込まれ、
羽生の地でこの世を去ったのである。
ちなみに、斎藤家系譜には忠朝の詳しい病については記されていない。
おそらく、緊迫する情勢に心労がたたり、体を壊したのだろう。
木戸忠朝の墓は現存していない。
忠朝が開基し家臣が再興したお寺に、羽生城主墓碑と伝わるものがあるが、
形態が奇妙であり、石を適当に積み上げたものと思われる。
しかし、『北武八志』には2基の「木戸氏墓」、
『埼玉群馬両県奇譚』には5基の「手負ふて死たる武者」の墓碑があったという。
このように、木戸忠朝の最期については謎が多く、
はっきりしたことはわからない。
しかし、斎藤家系譜に記された「病死」説は注目されるし、
家臣不得道可が忠朝を弔うために再興していることから、
その亡骸は羽生のどこかに眠っているに違いない。
城が自落しても羽生に残った。
いわば、城の歴史を見てきた人物である。
この斎藤家の系譜に、非常に注目している一文がある。
それは羽生城主が「病死」したという情報だ。
戦国期最後の羽生城主は“木戸忠朝”(きどただとも)である。
天正2年(1574)に城が自落して以降、
羽生領は忍城の支配下となり、
城代として忍の者が入城していた(『成田系図』)。
そして、天正18年に成田氏は没落し、
関東に入府した徳川家康によって、重臣“大久保忠隣”が配置されるのである。
木戸忠朝の最期は謎に包まれている。
天正2年6月の上杉謙信の書状を最後に、歴史から忽然とその名を消す。
長子“木戸重朝”(きどしげとも)も父と同様に、
この書状以降に姿を消すのだ。
羽生城研究者の冨田勝治氏は、
戦死したのではあるまいかと述べている(『羽生城と木戸氏』戎光祥出版)
「蓑沢一城根元亡落記」や「木戸氏系図」、
「武陽羽生古城之図」の詞書などには羽生城主の戦死が記され、
名村八幡社には城主の子ども3人の戦死、
稲子村には城主の自刃という伝承もある。
このような手がかりの中、
「病死」と記すのは斉藤家系譜だけである。
ぼく自身は、この「病死」が真実ではないかと思っている。
羽生城自落前に木戸忠朝は病死、
長子の重朝は戦死したのではあるいまいか。
忠朝の生年月日は定かではないが、
天正2年当時は50歳近くと思われる。
重朝は約30歳。
上杉謙信と後北条氏の激しい戦渦に巻き込まれ、
羽生の地でこの世を去ったのである。
ちなみに、斎藤家系譜には忠朝の詳しい病については記されていない。
おそらく、緊迫する情勢に心労がたたり、体を壊したのだろう。
木戸忠朝の墓は現存していない。
忠朝が開基し家臣が再興したお寺に、羽生城主墓碑と伝わるものがあるが、
形態が奇妙であり、石を適当に積み上げたものと思われる。
しかし、『北武八志』には2基の「木戸氏墓」、
『埼玉群馬両県奇譚』には5基の「手負ふて死たる武者」の墓碑があったという。
このように、木戸忠朝の最期については謎が多く、
はっきりしたことはわからない。
しかし、斎藤家系譜に記された「病死」説は注目されるし、
家臣不得道可が忠朝を弔うために再興していることから、
その亡骸は羽生のどこかに眠っているに違いない。
御寺院ご所蔵のものの中に「重朝代」と書かれているとのこと。
寛永9年ですと1632年であり、羽生城自落の1574年から約60年後ということになります。
木戸重朝の生年月日は定かではありませんが、上杉謙信の書状にその名が書き記されていることを考えればすでに元服しており、羽生城将の立場にふさわしい年齢だったことが考えられます。
1632年当時、木戸重朝が存命であっても、長寿であればおかしくはないと思います。
私自身は、重朝は羽生城自落の際に自害したと考えていますが、新たな可能性を示すものかもしれません。
ところで、小泉城を本拠とした富岡氏の中に重朝と名乗る者がいます。
ここでの考証は避けますが、富岡氏という路線もあり得るかもしれません。
あくまでも、ここでは思い付いたことを書き記しましたので、ご参考に留めていただければと思います。